記録ID: 8040201
全員に公開
ハイキング
東海
姫街道 三ヶ日−気賀
2025年04月20日(日) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 05:18
- 距離
- 13.4km
- 登り
- 298m
- 下り
- 291m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 4:49
- 休憩
- 0:18
- 合計
- 5:07
距離 13.4km
登り 298m
下り 291m
全長約60kmの姫街道を5回で走破する最後の部分 今日のルートはこの辺りを歩いたログで埋まっていてヤマレコの案内が無くても迷わないほど知っているのだが、姫街道として通すのは初めて。
歴史の遺産がよく保存されていて楽しい道である。
歴史の遺産がよく保存されていて楽しい道である。
天候 | 曇りのち晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 自家用車
天浜線 気賀駅から電車で三ヶ日駅に戻る¥460 |
コース状況/ 危険箇所等 |
危険個所は無い |
写真
酒屋さんに大福寺納豆の看板 大福寺はここから北へ約3.2km 今からおよそ1,150年ほど昔( 875年貞観17年)、名僧教侍上人が富幕山に幡教寺(ばんきょうじ)として開創し、1207(承元元)年に現在地へ移した時に大福寺と改称された
大福寺納豆は室町時代から大福寺に伝わる特製納豆。
納豆と言っても、なじみの糸引き納豆とは、味も外見も全く違う。糸は引かずポロポロ乾いた濃い味噌色の豆粒に凝縮したうまみが詰まっている。
納豆の菌を付ける室(ムロ)には室町時代から生き続ける納豆菌が住んでおり自然発酵する。この菌こそが大福寺納豆作るうえで1番大きなな役割を果たしている。
薬味に使われているのは、山椒の皮。今では途絶えたといわれている幻の香辛料の辛皮。
「浜名納豆」という名は徳川家康が命名したといわれている
納豆と言っても、なじみの糸引き納豆とは、味も外見も全く違う。糸は引かずポロポロ乾いた濃い味噌色の豆粒に凝縮したうまみが詰まっている。
納豆の菌を付ける室(ムロ)には室町時代から生き続ける納豆菌が住んでおり自然発酵する。この菌こそが大福寺納豆作るうえで1番大きなな役割を果たしている。
薬味に使われているのは、山椒の皮。今では途絶えたといわれている幻の香辛料の辛皮。
「浜名納豆」という名は徳川家康が命名したといわれている
高札場 今は町はずれだが昔はこの辺りがにぎわっていたのだろう 1498(明応7)年に大地震が起こり、地震と津波によって湖と海を隔てていた砂提の一部が決壊。そこから湖に海水が流れ込むことで、現在のような汽水湖となったがその時水面が下がった様だ。1800年前ごろには、湖の水位が外海より1mほど高かったとなっており多分今の三ケ日中心部は湖底だったのだろう。
御殿道
徳川3代将軍家光が休憩所として、寛永3年(1626) 野地城にお茶屋御殿 (野地城御殿) 「が建てられた。
姫街道から南に分かれて野地城址まで続く一本道を、今でも 「御殿道」 と呼んでいる。
寛永11年(1654) 徳川家光は上洛のとき、行きも帰りも姫街道を通り、 野地城御殿で昼休みをとった。
徳川3代将軍家光が休憩所として、寛永3年(1626) 野地城にお茶屋御殿 (野地城御殿) 「が建てられた。
姫街道から南に分かれて野地城址まで続く一本道を、今でも 「御殿道」 と呼んでいる。
寛永11年(1654) 徳川家光は上洛のとき、行きも帰りも姫街道を通り、 野地城御殿で昼休みをとった。
猿堂山 慈眼寺
明治初年の駒場村の大火で古い寺は消失しましたが、後年に佐久米の阿弥陀堂を購入し移築されました。この庚申堂は三間四面の少々凝った建物です。中には青面金剛像が祀られ現在でも十二年に一度、庚申(申年)の大祭があります。堂の格天井には一八四七年(弘化四年)に描かれた内陣三六枚、 外陣六〇枚の美しい花鳥画があります。
描いた画家は地元三ヶ日の岸派石川晶斎・崋椿 系の重鎮 福田半香・林棕林・伊東盧水の四氏らです。 浜松市町教育委員会
明治初年の駒場村の大火で古い寺は消失しましたが、後年に佐久米の阿弥陀堂を購入し移築されました。この庚申堂は三間四面の少々凝った建物です。中には青面金剛像が祀られ現在でも十二年に一度、庚申(申年)の大祭があります。堂の格天井には一八四七年(弘化四年)に描かれた内陣三六枚、 外陣六〇枚の美しい花鳥画があります。
描いた画家は地元三ヶ日の岸派石川晶斎・崋椿 系の重鎮 福田半香・林棕林・伊東盧水の四氏らです。 浜松市町教育委員会
六部様(ろくぶさま)は、六部遍路が亡くなった場所やその周辺に建立した石仏や供養塔、社殿などのことを指します。六部遍路は、日本全国の66か所の霊場に法華経を1部ずつ納めるために巡礼した僧侶です。
大谷一里塚跡 大谷一里塚跡
ここは江戸より70番目(274.9km)の一里塚である。 江戸時代日本橋を基点として 主要な街道に一里毎に塚を築き松や榎 を植えて旅人の目印しとして作られた。 慶長年間(1600年代)といわれる昔は 街道をはさんで両側に五間四方の土盛 りがあった。
ここは江戸より70番目(274.9km)の一里塚である。 江戸時代日本橋を基点として 主要な街道に一里毎に塚を築き松や榎 を植えて旅人の目印しとして作られた。 慶長年間(1600年代)といわれる昔は 街道をはさんで両側に五間四方の土盛 りがあった。
象鳴き坂 1729年(享保14年) 広南国(現在の ベトナム)より献上の象が将軍 (八代将 軍徳川吉宗 ) お目見えのため、 長崎から 江戸へ行く途中、 船で渡る今切 (浜名湖) をさけて姫街道を
通った。 象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、村人はここを「象鳴き坂」と名付けた。当時の書物によると象は牡(オス)であった。 この辺りは少し急な坂道で本坂峠よりも勾配がきついような気がする。
通った。 象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、村人はここを「象鳴き坂」と名付けた。当時の書物によると象は牡(オス)であった。 この辺りは少し急な坂道で本坂峠よりも勾配がきついような気がする。
浜名湖はこの森の向こう 古墳時代(6世紀)に砂鉄や鉄鉱石から製鉄に大量の炭が必要で2〜3年で周辺の山が丸坊主になり、製鉄所は引っ越して居なくなる そんな奇跡的瞬間には浜名湖が見えたかもしれない
薬師堂 岩根地区の姫街道沿いに建てられた辻堂です。創建年代は明らかではありませんが、本尊の薬師如来の台座の裏の銘文から、天保6年(1835)に再建されたことがわかります。お堂の西隣には、文化2年(1805)に建てられた秋葉山常夜灯があります。
またこの西の道を北へ約500m谷にそって登ると、阿弥陀如来座像(町指定文化財)を祭る阿弥陀堂があります。
細江町教育委員会
またこの西の道を北へ約500m谷にそって登ると、阿弥陀如来座像(町指定文化財)を祭る阿弥陀堂があります。
細江町教育委員会
山村修理(やまむらしゅり)の墓
戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の勢力の境界地域でした。 気賀の領主で今川方の新田友作は、かつて今川義元の家臣であった尾藤主膳、 山村修理等とともに、 永禄10年から11年 (1567~68) にかけて堀川城を築きました。しかし遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃により、永禄11年3月には落城してしまいました。
永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようとする武田信玄に対抗し、ふたたび遠州攻略を企てました。 このときの功績により、後に「井伊谷三人衆」と呼ばれたのが菅沼二郎右衛門、鈴木三郎太夫と、後の旗本近藤家を築いた近藤石見守です。
遠州に攻め入った家康に対し、尾藤主膳、山村修理等は一揆を企て、内山党を始め地元民男女1500~1600人とともに堀川城に立てこもりました。しかし永禄12年(1569) 3月27日、家康軍の攻撃の前に1日で落城、捕虜700人が呉石の塔の下で処刑されたと言い伝えられています。落城のときて逃れた山村修理は、この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。かつてここには松の古木があり、「修理殿の松」と呼ばれていました。
細江町教育委員会
戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の勢力の境界地域でした。 気賀の領主で今川方の新田友作は、かつて今川義元の家臣であった尾藤主膳、 山村修理等とともに、 永禄10年から11年 (1567~68) にかけて堀川城を築きました。しかし遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃により、永禄11年3月には落城してしまいました。
永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようとする武田信玄に対抗し、ふたたび遠州攻略を企てました。 このときの功績により、後に「井伊谷三人衆」と呼ばれたのが菅沼二郎右衛門、鈴木三郎太夫と、後の旗本近藤家を築いた近藤石見守です。
遠州に攻め入った家康に対し、尾藤主膳、山村修理等は一揆を企て、内山党を始め地元民男女1500~1600人とともに堀川城に立てこもりました。しかし永禄12年(1569) 3月27日、家康軍の攻撃の前に1日で落城、捕虜700人が呉石の塔の下で処刑されたと言い伝えられています。落城のときて逃れた山村修理は、この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。かつてここには松の古木があり、「修理殿の松」と呼ばれていました。
細江町教育委員会
呉石学校跡
近藤用随(こんどうもちゆき)像
気賀の領主として、1707(宝永4)年に起きた宝永地震による被害からの復興に努めた。
特に、塩害を受けた水田に豊後(ぶんご)国(現:大分県)特産の琉球藺※を植えさせ、のちに特産物として全国に知られるようになった“遠州表”の基盤を作っており、こうした功績をたたえ、用随の死後、領民たちによって細江神社境内に藺草神社が建てられ、祀られた。
※琉球藺(りゅうきゅうい)/七島藺(しちとうい)ともいい、畳表の原料となる
近藤用随(こんどうもちゆき)像
気賀の領主として、1707(宝永4)年に起きた宝永地震による被害からの復興に努めた。
特に、塩害を受けた水田に豊後(ぶんご)国(現:大分県)特産の琉球藺※を植えさせ、のちに特産物として全国に知られるようになった“遠州表”の基盤を作っており、こうした功績をたたえ、用随の死後、領民たちによって細江神社境内に藺草神社が建てられ、祀られた。
※琉球藺(りゅうきゅうい)/七島藺(しちとうい)ともいい、畳表の原料となる
獄門畷
永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。 堀川城趾は、ここから南へ六百メートル程にある。 永禄十二年(1569)三月二十七日、堀 川城に二千人の男女が立てこもり、三千人の家康軍に攻められて、落城したといわれている大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにした。」とある。 そしてその後に捕えられた約七百人の人々も、同年九月九日にこの付近で首を打たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。
昭和六十三年三月十日 細江町教育委員会
永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。 堀川城趾は、ここから南へ六百メートル程にある。 永禄十二年(1569)三月二十七日、堀 川城に二千人の男女が立てこもり、三千人の家康軍に攻められて、落城したといわれている大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにした。」とある。 そしてその後に捕えられた約七百人の人々も、同年九月九日にこの付近で首を打たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。
昭和六十三年三月十日 細江町教育委員会
細江町指定天然記念物
細江神社社叢・楠
昭和四十九年五月一日 指定
明応七年(1498)の大地震による大津波で、 浜名湖の湖口を守る神として、荒井(新居)の 里に祀られていた、角比古神社の御神体の 素戔鳴尊が、気賀上村の赤池の地に漂着したといわれる。人々は初め赤池の北九十メートル 程のところに仮屋を建て祀っていたが、永正七年(1510) この地に社殿を建てて祀った。 社業には、この時以来百年の年輪を重ねた、根廻り十八メートルもある楠が林立し、歴史の変遷を静かに見守っている。また天台鳥、亜熱帯性植物など多数の珍種植物が群生している。
昭和六十三年三月二十日
細江町教育委員会
細江神社社叢・楠
昭和四十九年五月一日 指定
明応七年(1498)の大地震による大津波で、 浜名湖の湖口を守る神として、荒井(新居)の 里に祀られていた、角比古神社の御神体の 素戔鳴尊が、気賀上村の赤池の地に漂着したといわれる。人々は初め赤池の北九十メートル 程のところに仮屋を建て祀っていたが、永正七年(1510) この地に社殿を建てて祀った。 社業には、この時以来百年の年輪を重ねた、根廻り十八メートルもある楠が林立し、歴史の変遷を静かに見守っている。また天台鳥、亜熱帯性植物など多数の珍種植物が群生している。
昭和六十三年三月二十日
細江町教育委員会
七島藺(しちとうい)(琉球藺 三角藺) カヤツリグサ科 多年草
畳表の原料
茎は横走する太い根茎からでて、高さ1m 以上となり、三角形で節がなく、基部には葉鞘に退化した葉が二、三個つく、夏から秋茎頂に花序を生じ、花序はよく枝分かれ、枝の先端に花穂をつけ密に小穂を生じる。
夏から秋に刈り取って二つに割ってかわかし、畳表、蓆、編物など、種々の生活分野にわたって利用された。
一方いぐさはイグサ科に属し茎が円形である。こちらも畳表に利用されている。
原産地=薩南の七島 琉球地方
畳表の原料
茎は横走する太い根茎からでて、高さ1m 以上となり、三角形で節がなく、基部には葉鞘に退化した葉が二、三個つく、夏から秋茎頂に花序を生じ、花序はよく枝分かれ、枝の先端に花穂をつけ密に小穂を生じる。
夏から秋に刈り取って二つに割ってかわかし、畳表、蓆、編物など、種々の生活分野にわたって利用された。
一方いぐさはイグサ科に属し茎が円形である。こちらも畳表に利用されている。
原産地=薩南の七島 琉球地方
藺草神社
宝永四年(一七〇七年)の十月、遠州地方で大地震があり、押し寄せた高潮のため、浜名湖沿岸の田には塩が入り、稲は全滅の状態でした。 困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主近藤縫殿助用随公に、その苦境を訴えました。領民のためを思う名君であった用随公は、今後の稲作の事を、領民と共に思い悩みました。 それからしばらくして、用随公は、大阪での会議で隣り合わせた豊後の国(現在の大分県) の領主松平市正に、領内の窮状を相談したとこ ろ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。では、余の領内の豊後の藺草を植えたらどうじゃ。 これは、塩に強いということでな」と言い、国元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。 大いに喜んだ用随公はこれを持ち帰り、領内の田に植えさせました。
これが、浜名湖岸一帯の名産物、琉球藺の始ま りです。その後、琉球藺は周辺の各村に広まり藺草を使った畳表の製織は、冬の農家の副業として、この地方を潤しました。 この藺草神社は、藺草をこの地方に初めて広めてくれた用随公の徳をたたえて造られたものです。
いにしえのまちづくりの会
宝永四年(一七〇七年)の十月、遠州地方で大地震があり、押し寄せた高潮のため、浜名湖沿岸の田には塩が入り、稲は全滅の状態でした。 困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主近藤縫殿助用随公に、その苦境を訴えました。領民のためを思う名君であった用随公は、今後の稲作の事を、領民と共に思い悩みました。 それからしばらくして、用随公は、大阪での会議で隣り合わせた豊後の国(現在の大分県) の領主松平市正に、領内の窮状を相談したとこ ろ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。では、余の領内の豊後の藺草を植えたらどうじゃ。 これは、塩に強いということでな」と言い、国元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。 大いに喜んだ用随公はこれを持ち帰り、領内の田に植えさせました。
これが、浜名湖岸一帯の名産物、琉球藺の始ま りです。その後、琉球藺は周辺の各村に広まり藺草を使った畳表の製織は、冬の農家の副業として、この地方を潤しました。 この藺草神社は、藺草をこの地方に初めて広めてくれた用随公の徳をたたえて造られたものです。
いにしえのまちづくりの会
気賀駅上屋及びプラットホーム
所在地 静岡県浜松市北区細江町気賀 427-1
建設年月 昭和13年3月
特徴 本屋は木造平屋建、寄棟造、 赤色の洋瓦葺が北面する。 外壁はモルタル塗り、腰タイル張り。 外部には布基礎状にタイルが張られ、正面入口及び改札口にもタイルを張って意匠的な枠となっている。 待合室内部に、木製ベンチ、木製改札口が当初のまま残っている。 駅務室の中には営業開始当初の「昭和拾参年四月壱日 気賀驛営業開始」 という札が張られている。 上屋は、木造平屋建、切妻造、波形スレート葺の建物。柱2本の上の部分にトラスが組まれた小屋組と、棟木・母屋・桁からなる。 柱に窓の敷鴨居仕口の痕跡が見られるので、東端の2間は、もとは乗降場待合室であったことが判る。
所在地 静岡県浜松市北区細江町気賀 427-1
建設年月 昭和13年3月
特徴 本屋は木造平屋建、寄棟造、 赤色の洋瓦葺が北面する。 外壁はモルタル塗り、腰タイル張り。 外部には布基礎状にタイルが張られ、正面入口及び改札口にもタイルを張って意匠的な枠となっている。 待合室内部に、木製ベンチ、木製改札口が当初のまま残っている。 駅務室の中には営業開始当初の「昭和拾参年四月壱日 気賀驛営業開始」 という札が張られている。 上屋は、木造平屋建、切妻造、波形スレート葺の建物。柱2本の上の部分にトラスが組まれた小屋組と、棟木・母屋・桁からなる。 柱に窓の敷鴨居仕口の痕跡が見られるので、東端の2間は、もとは乗降場待合室であったことが判る。
装備
個人装備 |
雨具
サブザック
昼ご飯
非常食
飲料
予備電池
ファーストエイドキット
常備薬
保険証
携帯
タオル
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