記録ID: 8001709
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ハイキング
京都・北摂
朝のウォーキング 太秦天神川〜蚕の社〜大酒神社〜三吉稲荷神社〜広隆寺〜西光寺〜[千代の古道]〜嵐山〜亀山公園〜[竹林の小径]〜野宮神社〜天龍寺
2025年04月12日(土) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 02:52
- 距離
- 9.0km
- 登り
- 56m
- 下り
- 60m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 2:44
- 休憩
- 0:08
- 合計
- 2:52
距離 9.0km
登り 56m
下り 60m
6:10
110分
スタート地点
9:02
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
蚕の社(木島坐天照御魂神祉)
(右京区太秦森ヶ東町)
祭神
天御中主命、瓊々杵命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命
正式には木島坐天照御魂神社。
創祀時期は不詳。
かつてこの地の勢カ者であった秦氏ゆかりの神社で、平安時代には祈雨の神として信仰された。
本殿の右側にある摂社の養蚕神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。
境内には元糺の池があり、近年環境の変化により渇水状態になっているが、夏の土用の丑の日には動力で境内の水を汲み上げ池に水を流している。
この池に手足を浸すと、しもやけや脚気にならないという。
元糺の池に建つ三柱鳥居(三鳥居)は、明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から拝むことができる。
京都御苑内の厳島神社の唐破風鳥居(↓67頁)と北野天満宮内の伴氏社の鳥居(↓69頁)とともに京都三珍鳥居の一つである。
(京都検定テキスト)
(右京区太秦森ヶ東町)
祭神
天御中主命、瓊々杵命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命
正式には木島坐天照御魂神社。
創祀時期は不詳。
かつてこの地の勢カ者であった秦氏ゆかりの神社で、平安時代には祈雨の神として信仰された。
本殿の右側にある摂社の養蚕神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。
境内には元糺の池があり、近年環境の変化により渇水状態になっているが、夏の土用の丑の日には動力で境内の水を汲み上げ池に水を流している。
この池に手足を浸すと、しもやけや脚気にならないという。
元糺の池に建つ三柱鳥居(三鳥居)は、明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から拝むことができる。
京都御苑内の厳島神社の唐破風鳥居(↓67頁)と北野天満宮内の伴氏社の鳥居(↓69頁)とともに京都三珍鳥居の一つである。
(京都検定テキスト)
広隆寺(右京区太秦蜂岡町)
本尊 聖徳太子
真言宗単立寺院。
山号は蜂岡山。
法隆寺・四天王寺などとともに聖徳太子建立七大寺の一つ。
古くは蜂岡寺・秦公寺といい、「太秦の太子堂」とも呼ばれる。
推古天皇十一年(六〇三)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、本尊として建立した。
弘仁九年(八一八)と久安六年(一一五〇)の火災により伽藍を焼失したが、創建以来の仏像のほとんどは火災を免れた。
承和三年(八三六)には中興の祖とする道昌が再興に着手。
のち本尊は創建当初の弥勒菩薩から薬師如来となり、さらに聖徳太子像に代わった。
境内西北隅にある桂宮院は奥院とも称し、桂宮院本堂(国宝)は建長三年(一二五一)以前の建築。
永万元年(一一六五)再建の講堂(重要文化財)は丹塗りのため赤堂とも呼ばれている。
仏像では、飛鳥時代を代表する遺品で日本の国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跡思惟像が著名。
また、一見泣いているように見える顔立ちから「泣き弥勒」の名で親しまれている菩薩像も国宝。
他に定朝の弟子長勢の作と伝えられる十二神将像、不空 索観音立像、千手観音立像(いずれも国宝)などがある。
↓国宝建築183頁、弥勒菩薩像(京都の彫刻)217頁、阿弥陀如来坐像(京都の彫刻)218頁、聖徳太子御火焚祭296頁
(京都検定テキスト)
本尊 聖徳太子
真言宗単立寺院。
山号は蜂岡山。
法隆寺・四天王寺などとともに聖徳太子建立七大寺の一つ。
古くは蜂岡寺・秦公寺といい、「太秦の太子堂」とも呼ばれる。
推古天皇十一年(六〇三)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、本尊として建立した。
弘仁九年(八一八)と久安六年(一一五〇)の火災により伽藍を焼失したが、創建以来の仏像のほとんどは火災を免れた。
承和三年(八三六)には中興の祖とする道昌が再興に着手。
のち本尊は創建当初の弥勒菩薩から薬師如来となり、さらに聖徳太子像に代わった。
境内西北隅にある桂宮院は奥院とも称し、桂宮院本堂(国宝)は建長三年(一二五一)以前の建築。
永万元年(一一六五)再建の講堂(重要文化財)は丹塗りのため赤堂とも呼ばれている。
仏像では、飛鳥時代を代表する遺品で日本の国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跡思惟像が著名。
また、一見泣いているように見える顔立ちから「泣き弥勒」の名で親しまれている菩薩像も国宝。
他に定朝の弟子長勢の作と伝えられる十二神将像、不空 索観音立像、千手観音立像(いずれも国宝)などがある。
↓国宝建築183頁、弥勒菩薩像(京都の彫刻)217頁、阿弥陀如来坐像(京都の彫刻)218頁、聖徳太子御火焚祭296頁
(京都検定テキスト)
千代の古道
右京区
古歌にも詠まれ平安時代から親しまれてきた古道であるが、当時の道は諸説があり一定しない。
現在、梅宮大社から有栖川、山越、広沢池あたりの一帯に「千代の古道」と彫られた石の道標が 立てられ、往時を偲びながら散策することができる。
(考古資料館 京都歴史散策マップ)
右京区
古歌にも詠まれ平安時代から親しまれてきた古道であるが、当時の道は諸説があり一定しない。
現在、梅宮大社から有栖川、山越、広沢池あたりの一帯に「千代の古道」と彫られた石の道標が 立てられ、往時を偲びながら散策することができる。
(考古資料館 京都歴史散策マップ)
嵐山
(右京区・西京区)
嵐山といえば京都を代表する観光名所であり、桂川(大堰川)に架かる渡月橋の両岸一帯の地域名を指し、名称は川の右岸にある標高約三百八十二メートルの嵐山に由来する。
春は桜、秋は紅葉と、古来景勝の地として知られ、国の史跡及び名勝に指定されている。行政区上は右岸の西京区嵐山、左岸の右京区嵯峨にまたがり、天龍寺(→154頁)や法輪
寺(→127頁)などの寺院の数々や美術館その他の文化施設、宿泊・レジャー施設など、観光・行楽に事欠かない。
嵐山連 峰の一つ、岩田山には「嵐山モンキーパークいわたやま」があり、ニホンザルを間 近で観察でき、市内の眺望にも優れる。
JR嵯峨野線(山陰本線)、嵐電(京福嵐山線)、阪急嵐山線と鉄道三路線が乗り入れ、交通の至便さも当地の発展に寄与している。
川の沿岸上流から亀山・中之島・臨川寺の三地区には、京都府による嵐山公園が整備され、亀山地区には後嵯峨天皇・亀山天皇・後伏見天皇 火葬塚や角倉了以銅像、また幕末の勤皇家で直指庵(→178頁)を再興した村岡局(津崎矩子)の銅像がある。
(新しく新版京都検定テキストに載りました)
(右京区・西京区)
嵐山といえば京都を代表する観光名所であり、桂川(大堰川)に架かる渡月橋の両岸一帯の地域名を指し、名称は川の右岸にある標高約三百八十二メートルの嵐山に由来する。
春は桜、秋は紅葉と、古来景勝の地として知られ、国の史跡及び名勝に指定されている。行政区上は右岸の西京区嵐山、左岸の右京区嵯峨にまたがり、天龍寺(→154頁)や法輪
寺(→127頁)などの寺院の数々や美術館その他の文化施設、宿泊・レジャー施設など、観光・行楽に事欠かない。
嵐山連 峰の一つ、岩田山には「嵐山モンキーパークいわたやま」があり、ニホンザルを間 近で観察でき、市内の眺望にも優れる。
JR嵯峨野線(山陰本線)、嵐電(京福嵐山線)、阪急嵐山線と鉄道三路線が乗り入れ、交通の至便さも当地の発展に寄与している。
川の沿岸上流から亀山・中之島・臨川寺の三地区には、京都府による嵐山公園が整備され、亀山地区には後嵯峨天皇・亀山天皇・後伏見天皇 火葬塚や角倉了以銅像、また幕末の勤皇家で直指庵(→178頁)を再興した村岡局(津崎矩子)の銅像がある。
(新しく新版京都検定テキストに載りました)
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも
よに逢坂の 関は許さじ
嵐山には百人一首の歌碑があります
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/7cb000ebd55bde9bd159ab94964698e2
よに逢坂の 関は許さじ
嵐山には百人一首の歌碑があります
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/7cb000ebd55bde9bd159ab94964698e2
大河内山荘庭園
(右京区嵯峨小倉山田淵山町)
「丹下左膳」を当たり役とし、昭和戦前期を中心に時代劇で人気を博した映画俳優の大河内傳次郎が、百人一首で知られる小倉山の南面に営んだ別荘庭園。
敷地は亀山公園(嵐山公園亀山地区)に隣接する山の斜面二万平方メートルを占め、眼下に嵐山 (33頁) や保津 峡(384頁)、遠くは比叡山や東山三十六峰を見晴るかす眺望に優れた地で、傳次郎がここで亡くなるまでの三十年にわたって自ら創作し造園に勤しんだ。
庭園は回遊式で、建物や展望所が点在する。
なかでも中心施設の大乗閣は数寄屋師・笛吹嘉一郎の作になり、数寄屋風書院や寝殿、如庵写しの小間茶室などを備えた独創的な建築となっている。
他にも持仏堂や茶室・滴水庵、中 門などが庭園に景趣を添えている。
さらに園内には傳次郎の往時の活躍を紹介する資料館や、傳次郎の没後も山荘を守り続けた妻・妙香の菩提所である妙香庵などがある。
(新しく新版京都検定テキストに載りました)
(右京区嵯峨小倉山田淵山町)
「丹下左膳」を当たり役とし、昭和戦前期を中心に時代劇で人気を博した映画俳優の大河内傳次郎が、百人一首で知られる小倉山の南面に営んだ別荘庭園。
敷地は亀山公園(嵐山公園亀山地区)に隣接する山の斜面二万平方メートルを占め、眼下に嵐山 (33頁) や保津 峡(384頁)、遠くは比叡山や東山三十六峰を見晴るかす眺望に優れた地で、傳次郎がここで亡くなるまでの三十年にわたって自ら創作し造園に勤しんだ。
庭園は回遊式で、建物や展望所が点在する。
なかでも中心施設の大乗閣は数寄屋師・笛吹嘉一郎の作になり、数寄屋風書院や寝殿、如庵写しの小間茶室などを備えた独創的な建築となっている。
他にも持仏堂や茶室・滴水庵、中 門などが庭園に景趣を添えている。
さらに園内には傳次郎の往時の活躍を紹介する資料館や、傳次郎の没後も山荘を守り続けた妻・妙香の菩提所である妙香庵などがある。
(新しく新版京都検定テキストに載りました)
竹林の小径
右京区
小径の両側に、背の高い竹が何本も立ち並ぶ散策路。
嵐山のメインストリートである長辻通から「南 天龍寺 嵐山」
の道標を西へ進むと、やがて竹林に覆われた小径となり、野宮神社 (→ 88頁)、天龍寺北門を経て大河内山荘庭園 (393頁) に至る約四百メートルの道程になる。
道の両側には竹穂垣が設置され、竹林は空を覆うように続き、昼でも仄暗い、情緒のある落ち着いた雰囲気を醸し出している。
野宮神社から北へも小径が延び、その途中には回遊式で散策が楽しめる「竹林の散策路」のエリアも設けられている。
(新しく新版京都検定テキストに載りました)
右京区
小径の両側に、背の高い竹が何本も立ち並ぶ散策路。
嵐山のメインストリートである長辻通から「南 天龍寺 嵐山」
の道標を西へ進むと、やがて竹林に覆われた小径となり、野宮神社 (→ 88頁)、天龍寺北門を経て大河内山荘庭園 (393頁) に至る約四百メートルの道程になる。
道の両側には竹穂垣が設置され、竹林は空を覆うように続き、昼でも仄暗い、情緒のある落ち着いた雰囲気を醸し出している。
野宮神社から北へも小径が延び、その途中には回遊式で散策が楽しめる「竹林の散策路」のエリアも設けられている。
(新しく新版京都検定テキストに載りました)
野宮神社
(右京区嵯峨野々官町)
祭神 天照大神
かつては伊勢斎宮(斎王)の野宮社があったとされる。
『源氏物語』の「賢木」の巻の舞台となり、境内の黒木の鳥居と小柴垣に往時が偲ばれる。
現在は縁結び・子宝安産の神として信仰を集めている。
(京都検定テキスト)
(右京区嵯峨野々官町)
祭神 天照大神
かつては伊勢斎宮(斎王)の野宮社があったとされる。
『源氏物語』の「賢木」の巻の舞台となり、境内の黒木の鳥居と小柴垣に往時が偲ばれる。
現在は縁結び・子宝安産の神として信仰を集めている。
(京都検定テキスト)
天龍寺
(右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)
本尊釈迦如来
臨済宗天龍寺派の大本山。
山号は霊亀山。世界遺産(文化遺産)。
足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るため、後嵯峨上皇の亀山殿の地に開創。
暦応二年(一三三九)に夢窓疎石を開山に迎え、暦応資聖禅寺と称して、同四年に天龍資聖禅寺と改めた。
「天龍」は尊氏の弟の直義が見た金龍の夢に由来するという。
造営費用の寄進を、途絶えていた元との貿易収入でまかなうため天龍寺船を就航させるなどして、次第に寺観は整えられて繁栄し、至徳三年(一三八六)には京都五山の第一位となった。
その後、檀越の足利将軍家の没落や火災などで衰退したが、豊臣秀吉らによって復興。
幕末の戦乱で焼失し、現在の伽藍は明治時代以後の再建。
庭園は夢窓疎石の作。
遠景の嵐山と近景の亀山を借景として、亀山東麓に配された曹源池を中心とし、方丈側東岸に大小の出島を設ける。
西岸中央の龍門濠とその前の三連の石橋、さらにその前方の池中立石が庭園の焦点となっている。
国の史跡および特別名勝。
↓世界遺産47頁、京都五山147頁、特別名勝庭園216頁、庭園(中世の庭園219・221頁)
(京都検定テキスト)
(右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)
本尊釈迦如来
臨済宗天龍寺派の大本山。
山号は霊亀山。世界遺産(文化遺産)。
足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るため、後嵯峨上皇の亀山殿の地に開創。
暦応二年(一三三九)に夢窓疎石を開山に迎え、暦応資聖禅寺と称して、同四年に天龍資聖禅寺と改めた。
「天龍」は尊氏の弟の直義が見た金龍の夢に由来するという。
造営費用の寄進を、途絶えていた元との貿易収入でまかなうため天龍寺船を就航させるなどして、次第に寺観は整えられて繁栄し、至徳三年(一三八六)には京都五山の第一位となった。
その後、檀越の足利将軍家の没落や火災などで衰退したが、豊臣秀吉らによって復興。
幕末の戦乱で焼失し、現在の伽藍は明治時代以後の再建。
庭園は夢窓疎石の作。
遠景の嵐山と近景の亀山を借景として、亀山東麓に配された曹源池を中心とし、方丈側東岸に大小の出島を設ける。
西岸中央の龍門濠とその前の三連の石橋、さらにその前方の池中立石が庭園の焦点となっている。
国の史跡および特別名勝。
↓世界遺産47頁、京都五山147頁、特別名勝庭園216頁、庭園(中世の庭園219・221頁)
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
久しぶりに嵐山へ
いつものことながら蛇塚古墳、なかなかたどり着けない
なんとか桜に間に合いましたが今度の雨で散ってしまいそうです
竹林の小径・・・。
外国人観光客に大人気のようです
早朝に訪れたのですがわたし以外日本人はいなかった(-_-;)
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コメント
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嵐山と渡月橋も渡るだけです。
昨日は晴れて暑かったですね。
fu-tyanさんのおられた場所からずーっと北にあります沢ノ池に行ってました。
相変わらず美しくて静かでのんびり歩きました。次回は低山も絡めて歩きたいです。
不思議と今の時期観光地の桜を見に出かけることがなかったです。
どこへ行っても人が多いですから・・・。
早朝は気持ちが良いです♫
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