御蔭祭 [途中から] 賀茂波爾神社(赤の宮神社)〜下鴨神社


- GPS
- 02:16
- 距離
- 6.4km
- 登り
- 5m
- 下り
- 8m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年05月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
写真
どこだろう?
すぐには心当たりが(-_-;)
AIに聞いてみよう
下鴨神社の荒魂を迎える神事(御蔭祭)が行われる上高野にある神社は、御蔭神社です。御蔭神社は、下鴨神社の境外摂社で、比叡山の麓にあります。
御蔭神社は、賀茂の大神が降臨した地と伝えられ、御生山(みあれやま)とも呼ばれています。葵祭に先立ち、御蔭神社から下鴨神社へ荒魂を遷す神事が行われ、国内最古の祭儀式の一つとして知られています。
上高野、荒魂を迎える神事・・・。
そうだ
きっと正解は御蔭神社!
比叡山の麓にある
何度も行っている
東山三十六峰「御生山」・・・。
調べていたら”赤の宮神社”も気になる
そうだ今日は葵祭に関連する御蔭祭だ
行列は
下鴨神社〜御蔭神社〜赤の宮神社〜下鴨神社
今の時間から御蔭神社は無理だ
赤の宮神社だったら間に合うかも・・・。
と出かける
やっぱり御蔭神社まで行くべきだったかなぁ
今日の深夜には御阿礼神事!
葵祭に関連する主な祭事(五月)
十二日 御阿礼神事
御阿礼神事は上賀茂神社で、深夜に行われる神迎えの神事。
葵をかざした宮司以下神職が、神霊を迎えるための神事。
秘儀で完全非公開である。
(京都検定テキスト)
ご祭神には神武天皇の母、玉依姫命をお祀りしており、玉依姫命が玉の様に美しいことから「美麗の神」として深く信仰されている。河合神社ではこの美麗の祈願絵馬として手鏡型の絵馬「鏡絵馬」の授与を行っている。
・・・・・・・・・・・・・・・
三大随筆の一人、鴨長明に関係の深いお社で、鴨長明は河合神社の禰宜の息子として幼少時代を過ごした。
現在、この河合神社北側の糺の森の中に長明が晩年過ごしたと言われる方丈庵の復元が展示されている。
(下鴨神社のホームページから)
(左京区下鴨泉川町)
祭神
賀茂建角身命、玉依媛命
正式には賀茂御祖神社という。
世界遺産(文化遺産)。
山城国一之宮。
上賀茂神社(↓65頁)を上社、当社を下社と略称し、賀茂社と総称する。
祭神の賀茂建角身命、玉依媛命は、上賀茂神社の賀茂別雷大神の外祖父、母にあたる。
崇神天皇七年、瑞垣築造の記述が見え、平安遷都後は王城鎮護の社として朝廷はじめ公家や武家の崇敬を集めた。
社叢は糺の森と呼ばれ、古代祭祀の遺構が発見されている。
東本殿と西本殿(ともに国宝)はともに三間社の流造で、文久三年(一八六三)の建築。
その他、境内の社殿は寛永六年(一六ニ九)の再興で、多くが重要文化財。
境内は国の史跡に指定されている。
境内には摂社の河合神社・三井神社・出雲井於神社、末社の言社・印璽社などが建ち、境外摂社として御蔭神社(左京区上高野東山)がある。
玉依姫命を祀る河合神社は女性守護神として信仰を集め、珍しい手鏡形の 「鏡絵馬」を授与する。
産霊神を祭神とする相生社は縁結びや安産の神で知られ、二本の木が途中で一つに結ばれる神木「連理の賢木」も祀られる。
また、 近年再興された末社の賀茂斎院歴代斎王神霊社は、嵯峨天皇皇女有智子内親王から後鳥羽天皇皇女礼子内親王まで三十五代にわたる斎王を祀る。
同じく末社の雑太社は、祭神の神魂命の「魂」が「球」に通じることや、社前で関西初のラグビーの練習が行われたことなどからラグビーの神として崇敬され、「第一蹴の地」の石碑も建つ聖地となっている。
なお、下鴨神社と縁の深い鴨長明が過ごしたという方丈の庵が復元され、糺の森にある鴨社神宮寺旧跡に展示されている。
参道の南では、社家の浅田家旧宅が鴨社資料館「秀穂舎」となっており、 資料とともに公開されている。
→世界遺産47頁、二十二社66頁、国宝建築203頁、流造(下鴨神社本殿) 206・208頁、京印255頁、葵祭278頁、蹴鞠初め309頁、流鏑馬神事313頁、御手洗祭315頁、 名月管絃祭318頁、みたらし団子342頁、糺の森370頁
(京都検定テキスト)
左京区
賀茂川と高野川の合流地点で、「糺」は「只洲」より生まれた名称。
この付近に鬱蒼とした糺の森が広がり、その中に下鴨神社 (→73頁)の参道が通じている。
平安時代には潔斎(みそぎ)の場として知られ、また『新古今和歌集』には 「偽りを糺の森の木綿棒かけつつ誓へ我を思はば」という平貞文の歌が載せられているように、偽りを糺す神が住む森として「糺」の文字があてられたと考えられる。
(京都検定テキスト)
初旬の吉日
斎王代 女人列 御禊神事
-斎王の代理である斎王代は、主に京都在住の未婚の女性が選ばれる。
十二単に身支度した斎王代以下、女人列に奉仕する女性が身を清める神事で、上賀茂・下鴨神社で毎年交互に行われる。
上賀茂神社ではならの小川で、下鴨神社では御手洗池で手を清め、人形を流して御禊を行う。
(京都検定テキスト)
【下鴨神社】
下鴨神社(↓73頁)の神撰菓子。
竹串に刺した五つの団子は、初めの一つから少し間隔をあけて、後の四つが並ぶのが特徴。
糺の森の御手洗池(清めの泉水)に湧く水の泡を表わしているといわれる。
また、人の体を表わしているという説もあり、昔から神撰として供えられている。
現在、加茂みたらし茶屋の名で親しまれる亀屋粟義(左京区下鴨松ノ木町)で販売されている。
(京都検定テキスト)
十二日
御蔭察−
御蔭祭は、鴨神社の祭神の荒御霊を迎える神事で、上高野の御蔭神社で行われる。
まず、葵の葉を付けた神職や伶人や、神宝である楯・鉾・弓等を持った供奉員が、神霊を迎える神馬を中心に、参列をつらねて御蔭神社に向かう。
祭典が行われた後、神馬に神霊を移し、下鴨神社へ戻る。
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途中、糺の森では、東遊の舞楽奉納などの切芝の神事が行われる。
祭の形式としては、わが国最古の形式を伝えるといわれている。
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(京都検定テキスト)
感想
お祭りはやっぱり出かけるもの
人も多くうんざりする場面もあるが・・・。
思い切って出かけて良かった♫
葵祭(賀茂祭)
5月15日
5月15日に行われる葵祭、正式名称賀茂祭は、古くは旧暦4月中酉日に行われていた。
賀茂社(上賀茂神社および下鴨神社)の祭礼である。
祭祀に関わるすべての人たちが双葉葵(二葉葵)を飾ったことから、江戸時代以降「葵祭」と呼ばれるようになった。
石清水祭(石清水八幡宮)、春日祭(春日大社)とともに三勅祭の一つで、石清水祭を南祭と呼んだのに対して北祭ともいった。
葵祭の歴史
「山城国風土記」逸文によれば、6世紀の欽明天皇の時代に、天候不順のために大凶作が続き、農民たちが憂い悲しんでいることを察した天皇が卜部伊吉若日子に占わせたところ、賀茂神の祟りであることがわかった。
そこで賀茂神の祭祀を盛大に行った結果、天候が回復して、五穀が無事に実り豊作となった。
以来、賀茂神は雨や河川を司る神、さらに農業、諸産業の守護神として崇敬を集めるようになったといわれている。
『源氏物語』では葵上と六条御息所との車争いが、また『枕草子』『今昔物語集』などにも祭の風情が描かれ、『徒然草』にも祭の面白さの例に賀茂祭が取り上げられている。
当時、単に「祭」といえば賀茂祭を指すほどであった。
応仁・文明の乱のうちに露頭の儀は中断となり、元禄7年(1694)に再興、明治4年(1871)に再び中断したが、岩倉具視により同17年に再興され、5月15日に行われるようになった。
第二次世界大戦中の昭和18年(1943)から同27年まで、中断や路頭の儀の中止などがあったが同28年から旧儀にもとづいて復興されている。
斎王と斎王代
葵祭では「斎王代」の女人列が有名だが、それは「斎王」の代わりとして昭和31年に復興された。
斎王とは、天皇即位の時に、伊勢神宮や上賀茂神社・下鴨神社に精進潔斎して奉仕する皇女や王女のことで、賀茂においては、嵯峨天皇が第8皇女の有智子内親王を斎王としたのが始まりと伝えられる。
天皇の即位のたびに卜定され、譲位または崩御の際に退下するならわしであった。
斎王が住まう賀茂斎院(→31頁)は紫野に設けられ、現在の櫟谷七野神社のあたりにあったと推定されている。
(京都検定テキスト)
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