記録ID: 7798647
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ハイキング
近畿
熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く 15・16(本宮大社〜新宮大社〜浜王子)
2025年02月15日(土) 〜
2025年02月16日(日)


体力度
5
1泊以上が適当
- GPS
- 17:22
- 距離
- 44.2km
- 登り
- 1,536m
- 下り
- 1,639m
コースタイム
1日目
- 山行
- 8:47
- 休憩
- 1:58
- 合計
- 10:45
距離 36.8km
登り 1,472m
下り 1,569m
7:04
21分
スタート地点
17:49
宿泊地
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
16日 宿 06:59 - 07:18 新宮駅 - 07:44 浜王子 07:46 - 08:31 高野坂入口 08:42 - 09:55 三輪崎駅10:22==(JR190円)==10:29新宮駅--和歌山ラーメン速水--新宮駅12:45==19:44前橋駅 |
写真
神が舞い降りたという大斎原(熊野三所権現は本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現た)
熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲にあったが明治22年(1889年)の水害で社殿の多くは流された。水害を免れた上四社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座、流失した中四社・下四社を石造の小祠に合祀した。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の8倍の規模であった。
熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲にあったが明治22年(1889年)の水害で社殿の多くは流された。水害を免れた上四社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座、流失した中四社・下四社を石造の小祠に合祀した。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の8倍の規模であった。
潜水橋と音無川
嘗ては「高橋」という太鼓橋が架かっていたが明治22年の大洪水で流失
中世には橋は無く参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉して水で身を清めて神域に入った。これを「濡藁沓(ぬれわろうず)の入堂」と言った。
嘗ては「高橋」という太鼓橋が架かっていたが明治22年の大洪水で流失
中世には橋は無く参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉して水で身を清めて神域に入った。これを「濡藁沓(ぬれわろうず)の入堂」と言った。
御神木梛(なぎ)
推定樹齢1000年。梛としては日本最大。国の天然記念物
葉が広いが裸子植物のマキ科ナギ属の常緑高木の針葉樹
平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられている
推定樹齢1000年。梛としては日本最大。国の天然記念物
葉が広いが裸子植物のマキ科ナギ属の常緑高木の針葉樹
平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられている
97 浜王子
明治12年(1879年)に阿須賀神社に合祀されが、大正15年(1926年)に復社
南方熊楠等の努力により、1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議された
明治12年(1879年)に阿須賀神社に合祀されが、大正15年(1926年)に復社
南方熊楠等の努力により、1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議された
感想
後鳥羽上皇と藤原定家の熊野御幸をたどる旅。3泊4日を繰り返すこと4回目で通算16日になりました。
まだ、新宮から那智大社そして本宮へ戻るコースがのこっています
本宮から京都への帰り道は省略しようとおもいますが、今回熊野川下りが出来なかったのでそれも次回の計画に組み入れたいところであります。
街道を歩くたびに日本の中世史を学びなおしたく、「新 もういちど読む 山川日本史」なる本を読み返す今日この頃であります。
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