記録ID: 8044034
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ハイキング
丹沢
日々多神社~聖峰~高取山~雨岳文庫 in 伊勢原
2025年04月21日(月) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 07:32
- 距離
- 17.3km
- 登り
- 712m
- 下り
- 718m
コースタイム
天候 | 晴れ ほぼ無風 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
【聖峰の伝説】
約一千年前、高野山の麓の長者屋敷に「阿字の長者」という夫人が住んでいた。
ある夜、旅僧が夢枕に立ち、「世を立て直すため、しばらく長者の胎を借りる」と言うと、長者の口の中に入ってしまった。
やがて、長者は立派な男の子を産み、「救世若(くぜわか)」と名付けた。
大切な子であるので、日当たりの良い地に移り、保養したおかげで、子の年、子の月、子の日、子の刻に授かったと伝えられ、人々からは、「子の聖」と呼ばれた。
「子の聖」は、比叡山に登り、慈覚大師について苦行をつみ、その後、ここ栗原の地に来て不動尊を建立し、しばし修行の地とした。
その言い伝えから「聖の峰」という名前がついた。
その後、子の聖は、出羽三山での修行を経てから飯能市に「天龍寺」を創建し、
181歳の長寿を全うしたとされている。
約一千年前、高野山の麓の長者屋敷に「阿字の長者」という夫人が住んでいた。
ある夜、旅僧が夢枕に立ち、「世を立て直すため、しばらく長者の胎を借りる」と言うと、長者の口の中に入ってしまった。
やがて、長者は立派な男の子を産み、「救世若(くぜわか)」と名付けた。
大切な子であるので、日当たりの良い地に移り、保養したおかげで、子の年、子の月、子の日、子の刻に授かったと伝えられ、人々からは、「子の聖」と呼ばれた。
「子の聖」は、比叡山に登り、慈覚大師について苦行をつみ、その後、ここ栗原の地に来て不動尊を建立し、しばし修行の地とした。
その言い伝えから「聖の峰」という名前がついた。
その後、子の聖は、出羽三山での修行を経てから飯能市に「天龍寺」を創建し、
181歳の長寿を全うしたとされている。
感想
聖峰は、低山でありながら、相模平野の大展望が楽しめる貴重な山。
2度目の再訪ですが、高取山から聖峰の北に派生するルートが未踏だったので、ヤマビルが出る前に歩いてきました。
▶︎聖峰
名前の元となった「子の聖」は、言い伝えから想像すると、キリストと同様、母親である「阿字の長者」の処女懐胎で生まれたことになる。
181歳という長寿を全うしたため、御利益は、長寿・足腰・安産であるが、特に足腰の御利益は登山者にとっては有難い。
▶︎雨岳文庫と自由民権運動
「雨岳文庫」とは、山口家の主屋とその附属家屋並びに資料の総称を指す。
山口家8代当主の山口左七郎は、自由民権運動の政治結社である湘南社の社長となった人物。
自由民権運動とは、明治前期に起きた政府に対する国民運動のことです。
薩長出身者による藩閥政治に対する不満が募り、自由思想が人々の間で広がるが、政府は、言論・出版・集会を厳しく取締り、弾圧した。
あれれ~、SNS規制で言論統制している現代とちょっと似たところがありますね。
では、
自由民権運動は、その後、どうなったのでしょうか❓
深刻な不景気の中、自由党急進派と貧農は結びつき、各地で事件を起こす。
その一つが秩父事件(困民党による武装蜂起事件)です。
運動が激化すると、不安を感じて離れていく人が増えていきました。
そして、政府の弾圧と懐柔といった巧みな操作によって、内部は分裂し、
幹部も政府に妥協することで、運動は次第に衰え、幕を閉じるに至ったのです。
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