記録ID: 7771148
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ハイキング
京都・北摂
京の冬の旅&京都観音めぐり 頂法寺(六角堂)〜ミュージアムロード(京都芸術センター)〜京都観音めぐり(誓願寺)
2025年02月06日(木) [日帰り]



体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:37
- 距離
- 2.3km
- 登り
- 4m
- 下り
- 3m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年02月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
六角堂(頂法寺)
(中京区六角通東洞院酉入堂之前町)
本尊 如意輪観音
天台宗系の単立寺院。
山号は紫雲山。
寺号は頂法寺。
通称の六角堂は本堂が六角宝形造であることによる。
西国三十三所観音霊場第十八番札所。
洛陽三十三所観音霊場第一番札所。
弘仁十三年(八二二)に嵯峨天皇の勅願所となり、建仁元年(二一〇一)には親鷲が当寺に百日間籠り、これを真宗開宗の契機と伝える。
室町時代中頃に専慶をはじめ立華の名手を輩出したことで知られ、代々池坊の家元(華道家元池坊)が当寺の住職を兼ねる。
平安時代より庶民の信仰を集め、応仁・文明の乱以後、革堂(行願寺)が上京の町堂であるのに対して、下京の町堂として親しまれた。
なお、本堂前にあるへそ石は京都の中心を表わすといわれる。
↓
西国三十三所観音霊場91頁
(京都検定テキスト)
(中京区六角通東洞院酉入堂之前町)
本尊 如意輪観音
天台宗系の単立寺院。
山号は紫雲山。
寺号は頂法寺。
通称の六角堂は本堂が六角宝形造であることによる。
西国三十三所観音霊場第十八番札所。
洛陽三十三所観音霊場第一番札所。
弘仁十三年(八二二)に嵯峨天皇の勅願所となり、建仁元年(二一〇一)には親鷲が当寺に百日間籠り、これを真宗開宗の契機と伝える。
室町時代中頃に専慶をはじめ立華の名手を輩出したことで知られ、代々池坊の家元(華道家元池坊)が当寺の住職を兼ねる。
平安時代より庶民の信仰を集め、応仁・文明の乱以後、革堂(行願寺)が上京の町堂であるのに対して、下京の町堂として親しまれた。
なお、本堂前にあるへそ石は京都の中心を表わすといわれる。
↓
西国三十三所観音霊場91頁
(京都検定テキスト)
京の冬の旅で四つ?の如意輪観音が特別公開・・・。
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/a909107b3e714b3cadc3f2b289836f75
そして六角堂(頂法寺)は京都観音巡り第一番札所
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/c08f2ad6104a0ae9b88010eedfe074bb
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/a909107b3e714b3cadc3f2b289836f75
そして六角堂(頂法寺)は京都観音巡り第一番札所
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/c08f2ad6104a0ae9b88010eedfe074bb
いけばな資料館へ
こちらに入るのははじめて
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/e7ca05780f098b7601ef3e934d1ac513
華道
いけばなは、仏前に花を供える「供華」に始まるが、一方、平安時代には貴族の物合せの遊びの一つとして、栽培した花の優劣を競う花合せも生まれた。
室町時代には、禅僧の住宅様式から発展した書院造が武家や貴族の住宅に取り入れられ、床や書院に瓶花を置いて観賞することが普及。
また、武家の間に唐物趣味が流行し、それを観賞するための座敷飾の方式が、幕府将軍側近の同朋衆により整えられ、瓶花についても飾り方を理論化した花伝書が作られるようになった。
十五世紀頃には、七タの法会などの催しに花を立てることが盛んになり、「立て花」の名手も出現する。
中でも、六角堂頂法寺(中京区六角通東洞院西入堂之前町)の執行池坊専慶が名手として名を挙げ、以後、立て花は池坊の家業となった。
室町時代末期の専応(?〜一五四三)は、池坊のいけばなを体系化した『専応口伝』を著わしている。
近世に入ると、初代専好(一五三六?−ニハニ一)は大名邸の豊臣秀吉の御成の席に重用され、豪壮な客殿にふさわしい大瓶の「立華」を立てた。
二代専好(一五七六[一五七五とも]〜一六五八)は後水尾天皇に召されて禁裏の花会を指導し、立華を大成した。
また、十七世紀末頃から、一般の住宅にも床の間が普及するとともに、茶の湯が盛んになると、手軽な「拠入花」が人気となり、十八世紀中頃には、いけばなは町人の遊芸として大衆化していった。
そのような動向の中で池坊は、「立華」、および「拠人花」から発展した「生花」の免許を段階的に伝授する家元制度を作り上げて門人を拡大した。
その頃からさまざまな流派が勃興した。
近代には、女性教育の中にも進出し、いけばなは日常生活に定着していったのである。
現在、華道には全国にさまざまな流派があり、京都には華道家元池坊をはじめとして、嵯峨御流、御室流などがある。
(京都検定テキスト)
専応口伝が展示してあった!
こちらに入るのははじめて
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/e7ca05780f098b7601ef3e934d1ac513
華道
いけばなは、仏前に花を供える「供華」に始まるが、一方、平安時代には貴族の物合せの遊びの一つとして、栽培した花の優劣を競う花合せも生まれた。
室町時代には、禅僧の住宅様式から発展した書院造が武家や貴族の住宅に取り入れられ、床や書院に瓶花を置いて観賞することが普及。
また、武家の間に唐物趣味が流行し、それを観賞するための座敷飾の方式が、幕府将軍側近の同朋衆により整えられ、瓶花についても飾り方を理論化した花伝書が作られるようになった。
十五世紀頃には、七タの法会などの催しに花を立てることが盛んになり、「立て花」の名手も出現する。
中でも、六角堂頂法寺(中京区六角通東洞院西入堂之前町)の執行池坊専慶が名手として名を挙げ、以後、立て花は池坊の家業となった。
室町時代末期の専応(?〜一五四三)は、池坊のいけばなを体系化した『専応口伝』を著わしている。
近世に入ると、初代専好(一五三六?−ニハニ一)は大名邸の豊臣秀吉の御成の席に重用され、豪壮な客殿にふさわしい大瓶の「立華」を立てた。
二代専好(一五七六[一五七五とも]〜一六五八)は後水尾天皇に召されて禁裏の花会を指導し、立華を大成した。
また、十七世紀末頃から、一般の住宅にも床の間が普及するとともに、茶の湯が盛んになると、手軽な「拠入花」が人気となり、十八世紀中頃には、いけばなは町人の遊芸として大衆化していった。
そのような動向の中で池坊は、「立華」、および「拠人花」から発展した「生花」の免許を段階的に伝授する家元制度を作り上げて門人を拡大した。
その頃からさまざまな流派が勃興した。
近代には、女性教育の中にも進出し、いけばなは日常生活に定着していったのである。
現在、華道には全国にさまざまな流派があり、京都には華道家元池坊をはじめとして、嵯峨御流、御室流などがある。
(京都検定テキスト)
専応口伝が展示してあった!
京都ミュージアムロードのスタンプをゲット
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/b71214f641303c1954476bfb29091e99
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/b71214f641303c1954476bfb29091e99
今日の課題
誓願寺・・長金寺の十一面観音、「蔵志」< >、「 」<安楽庵策伝>
誓願寺
本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の総本山。
天智天皇の勅願所として奈良に建立されたが、のちに上京区元誓願寺通小川の地に移転。
現在地へは天正年間(一五七三〜九二)に移った。
当初は三論宗であり、のち浄土宗に改宗、その後、西山深草派の総本山となった。
同寺の五十五世安楽庵策伝は、笑い話集『醒睡笑』を著わし、落語の祖と呼ばれている。
門前に有名な石造の「迷子道しるべ」(月下氷人石)がある。
墓地には安楽庵策伝や医師山脇東洋などの墓がある。
洛陽六阿弥陀巡りの一つ。
また、明治時代初期に廃寺となった長金寺の本尊十一面観
音が伝わり、洛陽三十三所観音霊場第二番札所の本尊となっている。
↓洛陽三十三所観音霊場103頁、洛陽六阿弥陀巡り155頁
(京都検定テキスト)
誓願寺・・長金寺の十一面観音、「蔵志」< >、「 」<安楽庵策伝>
誓願寺
本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の総本山。
天智天皇の勅願所として奈良に建立されたが、のちに上京区元誓願寺通小川の地に移転。
現在地へは天正年間(一五七三〜九二)に移った。
当初は三論宗であり、のち浄土宗に改宗、その後、西山深草派の総本山となった。
同寺の五十五世安楽庵策伝は、笑い話集『醒睡笑』を著わし、落語の祖と呼ばれている。
門前に有名な石造の「迷子道しるべ」(月下氷人石)がある。
墓地には安楽庵策伝や医師山脇東洋などの墓がある。
洛陽六阿弥陀巡りの一つ。
また、明治時代初期に廃寺となった長金寺の本尊十一面観
音が伝わり、洛陽三十三所観音霊場第二番札所の本尊となっている。
↓洛陽三十三所観音霊場103頁、洛陽六阿弥陀巡り155頁
(京都検定テキスト)
矢田寺(中京区寺町通三条上ル天性寺前町)
◆本尊 地蔵菩薩
西山浄土宗の寺院。
山号は金剛山。
矢田地蔵の名で知られる。
奈良矢田山金剛山寺(矢田寺)の別院として、延暦十五年(七九六)に創建されたと伝える。
また、開山の満慶に小野篁が帰依し、弘仁十三年(八二二)に二人によって創建されたとも伝える。
本尊はかつての六地蔵の一つ。
満慶が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝え、地獄で人々を救うということから代受苦地蔵とも呼ばれる。
「矢田地蔵縁起」(重要文化財)などを所蔵する。
有名な送り鐘(八月十六日)は、お盆の精霊を送るために撞く鐘。
東山区の六道珍皇寺(↓削頁)の迎え鐘に対する呼び名。
↓送り鐘293頁、かぼちゃ供養297・300頁、岩田帯320頁
(京都検定テキスト)
◆本尊 地蔵菩薩
西山浄土宗の寺院。
山号は金剛山。
矢田地蔵の名で知られる。
奈良矢田山金剛山寺(矢田寺)の別院として、延暦十五年(七九六)に創建されたと伝える。
また、開山の満慶に小野篁が帰依し、弘仁十三年(八二二)に二人によって創建されたとも伝える。
本尊はかつての六地蔵の一つ。
満慶が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝え、地獄で人々を救うということから代受苦地蔵とも呼ばれる。
「矢田地蔵縁起」(重要文化財)などを所蔵する。
有名な送り鐘(八月十六日)は、お盆の精霊を送るために撞く鐘。
東山区の六道珍皇寺(↓削頁)の迎え鐘に対する呼び名。
↓送り鐘293頁、かぼちゃ供養297・300頁、岩田帯320頁
(京都検定テキスト)
本能寺(中京区寺町通御池下ル下本能寺前町)
◆本尊 十界大曼荼羅
法華宗(本門流)の大本山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
開山の日隆が応永二十二年(一四一五)に油小路高辻に創建した本応寺が前身。
天文法華の乱での火災後、四条坊門(蛸薬師)西洞院付近に中興。
天正十年(一五八二)に明智光秀が織田信長を自刃に追いやった本能寺の変で再び焼失したが、同二十年には豊臣秀吉の転地命令で現在地に移転。
その後も火災にあい、現在の堂舎は昭和三年(一九二八)の建立。
伝藤原行成筆書巻「本能寺切」(国宝)は、鳳凰文の雲母刷りのある四枚の唐紙に小野篁・菅原道真・紀長谷雄の文書を行成が記したとされる。
境内には、織田信長の供養塔をはじめ、文人画家の浦上玉堂・春琴父子の墓もある。
なお、寺中の高俊院の日甫(大住院以信)は華道本能寺の始祖。
↓本能寺跡34頁、放生会294頁、洛中法華二十一ヵ寺本山171頁
◆本尊 十界大曼荼羅
法華宗(本門流)の大本山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
開山の日隆が応永二十二年(一四一五)に油小路高辻に創建した本応寺が前身。
天文法華の乱での火災後、四条坊門(蛸薬師)西洞院付近に中興。
天正十年(一五八二)に明智光秀が織田信長を自刃に追いやった本能寺の変で再び焼失したが、同二十年には豊臣秀吉の転地命令で現在地に移転。
その後も火災にあい、現在の堂舎は昭和三年(一九二八)の建立。
伝藤原行成筆書巻「本能寺切」(国宝)は、鳳凰文の雲母刷りのある四枚の唐紙に小野篁・菅原道真・紀長谷雄の文書を行成が記したとされる。
境内には、織田信長の供養塔をはじめ、文人画家の浦上玉堂・春琴父子の墓もある。
なお、寺中の高俊院の日甫(大住院以信)は華道本能寺の始祖。
↓本能寺跡34頁、放生会294頁、洛中法華二十一ヵ寺本山171頁
撮影機器:
感想
頂法寺・・・。
何度も訪れているが内陣に入るのははじめて
如意輪観音が四つ(オドロキ)
ちょっと暗かったけれど
見応えがあった♫
いけばな資料館も勉強になった
専応口伝が見られて良かった
誓願寺・・・。
扇塚
こんなところに(-_-;)
山脇東洋の墓
石柱が見つかった♫
こんなものがあった(-_-;)
賛否両論の考えがあってもおかしくない
頂法寺、華道とどういう関係があるのかしら?
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コメント
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今日は積雪どっさりでしたね、鹿苑寺と船岡山へ行ってきました。
お寺は外人さんがいっぱいおられました。
近くにいてもなかなか行けないのが金閣寺(-_-;)
いつも新聞の写真で拝見、しかし翌日は雪がない
入ったことがあるかなぁ
昔は銀閣寺は五山の送り火の時無料で入れたような・・・。
雪が降って飛んで行ったのは大文字山でした(笑)
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