記録ID: 7951716
全員に公開
ハイキング
近畿
山の辺の道(北コース)
2025年03月29日(土) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 05:21
- 距離
- 21.6km
- 登り
- 398m
- 下り
- 395m
コースタイム
天候 | 曇り 北風冷たく気温12° |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
天王寺からJR大和路線で奈良迄行って まほろば線に乗り換え天理駅下車 まほろば線は1時間に2本程度 帰り JR奈良駅から天王寺 快速で30分 |
コース状況/ 危険箇所等 |
山の辺の道の標識がポイントであるので迷いは 無し 奈良市内からは歴史の道に 名称が変わるのか 山の辺の道の標識が消えました。 |
その他周辺情報 | 天理駅前 公衆トイレ有り コンビニ有り モンベル有り 奈良駅前 何でも有り |
写真
崇道天皇(すどうてんのう)」の本名は「早良親王(さわらしんのう)」。同母兄の桓武天皇が即位したのにともない、皇太弟となりました。ところが、785年(延暦4)、桓武天皇の右腕として長岡京の造営に尽力していた藤原種継の暗殺事件が勃発。この事件に連座して皇太弟を廃され、淡路国へと流されます。身の潔白を訴える親王は飲食を断ち、配流の途中で絶命したのでした。
早良親王の遺骸は淡路国に埋葬されるものの、新たに皇太子となった小殿親王(後の平城天皇)の発病や宮廷関係者の相次ぐ死去など、親王の没後に次々と災いが発生。親王の怨霊をおそれた朝廷は、800年(延暦19)、親王に「崇道天皇」の尊号を追贈するとともに、遺骸を故郷である大和国に移し、丁重にまつりました。つまり、早良親王が天皇に即位していないのに「天皇」の称号をいただいている理由は、悲劇的な最期を迎えた親王の怨念を怖れてのものであったわけです。
奈良市八島町にある親王の陵墓は、現在、宮内庁によって管理されています。陵墓前の掲示板にも「崇道天皇八嶋陵」と記されています。
早良親王の遺骸は淡路国に埋葬されるものの、新たに皇太子となった小殿親王(後の平城天皇)の発病や宮廷関係者の相次ぐ死去など、親王の没後に次々と災いが発生。親王の怨霊をおそれた朝廷は、800年(延暦19)、親王に「崇道天皇」の尊号を追贈するとともに、遺骸を故郷である大和国に移し、丁重にまつりました。つまり、早良親王が天皇に即位していないのに「天皇」の称号をいただいている理由は、悲劇的な最期を迎えた親王の怨念を怖れてのものであったわけです。
奈良市八島町にある親王の陵墓は、現在、宮内庁によって管理されています。陵墓前の掲示板にも「崇道天皇八嶋陵」と記されています。
上の禰宜道かみのねぎみち:かつて高畑たかばたけの社家町から春日の禰宜ねぎ(=神官)たちが春日大社へ通った道で、高畑丹坂町から摂社若宮わかみや神社へ通じる。
* 社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の奉祀を世襲してきた家(氏族)のことである。社家は奉職する神社の近くに家を構えることが多く、社家の家が集まった所は「社家町(しゃけまち)」と呼ばれた。
* 社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の奉祀を世襲してきた家(氏族)のことである。社家は奉職する神社の近くに家を構えることが多く、社家の家が集まった所は「社家町(しゃけまち)」と呼ばれた。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
日よけ帽子
靴
ザック
行動食
飲料
日焼け止め
携帯
時計
サングラス
タオル
|
---|
感想
3週間前に行った山の辺の道(南コース)の
北コースに行きました。
南コースに比べると人も少なく
舗装道路も多く、違った趣きでした。
天理駅から奈良駅へと
北に向かう道順を引きましたが
疲れてきた終盤に観光地を回る方が
気持ち的に楽でした。
ほぼフラットでしたが
後半は少しバテました。
この所の春の陽気のせいか
樹々の色づきも楽しめました。
桜は三分程度
来週位が満開でしょうか。
個人的には
南コースが良かったかなぁ
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:106人
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する