本日は、JR片倉駅からスタート。
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2/12 8:54
本日は、JR片倉駅からスタート。
慈眼寺には、一昨日の雪が残っている。
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2/12 9:11
慈眼寺には、一昨日の雪が残っている。
トトロの倉庫があったて、思わず「いいね」。
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2/12 9:16
トトロの倉庫があったて、思わず「いいね」。
ちょっとコースを外れたらしい。高台に登り軌道修正。
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2/12 9:43
ちょっとコースを外れたらしい。高台に登り軌道修正。
大塚山の道了堂跡に出た。
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2/12 9:45
大塚山の道了堂跡に出た。
鑓水商人の大塚五郎吉が中心となって、浅草花川戸から道了尊を勧請して明治7年(1874)に創建。
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2/12 9:46
鑓水商人の大塚五郎吉が中心となって、浅草花川戸から道了尊を勧請して明治7年(1874)に創建。
八王子の糸商人らによって明治13年に建てられた「築礎碑」。峠を通る旅人や村内の安全のために大いに役立ったことなど記されている。
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2/12 9:46
八王子の糸商人らによって明治13年に建てられた「築礎碑」。峠を通る旅人や村内の安全のために大いに役立ったことなど記されている。
境内に色々建物があったようだが、今は、道了堂の礎石のみ残る。
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2/12 9:48
境内に色々建物があったようだが、今は、道了堂の礎石のみ残る。
古道の雰囲気を残す道をたどる。
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2/12 9:55
古道の雰囲気を残す道をたどる。
絹の道の入り口まで下りてきた。
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2/12 10:05
絹の道の入り口まで下りてきた。
絹の道資料館。生糸商人・八木下要右衛門の屋敷跡に建てられている。
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2/12 10:07
絹の道資料館。生糸商人・八木下要右衛門の屋敷跡に建てられている。
書院で、訪れてきた外国人をもてなした。明治時代の横浜居留地の外国人はこの辺りまで自由に来られた。
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2/12 10:08
書院で、訪れてきた外国人をもてなした。明治時代の横浜居留地の外国人はこの辺りまで自由に来られた。
当時の鑓水の風景と地名の由来を紹介していた。写真は、ベアドのものである。
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2/12 10:10
当時の鑓水の風景と地名の由来を紹介していた。写真は、ベアドのものである。
慶応元年(1865年)に建てられた御殿橋のたもとにある道標。東面に「此方はら町田 神奈川 ふじさわ」とある。
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2/12 10:22
慶応元年(1865年)に建てられた御殿橋のたもとにある道標。東面に「此方はら町田 神奈川 ふじさわ」とある。
永泉寺。明治17年(1884年)に本堂が火事で焼けたため、八木下要右衛門が母屋を寄進した。
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2/12 10:29
永泉寺。明治17年(1884年)に本堂が火事で焼けたため、八木下要右衛門が母屋を寄進した。
養蚕農家だった小泉家屋敷。入母屋造り、茅葺きの建物は明治11年(1878年)に再建されたもの。
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2/12 10:37
養蚕農家だった小泉家屋敷。入母屋造り、茅葺きの建物は明治11年(1878年)に再建されたもの。
藁ぶき屋根には残る雪。
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2/12 10:36
藁ぶき屋根には残る雪。
新しく開発された住宅地を越えていくと、小山内裏公園の脇に出た。
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2/12 10:56
新しく開発された住宅地を越えていくと、小山内裏公園の脇に出た。
町田街道をしばらく相原方面に歩く。
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2/12 11:22
町田街道をしばらく相原方面に歩く。
境川。武蔵の国と相模の国の境の両国橋を渡る。
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2/12 11:27
境川。武蔵の国と相模の国の境の両国橋を渡る。
牛久保家長屋門。昔、橋本宿があったこの辺り、面影を伝える屋敷がいくつかある。
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2/12 11:29
牛久保家長屋門。昔、橋本宿があったこの辺り、面影を伝える屋敷がいくつかある。
香福寺山門近くに徳本念仏塔。徳本上人は、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧。
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2/12 11:35
香福寺山門近くに徳本念仏塔。徳本上人は、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧。
香福寺本堂と樹齢400年の高野槇。
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2/12 11:37
香福寺本堂と樹齢400年の高野槇。
大山街道を歩いていく。
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2/12 11:41
大山街道を歩いていく。
IR横浜線の「大山街道踏切」。
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2/12 11:46
IR横浜線の「大山街道踏切」。
リニア新幹線の神奈川県駅(仮称)の工事で大山街道歩きは迂回。
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2/12 11:55
リニア新幹線の神奈川県駅(仮称)の工事で大山街道歩きは迂回。
ようやく見つけた「橋本の棒杭」(安政2(1855)年)。正面に「右大山みち」、右側に「北八王子道」、左側に「南あつぎ道」。
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2/12 12:26
ようやく見つけた「橋本の棒杭」(安政2(1855)年)。正面に「右大山みち」、右側に「北八王子道」、左側に「南あつぎ道」。
国道16号を渡り、しばらく歩いていくと河岸段丘崖の坂。大山が望める。
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2/12 12:53
国道16号を渡り、しばらく歩いていくと河岸段丘崖の坂。大山が望める。
下りきった六地蔵の交差点に道標。南方面に「漸進社」名が見える。昭和3年の御大典記念に地元の青年団によって建てられた。
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2/12 12:57
下りきった六地蔵の交差点に道標。南方面に「漸進社」名が見える。昭和3年の御大典記念に地元の青年団によって建てられた。
上九沢の梅宗寺。ここにも、地元の名主だった笹野家の屋敷にあった蚕影堂が移築されている。
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2/12 13:11
上九沢の梅宗寺。ここにも、地元の名主だった笹野家の屋敷にあった蚕影堂が移築されている。
新興住宅地を抜けて大地の畑に出たところ。住宅地の拡張か、この辺りはかつて桑畑が広がっていたはずだ。
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2/12 13:17
新興住宅地を抜けて大地の畑に出たところ。住宅地の拡張か、この辺りはかつて桑畑が広がっていたはずだ。
かつて桑畑であった畑の中をたどって、上大島の交差点に出る。
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2/12 13:31
かつて桑畑であった畑の中をたどって、上大島の交差点に出る。
上大島の集落のはずれにある諏訪明神。
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2/12 13:54
上大島の集落のはずれにある諏訪明神。
本殿の裏に蚕影堂がある。
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2/12 13:55
本殿の裏に蚕影堂がある。
一番低い段丘のへりを歩いていくと「大島中ノ郷のヤツボ」。
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2/12 14:20
一番低い段丘のへりを歩いていくと「大島中ノ郷のヤツボ」。
ヤツボとは、河岸段丘崖の湧水を溜めた場所のこと。飲料の取水や洗い場として利用されていた。
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2/12 14:22
ヤツボとは、河岸段丘崖の湧水を溜めた場所のこと。飲料の取水や洗い場として利用されていた。
大島の交差点北西角のコンビニの立っているところに、「漸進社」があった。漸進社は、日本最初の農民資本による共同生糸揚 返・共同販売のための製糸工場と言われる。
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2/12 14:42
大島の交差点北西角のコンビニの立っているところに、「漸進社」があった。漸進社は、日本最初の農民資本による共同生糸揚 返・共同販売のための製糸工場と言われる。
コンビニの隣に漸進社の創業記念碑があるというので、声をかけて案内してもらった。
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2/12 14:41
コンビニの隣に漸進社の創業記念碑があるというので、声をかけて案内してもらった。
漸進社の創業記念碑。 明治19 年6 月3 日に大貫友八氏ら 16名が発起 人となり大島村製糸漸進社の設立を神奈川県令宛に願い出たことが刻まれている。
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2/12 14:39
漸進社の創業記念碑。 明治19 年6 月3 日に大貫友八氏ら 16名が発起 人となり大島村製糸漸進社の設立を神奈川県令宛に願い出たことが刻まれている。
日々神社。時間がなく、お参りせず。御神体は近くの崖地にある俗称「かがみの滝」の水底から出たとされる1枚の鏡だそうだ。
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2/12 14:47
日々神社。時間がなく、お参りせず。御神体は近くの崖地にある俗称「かがみの滝」の水底から出たとされる1枚の鏡だそうだ。
大島水場のヤツボ。
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2/12 15:01
大島水場のヤツボ。
ヤツボには祠があり、竜が剣に巻き付いた倶利伽羅竜王がまつられている。
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2/12 14:58
ヤツボには祠があり、竜が剣に巻き付いた倶利伽羅竜王がまつられている。
日々神社のご神水。
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2/12 14:58
日々神社のご神水。
大島・古清水上組のヤツボ。
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2/12 15:08
大島・古清水上組のヤツボ。
現在はヤツボの保護と安全のために石が敷かれて水深が浅くなっている由。
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2/12 15:09
現在はヤツボの保護と安全のために石が敷かれて水深が浅くなっている由。
木の間から相模川。
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2/12 15:17
木の間から相模川。
ここも一面の桑畑だったろう。奥に2段目の断崖壁が整備されているのが見える。
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2/12 15:23
ここも一面の桑畑だったろう。奥に2段目の断崖壁が整備されているのが見える。
川岸近くまで下ってきた。「滝の渡し」跡。戦後、両岸にロープを張り、それを手繰りながら渡る針金渡しになり、昭和47年まで運航された。
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2/12 15:33
川岸近くまで下ってきた。「滝の渡し」跡。戦後、両岸にロープを張り、それを手繰りながら渡る針金渡しになり、昭和47年まで運航された。
烏山用水。この地を治めていた烏山藩が新田開発のため計画。地元で水車業を営んでいた江成久兵衛が完成させた。
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2/12 15:36
烏山用水。この地を治めていた烏山藩が新田開発のため計画。地元で水車業を営んでいた江成久兵衛が完成させた。
用水は再生されて、散策できるよう整備されていた。
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2/12 15:39
用水は再生されて、散策できるよう整備されていた。
田名八幡宮。1689年(元禄2年)の再建という社殿は立派だ。
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2/12 15:41
田名八幡宮。1689年(元禄2年)の再建という社殿は立派だ。
高田橋に出てきた。大山街道はここで相模川を渡った。
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2/12 15:52
高田橋に出てきた。大山街道はここで相模川を渡った。
九所の渡しの石柱と鮎供養塔が橋のたもとにあった。昭和35年(1960)頃まで、観光用の鵜飼いが行われていた。
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2/12 15:56
九所の渡しの石柱と鮎供養塔が橋のたもとにあった。昭和35年(1960)頃まで、観光用の鵜飼いが行われていた。
望地弁財天。明治11年(1878年)南光寺の森恵力師が、望地河原の一画に「望島殿」を設けて江島神社にあった本像を譲り受けて、養蚕守護としたという。昭和20年現在の地に再建。
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2/12 16:10
望地弁財天。明治11年(1878年)南光寺の森恵力師が、望地河原の一画に「望島殿」を設けて江島神社にあった本像を譲り受けて、養蚕守護としたという。昭和20年現在の地に再建。
南光寺山門脇に出羽三山供養塔。
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2/12 16:21
南光寺山門脇に出羽三山供養塔。
田名堀之内の蚕影山神社。明治末期に筑波の蚕影 神社から分霊を勧請したものという。
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2/12 16:37
田名堀之内の蚕影山神社。明治末期に筑波の蚕影 神社から分霊を勧請したものという。
ご神体の舟に乗った金色姫の木像がうかがえる。
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2/12 16:38
ご神体の舟に乗った金色姫の木像がうかがえる。
説明板。この地区では、養蚕開始の4月と終了する10月に金色姫の和讃を唱える行事が続けられている。
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2/12 16:38
説明板。この地区では、養蚕開始の4月と終了する10月に金色姫の和讃を唱える行事が続けられている。
近くに、養蚕農家の建物を活用した田名の民家資料館。
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2/12 16:43
近くに、養蚕農家の建物を活用した田名の民家資料館。
上溝に向かう途中の道路脇に二十三夜供養塔など。
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2/12 16:57
上溝に向かう途中の道路脇に二十三夜供養塔など。
JA相模原市の上溝支店の駐車場にある蚕影社(左)と蚕供養塔。創建は、大正年間か。
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2/12 17:28
JA相模原市の上溝支店の駐車場にある蚕影社(左)と蚕供養塔。創建は、大正年間か。
この農協敷地には、かつて組合製糸の工場があったと言われる。
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2/12 17:29
この農協敷地には、かつて組合製糸の工場があったと言われる。
黄昏の境川を渡り、上溝駅へ急ぐ。
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2/12 17:41
黄昏の境川を渡り、上溝駅へ急ぐ。
JR上溝駅で終了。足が棒のようだ。
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2/12 17:48
JR上溝駅で終了。足が棒のようだ。
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