記録ID: 8174356
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
映画サークルのチケットをゲット・・・新京極を歩く
2025年05月16日(金) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:27
- 距離
- 3.6km
- 登り
- 2m
- 下り
- 3m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年05月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
蛸薬師堂 (永福寺)
(中京区新京極通蛸薬師上ル東側町)
※本尊 薬師如来
単立寺院。京都の繫華街。
新京極の中に寺はある。
蛸薬師という名称は、親孝行な僧侶の伝説によるものであり、蛸薬師通の名の由来ともなっている。
薬師如来が祀られているのは永福寺であるが、境内の奥は妙心寺となっている。
かつて永福寺の隣に圓福寺という寺があり、明治の区画整理の際に永福寺と合体した。
その後、愛知県岡崎市にあった妙心寺と圓福寺は寺号を交換することになった。
現在、一寺でありながら二つの寺号を有することになっている。
妙心寺は本尊を阿弥陀如来としている。
なお、圓福寺の名を引き継いだ寺院は岡崎市に今もある。
→蛸薬師360頁
(京都検定テキスト)
(中京区新京極通蛸薬師上ル東側町)
※本尊 薬師如来
単立寺院。京都の繫華街。
新京極の中に寺はある。
蛸薬師という名称は、親孝行な僧侶の伝説によるものであり、蛸薬師通の名の由来ともなっている。
薬師如来が祀られているのは永福寺であるが、境内の奥は妙心寺となっている。
かつて永福寺の隣に圓福寺という寺があり、明治の区画整理の際に永福寺と合体した。
その後、愛知県岡崎市にあった妙心寺と圓福寺は寺号を交換することになった。
現在、一寺でありながら二つの寺号を有することになっている。
妙心寺は本尊を阿弥陀如来としている。
なお、圓福寺の名を引き継いだ寺院は岡崎市に今もある。
→蛸薬師360頁
(京都検定テキスト)
安養寺 (倒(さか)蓮華寺)
(中京区新京極蛸薬師下ル東側町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山禅林寺派の寺院で、山号は八葉山。
平安時代中期に源信(恵心僧都)が奈良の当麻に建てた蓮台院に始まると伝え、源信の後を妹の安養尼が引き継いで住し、安養寺の名の由来となった。
天永年間(1110〜13)に京都に移される。
本尊の阿弥陀如来立像は台座の八葉蓮華が上下逆になっており、女人往生の姿を表わしたものとして「さかれんげ」「倒蓮華寺」と呼ばれ、とりわけ女性から篤い信仰が寄せられている。
洛陽六阿弥陀巡り(上掲)の一つとしても崇敬を集める。
(京都検定テキスト)
(中京区新京極蛸薬師下ル東側町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山禅林寺派の寺院で、山号は八葉山。
平安時代中期に源信(恵心僧都)が奈良の当麻に建てた蓮台院に始まると伝え、源信の後を妹の安養尼が引き継いで住し、安養寺の名の由来となった。
天永年間(1110〜13)に京都に移される。
本尊の阿弥陀如来立像は台座の八葉蓮華が上下逆になっており、女人往生の姿を表わしたものとして「さかれんげ」「倒蓮華寺」と呼ばれ、とりわけ女性から篤い信仰が寄せられている。
洛陽六阿弥陀巡り(上掲)の一つとしても崇敬を集める。
(京都検定テキスト)
誠心院
(中京区新京極通六角下ル中筋町)
※本尊 阿弥陀如来
真言宗泉涌寺派。
山号は華嶽山。
通称は和泉式部寺。
正式名の東北寺誠心院は式部の院号でもある。
平安時代中期、藤原道長が娘の上東門院彰子に請われ、和泉式部のために法成寺寺内の東北院の中に、のちに小御堂と呼ばれるお堂を建て与えたことが起こり、鴨川の氾濫にたびたびあい、一条小川上ルの誓願寺隣地に移り、天正年間(1573〜92)に現在地に移転。
和泉式部の墓という正和2年(1313)銘の石造宝篋印塔がある。
(京都検定テキスト)
(中京区新京極通六角下ル中筋町)
※本尊 阿弥陀如来
真言宗泉涌寺派。
山号は華嶽山。
通称は和泉式部寺。
正式名の東北寺誠心院は式部の院号でもある。
平安時代中期、藤原道長が娘の上東門院彰子に請われ、和泉式部のために法成寺寺内の東北院の中に、のちに小御堂と呼ばれるお堂を建て与えたことが起こり、鴨川の氾濫にたびたびあい、一条小川上ルの誓願寺隣地に移り、天正年間(1573〜92)に現在地に移転。
和泉式部の墓という正和2年(1313)銘の石造宝篋印塔がある。
(京都検定テキスト)
5 近代の史跡
慶応4年(1868)9月、元号が明治と改元されるや、天皇の東幸が行われた。
新政府の東京遷都に向けての予定の行動ではあったが、京都の人々の動揺と抵抗は激しく、それを慮(おもんばか)った天皇はいったん帰京、翌明治2年(1869)に再度東幸するという手順を踏んだのである。
京都の町は急激にさびれ、御所は「狐狸の棲家」となったが、千年の王城・京都の復興もまた迅速であった。
明治2年、江戸時代の自治組織である町組を基礎として日本最初の小学校64校が開校。
番組小学校と呼ばれ、その運営資金は市民提供の基立金により設立された小学校会社が受け持った。
また同5年、上京区に新英学校、女紅場が開校し、その後の女子教育発展の基礎となった。
一方、西陣織は江戸時代の後半に衰退の一途をたどっていたが、明治2年には西陣物産会社が京都府の肝いりで設立され、機織機のフランス式ジャガード機を導入するなどの技術革新を行った。
また同23年には、左京区吉田で京都織物会社が操業を開始し、主に紋織・無地織・ハンカチ類の製織に従事した。
///////////////////////////////////////
また明治初年の京都において見逃せないのが、新京極の誕生である。豊臣秀吉の都市改造によって登場した寺町通に、その門前の寺地を接収して南北約500メートルの道路を開通させ、一大歓楽街を誕生させたのである。その生みの親は京都府参事でのちに第2代知事となった槇村正直である。槇村は舎密局(せいみきょく)や女紅場・勧業場など、大胆な政策を実施に移していった。
///////////////////////////////////////
知事が北垣国道に代わった同18年、琵琶湖の水を水路によって京都に引き、物資輸送・水力発電・農業用水等、多目的に活用する計画が実施に移された。琵琶湖疎水である。この電力によって京都の市街地に、日本最初の市街電車(京電)が走った。
(京都検定テキスト)
慶応4年(1868)9月、元号が明治と改元されるや、天皇の東幸が行われた。
新政府の東京遷都に向けての予定の行動ではあったが、京都の人々の動揺と抵抗は激しく、それを慮(おもんばか)った天皇はいったん帰京、翌明治2年(1869)に再度東幸するという手順を踏んだのである。
京都の町は急激にさびれ、御所は「狐狸の棲家」となったが、千年の王城・京都の復興もまた迅速であった。
明治2年、江戸時代の自治組織である町組を基礎として日本最初の小学校64校が開校。
番組小学校と呼ばれ、その運営資金は市民提供の基立金により設立された小学校会社が受け持った。
また同5年、上京区に新英学校、女紅場が開校し、その後の女子教育発展の基礎となった。
一方、西陣織は江戸時代の後半に衰退の一途をたどっていたが、明治2年には西陣物産会社が京都府の肝いりで設立され、機織機のフランス式ジャガード機を導入するなどの技術革新を行った。
また同23年には、左京区吉田で京都織物会社が操業を開始し、主に紋織・無地織・ハンカチ類の製織に従事した。
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また明治初年の京都において見逃せないのが、新京極の誕生である。豊臣秀吉の都市改造によって登場した寺町通に、その門前の寺地を接収して南北約500メートルの道路を開通させ、一大歓楽街を誕生させたのである。その生みの親は京都府参事でのちに第2代知事となった槇村正直である。槇村は舎密局(せいみきょく)や女紅場・勧業場など、大胆な政策を実施に移していった。
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知事が北垣国道に代わった同18年、琵琶湖の水を水路によって京都に引き、物資輸送・水力発電・農業用水等、多目的に活用する計画が実施に移された。琵琶湖疎水である。この電力によって京都の市街地に、日本最初の市街電車(京電)が走った。
(京都検定テキスト)
誓願寺
(中京区新京極通三条下ル桜之町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の総本山。
天智天皇の勅願所として奈良に建立されたが、のちに上京区元誓願寺通小川の地に移転。
現在地へは天正年間(一五七三〜九二)に移った。
当初は三論宗であり、のち浄土宗に改宗、その後、西山深草派の総本山となった。
同寺の五十五世安楽庵策伝は、笑い話集『醒睡笑』を著わし、落語の祖と呼ばれている。
門前に有名な石造の「迷子道しるべ」(月下氷人石)がある。
墓地には安楽庵策伝や医師山脇東洋などの墓がある。
洛陽六阿弥陀巡り(→173頁)の一つ。
また、明治時代初期に廃寺となった長金寺の本尊十一面観音が伝わり、洛陽三十三所観音霊場第二番札所(→117頁)の本尊となっている。
(京都検定テキスト)
(中京区新京極通三条下ル桜之町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の総本山。
天智天皇の勅願所として奈良に建立されたが、のちに上京区元誓願寺通小川の地に移転。
現在地へは天正年間(一五七三〜九二)に移った。
当初は三論宗であり、のち浄土宗に改宗、その後、西山深草派の総本山となった。
同寺の五十五世安楽庵策伝は、笑い話集『醒睡笑』を著わし、落語の祖と呼ばれている。
門前に有名な石造の「迷子道しるべ」(月下氷人石)がある。
墓地には安楽庵策伝や医師山脇東洋などの墓がある。
洛陽六阿弥陀巡り(→173頁)の一つ。
また、明治時代初期に廃寺となった長金寺の本尊十一面観音が伝わり、洛陽三十三所観音霊場第二番札所(→117頁)の本尊となっている。
(京都検定テキスト)
宝蔵寺
(中央区裏寺町通蛸薬師上ル裏寺町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の寺院。
山号は無量山。
弘法大師の創立で、後の文永6年(1269)に如輪により壬生に開基されたと伝える。
天正9年(1581)に玉阿が再興。
同19年に豊臣秀吉の寺町整備によって現在地に移転した。
江戸時代中期に活躍した絵師の伊藤若冲および伊藤家の菩提寺としても知られ、若冲の「竹に雄鶏図」「髑髏図」をはじめ、弟の白歳や弟子による作品も所蔵する。
(京都検定テキスト)
(中央区裏寺町通蛸薬師上ル裏寺町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗西山深草派の寺院。
山号は無量山。
弘法大師の創立で、後の文永6年(1269)に如輪により壬生に開基されたと伝える。
天正9年(1581)に玉阿が再興。
同19年に豊臣秀吉の寺町整備によって現在地に移転した。
江戸時代中期に活躍した絵師の伊藤若冲および伊藤家の菩提寺としても知られ、若冲の「竹に雄鶏図」「髑髏図」をはじめ、弟の白歳や弟子による作品も所蔵する。
(京都検定テキスト)
矢田寺
※本尊 地蔵菩薩
西山浄土宗の寺院。
山号は金剛山。
矢田地蔵の名で知られる。
矢田山金剛山寺(矢田寺/奈良県大和郡山市)の別院として、延暦15年(796)に創建されたと伝える。
また、開山の満慶に小野篁が帰依し、弘仁13年(822)に2人によって創建されたとも伝える。
本尊はかつての六地蔵の一つ。
満慶が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝え、地獄で人々を救うということから代受苦地蔵とも呼ばれる。
「矢田地蔵縁起」(重要文化財)などを所蔵する。
有名な送り鐘(8月16日)は、お盆の精霊を送るために撞く鐘。
東山区の六道珍皇寺(→150頁)の迎え鐘に対する呼び名。
→送り鐘316頁、かぼちゃ供養321・324頁、岩田帯344頁
(京都検定テキスト)
※本尊 地蔵菩薩
西山浄土宗の寺院。
山号は金剛山。
矢田地蔵の名で知られる。
矢田山金剛山寺(矢田寺/奈良県大和郡山市)の別院として、延暦15年(796)に創建されたと伝える。
また、開山の満慶に小野篁が帰依し、弘仁13年(822)に2人によって創建されたとも伝える。
本尊はかつての六地蔵の一つ。
満慶が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝え、地獄で人々を救うということから代受苦地蔵とも呼ばれる。
「矢田地蔵縁起」(重要文化財)などを所蔵する。
有名な送り鐘(8月16日)は、お盆の精霊を送るために撞く鐘。
東山区の六道珍皇寺(→150頁)の迎え鐘に対する呼び名。
→送り鐘316頁、かぼちゃ供養321・324頁、岩田帯344頁
(京都検定テキスト)
本能寺
(中京区寺町通御池下ル下本能寺前町)
*本尊 十界大曼荼羅
法華宗(本門流)の大本山。
洛中法華 二十一ヵ寺本山(→180頁)の一つ。
開山の日隆が応永二十二年(一四一五)に油小路高辻に創建した本応寺が前身。
天文法華の乱での火災後、四条坊門(蛸薬師)西洞院付近に中興。
天正十年(一五八二) に明智光秀が織田信長を自刃に追いやった本能寺の変で再び焼失したが、同二十年には豊臣秀吉の転地命令で現在地に移転。
その後も火災にあい、現在の堂舎 は昭和三年(一九二八)の建立。
伝藤原行成筆書卷「本能寺切」(国宝)は、鳳凰文の雲母刷りのある四枚の唐紙に小野篁・菅原道真・紀長谷雄の文書を行成が記したとされる。
境内には、織田信長の供養塔をはじめ、文人画家の浦上玉堂・春琴父子の墓もある。
なお、寺中の高俊院の日甫(大住院以信)は華道本能寺の始祖。
→本能寺跡36頁、放生会317頁
(京都検定テキスト)
(中京区寺町通御池下ル下本能寺前町)
*本尊 十界大曼荼羅
法華宗(本門流)の大本山。
洛中法華 二十一ヵ寺本山(→180頁)の一つ。
開山の日隆が応永二十二年(一四一五)に油小路高辻に創建した本応寺が前身。
天文法華の乱での火災後、四条坊門(蛸薬師)西洞院付近に中興。
天正十年(一五八二) に明智光秀が織田信長を自刃に追いやった本能寺の変で再び焼失したが、同二十年には豊臣秀吉の転地命令で現在地に移転。
その後も火災にあい、現在の堂舎 は昭和三年(一九二八)の建立。
伝藤原行成筆書卷「本能寺切」(国宝)は、鳳凰文の雲母刷りのある四枚の唐紙に小野篁・菅原道真・紀長谷雄の文書を行成が記したとされる。
境内には、織田信長の供養塔をはじめ、文人画家の浦上玉堂・春琴父子の墓もある。
なお、寺中の高俊院の日甫(大住院以信)は華道本能寺の始祖。
→本能寺跡36頁、放生会317頁
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
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5月の例会を観るのを忘れていた(-_-;)
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宝蔵寺!興味あります。
伊藤若冲の絵がありますからね
まだ入ったことはありませんが・・・。
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