記録ID: 7199834
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ハイキング
京都・北摂
地下鉄太秦天神川〜蚕の社、法金剛院、妙心寺、退蔵院、霊雲院、竜安寺、天皇陵(一条66、後朱雀69、後冷泉70、後三条71、堀川天皇73)
2024年09月06日(金) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:48
- 距離
- 5.0km
- 登り
- 119m
- 下り
- 68m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
蚕の社(木島坐天照御魂神祉)(コノシマニマスアマテルミタマ)
(右京区太秦森ヶ東町)
祭神 天御中主命、瓊々杵命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命
正式には木島坐天照御魂神社。
創祀時期は不詳。
かつてこの地の勢カ者であった秦氏ゆかりの神社で、平安時代には祈雨の神として信仰された。
本殿の右側にある摂社の養蚕神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。
境内には元糺の池があり、近年環境の変化により渇水状態になっているが、夏の土用の丑の日には動力で境内の水を汲み上げ池に水を流している。
この池に手足を浸すと、しもやけや脚気にならないという。
元糺の池に建つ三柱鳥居(三鳥居)は、明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から拝むことができる。
京都御苑内の厳島神社の唐破風鳥居と北野天満宮内の伴氏社の鳥居とともに京都三珍鳥居の一つである。
(京都検定テキスト)
(右京区太秦森ヶ東町)
祭神 天御中主命、瓊々杵命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命
正式には木島坐天照御魂神社。
創祀時期は不詳。
かつてこの地の勢カ者であった秦氏ゆかりの神社で、平安時代には祈雨の神として信仰された。
本殿の右側にある摂社の養蚕神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。
境内には元糺の池があり、近年環境の変化により渇水状態になっているが、夏の土用の丑の日には動力で境内の水を汲み上げ池に水を流している。
この池に手足を浸すと、しもやけや脚気にならないという。
元糺の池に建つ三柱鳥居(三鳥居)は、明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から拝むことができる。
京都御苑内の厳島神社の唐破風鳥居と北野天満宮内の伴氏社の鳥居とともに京都三珍鳥居の一つである。
(京都検定テキスト)
法金剛院
本尊 阿弥陀如来
律宗の寺院。
山号は五位山。
当地にあった右大臣清原夏野の山荘を寺に改め、双丘寺と称したのが起こり。
のちに文徳天皇が天安寺として建立した。
その後の沿革は不明だが、大治五年(一一三〇)には待賢門院が旧跡を再興し、現称となった。
弘安二年(一二七九)、円覚上人が再興して律宗に改宗。
「青女の滝」の名で知られる滝のある庭園は、平安時代の姿を残し、現存する同時代の滝石組としては最大の規模を誇る。
林賢が築き、徳大寺静意が長承二年(一一三三)に完成した。
国の特別名勝に指定されている。
本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)
⇒国宝
は院覚の作。
他に院派の仏師たちによって鎌倉時代に造立された十一面観世音菩薩坐像(重要文化財)などがある。
蓮の寺として知られ、夏には多種の蓮の花が咲く。
本尊 阿弥陀如来
律宗の寺院。
山号は五位山。
当地にあった右大臣清原夏野の山荘を寺に改め、双丘寺と称したのが起こり。
のちに文徳天皇が天安寺として建立した。
その後の沿革は不明だが、大治五年(一一三〇)には待賢門院が旧跡を再興し、現称となった。
弘安二年(一二七九)、円覚上人が再興して律宗に改宗。
「青女の滝」の名で知られる滝のある庭園は、平安時代の姿を残し、現存する同時代の滝石組としては最大の規模を誇る。
林賢が築き、徳大寺静意が長承二年(一一三三)に完成した。
国の特別名勝に指定されている。
本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)
⇒国宝
は院覚の作。
他に院派の仏師たちによって鎌倉時代に造立された十一面観世音菩薩坐像(重要文化財)などがある。
蓮の寺として知られ、夏には多種の蓮の花が咲く。
妙心寺
(右京区花園妙心寺町)
本尊 釈迦如来
臨済宗妙心寺派の大本山。
山号は正法山。
建武四年(一三三七)、花園法皇の発願で花園離宮を禅寺として開創。
開山は関山慧玄。
一時、応仁・文明の乱で荒廃していた諸堂を、住持の雪江宗深が細川勝元らの援助により再建。
その後、雪江の弟子たちが、景川宗隆の龍泉派(本庵龍泉庵)、悟渓宗頓の東海派(本庵東海庵)、特芳禅傑の霊雲派(本庵霊雲院)、東陽英朝の聖澤派(本庵聖澤院)の四派となって禅風を挙揚した。
従来妙心寺への入寺は、まず大徳寺(↓123頁)への入寺を必要としたが、永正年間(一五〇四〜二一)にこの慣例を破り、大徳寺の末寺的存在から独立、江戸時代には白隠慧鶴ら多数の禅傑を輩出、その法脈は臨済禅の本流となった。
本坊には主に十七世紀中頃に造営された堂宇が揃い、また四十六もの塔頭が東・北・西をとり囲み、大徳寺とともに禅寺の良好な寺観を保っている。
三門(重要文化財)は慶長四年(一五九九)の造営。
仏殿(重要文化財)は文政十年(一八二七)に新しく造り替えられたもので、禅仏殿の典型。
法堂(重要文化財)は明暦二年(一六五六)の造営で、それまでの法堂・仏殿兼用から独立した。
内部の鏡天井には狩野探幽による「雲龍図(八方にらみの龍)」が描かれている。
浴室(重要文化財)は、天正十五年(一五八七)に明智光秀の叔父密宗和尚が、光秀を追善するために建立したといい、明智風呂とも称する。のち、明暦二年に改建された。内部は設備がよく残る。
その他、大方丈・小方丈・庫裏・経蔵・直使門(いずれも重要文化財)などの建造物がある。
庭園は国の名勝および史跡。
また山内の塔頭を含む境内一帯は国の史跡に指定されている。
寺宝は、宗峰妙超(大燈国師・大徳寺開山)墨蹟二幅(ともに国宝)、関山慧玄墨蹟、花園天皇像(ともに重要文化財)など数多くが文化財に指定されている。
三幅対「達磨・豊干・布袋図」(重要文化財)は、達磨を中幅として、左幅に布袋、右幅に豊干を配したもので、左右の布袋と豊干は南宋末期の画家李確が描いた唯一の現存作として知られているが、中幅の達磨の作者は不明。
この他、海北友松の描いた「三酸・寒山拾得図屏風」、同じく「琴棋書画図屏風」、京狩野派の祖となった狩野山楽の描いた「文王呂尚・商山四皓図屏風」(いずれも重要文化
財)などの絵画がある。
また、黄鐘調の鐘として知られる「戊戌年」(六九八年)の銘のある梵鐘(国宝)がある。
(右京区花園妙心寺町)
本尊 釈迦如来
臨済宗妙心寺派の大本山。
山号は正法山。
建武四年(一三三七)、花園法皇の発願で花園離宮を禅寺として開創。
開山は関山慧玄。
一時、応仁・文明の乱で荒廃していた諸堂を、住持の雪江宗深が細川勝元らの援助により再建。
その後、雪江の弟子たちが、景川宗隆の龍泉派(本庵龍泉庵)、悟渓宗頓の東海派(本庵東海庵)、特芳禅傑の霊雲派(本庵霊雲院)、東陽英朝の聖澤派(本庵聖澤院)の四派となって禅風を挙揚した。
従来妙心寺への入寺は、まず大徳寺(↓123頁)への入寺を必要としたが、永正年間(一五〇四〜二一)にこの慣例を破り、大徳寺の末寺的存在から独立、江戸時代には白隠慧鶴ら多数の禅傑を輩出、その法脈は臨済禅の本流となった。
本坊には主に十七世紀中頃に造営された堂宇が揃い、また四十六もの塔頭が東・北・西をとり囲み、大徳寺とともに禅寺の良好な寺観を保っている。
三門(重要文化財)は慶長四年(一五九九)の造営。
仏殿(重要文化財)は文政十年(一八二七)に新しく造り替えられたもので、禅仏殿の典型。
法堂(重要文化財)は明暦二年(一六五六)の造営で、それまでの法堂・仏殿兼用から独立した。
内部の鏡天井には狩野探幽による「雲龍図(八方にらみの龍)」が描かれている。
浴室(重要文化財)は、天正十五年(一五八七)に明智光秀の叔父密宗和尚が、光秀を追善するために建立したといい、明智風呂とも称する。のち、明暦二年に改建された。内部は設備がよく残る。
その他、大方丈・小方丈・庫裏・経蔵・直使門(いずれも重要文化財)などの建造物がある。
庭園は国の名勝および史跡。
また山内の塔頭を含む境内一帯は国の史跡に指定されている。
寺宝は、宗峰妙超(大燈国師・大徳寺開山)墨蹟二幅(ともに国宝)、関山慧玄墨蹟、花園天皇像(ともに重要文化財)など数多くが文化財に指定されている。
三幅対「達磨・豊干・布袋図」(重要文化財)は、達磨を中幅として、左幅に布袋、右幅に豊干を配したもので、左右の布袋と豊干は南宋末期の画家李確が描いた唯一の現存作として知られているが、中幅の達磨の作者は不明。
この他、海北友松の描いた「三酸・寒山拾得図屏風」、同じく「琴棋書画図屏風」、京狩野派の祖となった狩野山楽の描いた「文王呂尚・商山四皓図屏風」(いずれも重要文化
財)などの絵画がある。
また、黄鐘調の鐘として知られる「戊戌年」(六九八年)の銘のある梵鐘(国宝)がある。
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浴室(重要文化財)は、天正十五年(一五八七)に明智光秀の叔父密宗和尚が、光秀を追善するために建立したといい、明智風呂とも称する。のち、明暦二年に改建された。内部は設備がよく残る。
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浴室(重要文化財)は、天正十五年(一五八七)に明智光秀の叔父密宗和尚が、光秀を追善するために建立したといい、明智風呂とも称する。のち、明暦二年に改建された。内部は設備がよく残る。
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【妙心寺塔頭】
退蔵院
本尊 観世音菩薩
応永十一年(一四〇四)に波多野出雲守重通が千本松原(下京区)に建立した。
開山は無因宗因。
寺地は転々として、応仁・文明の乱で焼失した後に、妙心寺
三十四世の亀年禅愉が現在地に復興した。
庭園は方丈(本堂・重要文化財)の西側を主庭とする枯山水庭園で、国の名勝および史跡。『都林泉名勝図会』には
狩野元信の作庭と記され「元信の庭」
と呼ばれている。
「瓢鮎図」(国宝)はわが国水墨画の創始者の一人如拙の代表
作としてよく知られている。
庭園の余香苑は中根金作の設計。
退蔵院
本尊 観世音菩薩
応永十一年(一四〇四)に波多野出雲守重通が千本松原(下京区)に建立した。
開山は無因宗因。
寺地は転々として、応仁・文明の乱で焼失した後に、妙心寺
三十四世の亀年禅愉が現在地に復興した。
庭園は方丈(本堂・重要文化財)の西側を主庭とする枯山水庭園で、国の名勝および史跡。『都林泉名勝図会』には
狩野元信の作庭と記され「元信の庭」
と呼ばれている。
「瓢鮎図」(国宝)はわが国水墨画の創始者の一人如拙の代表
作としてよく知られている。
庭園の余香苑は中根金作の設計。
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法堂(重要文化財)は明暦二年(一六五六)の造営で、それまでの法堂・仏殿兼用から独立した。
内部の鏡天井には狩野探幽による「雲龍図(八方にらみの龍)」が描かれている。
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法堂(重要文化財)は明暦二年(一六五六)の造営で、それまでの法堂・仏殿兼用から独立した。
内部の鏡天井には狩野探幽による「雲龍図(八方にらみの龍)」が描かれている。
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【妙心寺塔頭】
霊雲院
本尊 観音菩薩
狩野元信が逗留したため元信寺とも称する。
大永六年(一五二六)、大休宗休が師の特芳禅傑を勧請開祖として創建。
後奈良天皇は大休に参禅しており、御幸の間と呼ぶ書院(重要文化財)が残る。
庭園は書院の南面に位置する。狭い敷地に違山を想わせる立石数個を背景に、二段の滝流れ、白砂敷の川の流れによってあたかも絵を見るような構成の枯山水であり、相国寺の子建の作と伝える。
国の名勝および史跡。
霊雲院
本尊 観音菩薩
狩野元信が逗留したため元信寺とも称する。
大永六年(一五二六)、大休宗休が師の特芳禅傑を勧請開祖として創建。
後奈良天皇は大休に参禅しており、御幸の間と呼ぶ書院(重要文化財)が残る。
庭園は書院の南面に位置する。狭い敷地に違山を想わせる立石数個を背景に、二段の滝流れ、白砂敷の川の流れによってあたかも絵を見るような構成の枯山水であり、相国寺の子建の作と伝える。
国の名勝および史跡。
龍安寺
本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗妙心寺派。
山号は大雲山。
世界遺産(文化遺産)。
細川勝元が妙心寺の義天玄承を招いて宝徳二年(一四五〇)に創建。玄承の師である日峰宗舜を勧請開山とした。
有名な枯山水の石庭は、国の史跡および特別名勝。虎の子渡し、五智五仏、七五三の石組、心字の象形などと呼ばれ、自砂だけを敷き詰めて十五個の石を配置する。
作者・作庭年代などは不明。鏡容池を含む庭園全体は国の名勝に指定されている。
方丈(重要文化財)の北東にある茶室蔵六庵の前には、徳川光圀が寄進したという「吾唯足知」(吾唯だ足るを知る)の手水鉢が置かれている。
本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗妙心寺派。
山号は大雲山。
世界遺産(文化遺産)。
細川勝元が妙心寺の義天玄承を招いて宝徳二年(一四五〇)に創建。玄承の師である日峰宗舜を勧請開山とした。
有名な枯山水の石庭は、国の史跡および特別名勝。虎の子渡し、五智五仏、七五三の石組、心字の象形などと呼ばれ、自砂だけを敷き詰めて十五個の石を配置する。
作者・作庭年代などは不明。鏡容池を含む庭園全体は国の名勝に指定されている。
方丈(重要文化財)の北東にある茶室蔵六庵の前には、徳川光圀が寄進したという「吾唯足知」(吾唯だ足るを知る)の手水鉢が置かれている。
撮影機器:
感想
今日は嵐山を歩くつもりだったけれど・・・。
予定変更
歩くところいっぱい♫
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