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ハイキング
関東
高句麗と曽我物語が交差する湘南平―多様な世界線を辿る終戦記念日
2025年08月15日(金) [日帰り]


- GPS
- 05:12
- 距離
- 8.4km
- 登り
- 355m
- 下り
- 361m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 3:24
- 休憩
- 1:48
- 合計
- 5:12
距離 8.4km
登り 355m
下り 361m
過去天気図(気象庁) | 2025年08月の天気図 |
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アクセス |
写真
高句麗の渡来文化が築いた聖なる結界と、鎌倉時代の仇討ち物語。その二つの歴史が交差する丘、湘南平には、千年の時を刻んだ尾根道があります。
猛暑のため、人は殆どいませんが、錯綜した世界線に点在する史跡があり、これを統合・編纂して歩いていきます。
猛暑のため、人は殆どいませんが、錯綜した世界線に点在する史跡があり、これを統合・編纂して歩いていきます。
劇作家・高田保の名を冠した公園です。
代表作に「天の岩戸」があり、オリジナルの古事記は、天照大神は弟の乱暴に耐えかねて、天の岩戸に籠もったので、世界は闇に包まれ、災厄が広がったので、八百万の神々が宴や踊りで、大神を外に誘い出すという、有名な神話です。
代表作に「天の岩戸」があり、オリジナルの古事記は、天照大神は弟の乱暴に耐えかねて、天の岩戸に籠もったので、世界は闇に包まれ、災厄が広がったので、八百万の神々が宴や踊りで、大神を外に誘い出すという、有名な神話です。
これは、国民国家的な中央集権に対して、八百万神のローカル多様性を対比させるという、極めて今日的な寓話であると思います。
写真は高田保文学碑で、この五角形と穴の意味は不明だが、陰陽五行説の魔除け五芒星は、中国で成立し、百済や高句麗経由で日本に伝来したという事実がある。
この神話「天の岩戸」と高句麗からの五芒星が、これから辿る道の一つの伏線となっています。
写真は高田保文学碑で、この五角形と穴の意味は不明だが、陰陽五行説の魔除け五芒星は、中国で成立し、百済や高句麗経由で日本に伝来したという事実がある。
この神話「天の岩戸」と高句麗からの五芒星が、これから辿る道の一つの伏線となっています。
7世紀に高句麗が滅亡すると、若光(玄武若光)という王は一族を率いて日本に亡命し、大磯・高麗(コマ)地区に上陸し、大磯の住民に大変慕われたという。
その後、若光は、後に埼玉県の郡司として任命され、文武天皇から「高麗王」の姓と従五位下の位を賜ったとされています。
その後、若光は、後に埼玉県の郡司として任命され、文武天皇から「高麗王」の姓と従五位下の位を賜ったとされています。
さて、ほどなく、湘南平到着。
ここは古くは「泡垂山」あるいは「千畳敷」といったそうです。
戦時中は、山全体が要塞化され、Bー29を砲撃すべく高射砲や高射機関砲などが据えられ、この建設のため、動員学徒が砂利運びに駆り出されたとのことでした。
米軍の砲撃で撃破され、山北側にある荘厳寺も、巻き添えとなり焼失したということです。
終戦記念日に平和で長閑な湘南平にいます。
ここは古くは「泡垂山」あるいは「千畳敷」といったそうです。
戦時中は、山全体が要塞化され、Bー29を砲撃すべく高射砲や高射機関砲などが据えられ、この建設のため、動員学徒が砂利運びに駆り出されたとのことでした。
米軍の砲撃で撃破され、山北側にある荘厳寺も、巻き添えとなり焼失したということです。
終戦記念日に平和で長閑な湘南平にいます。
「泡垂山」の由来は、歌舞伎で有名な曽我物語であり、「虎御前」のもとにいた兄の危急に、曽我の里から駆けつけた弟五郎がこの山に駆け上ったところ馬が泡を垂らした地ということになっています。
虎御前は、大磯宿場町に実在した遊女・傾城ですが、曽我物語の曽我五郎の愛妾として登場し、歌舞伎「寿曽我対面」は大変美しい舞台です。(動画のURL張っておきます)
虎御前は、大磯宿場町に実在した遊女・傾城ですが、曽我物語の曽我五郎の愛妾として登場し、歌舞伎「寿曽我対面」は大変美しい舞台です。(動画のURL張っておきます)
10分ほどで浅間社に到着。富士山を中心とした山岳浅間信仰の社ですが、眺望はなく、現在は冬でも富士山は見えないのではないかと思います。「懺悔、懺悔、六根清浄」を唱えてお盆に山に登り、祖霊供養するという習慣もあったらしい。
8世紀、渡来人・高句麗の王族若光(じゃっこう)が相模に移り住み、山岳信仰と結びついて創建されたということです。
高句麗は新羅に滅ぼされ、若光は一族を引き連れて大磯に上陸し、大磯の人々に歓迎され、日本に帰化しこの地に住んでいたということです。
高句麗は新羅に滅ぼされ、若光は一族を引き連れて大磯に上陸し、大磯の人々に歓迎され、日本に帰化しこの地に住んでいたということです。
外国人出ていけのアジェンダが躍進する今日ですが、思えば、明治以降の国民国家政策、戦争動員のための国家政策の結果ではないかと思いました。
明治以前の、とりわけ分権統治の時代は、高麗融合の多様性が日本全国にあったことを終戦記念日に思いました。
この看板に訂正されている原文に何が書かれていたか、気になります。「大陸の文化」の下に何が記載されていたのか?
明治以前の、とりわけ分権統治の時代は、高麗融合の多様性が日本全国にあったことを終戦記念日に思いました。
この看板に訂正されている原文に何が書かれていたか、気になります。「大陸の文化」の下に何が記載されていたのか?
複雑な巻道に迷いながら、東天照に到着。
尾根東端、日の出東方の遥拝点ということだと思います。
ここは白山社があったと書いてあるが、これまた、複雑な山岳信仰と白山信仰の八百万の融合という多様な宗教観である。
尾根東端、日の出東方の遥拝点ということだと思います。
ここは白山社があったと書いてあるが、これまた、複雑な山岳信仰と白山信仰の八百万の融合という多様な宗教観である。
高麗の文化を継承する神社や寺の多様性は、国民国家確立のために不都合であり、廃止されたと考えられる。
全く予想しない展開だが、終戦記念日に、多様性排除の歴史を振り返ることになった。これは良し悪しという単純な世界線ではない。
全く予想しない展開だが、終戦記念日に、多様性排除の歴史を振り返ることになった。これは良し悪しという単純な世界線ではない。
化粧坂といわれる旧東海道を歩いて駅に向かう途中に、虚空蔵堂という在地鎮護や航海安全を祈願したお堂がある。
本日辿ってきた社や社跡地を頭の中で配置すると、結界という宗教的な防衛線の世界線が立ち上がってくる。
本日辿ってきた社や社跡地を頭の中で配置すると、結界という宗教的な防衛線の世界線が立ち上がってくる。
守護方位結界という枠組みでみると、東天照(東端)、浅間社(南端)、虚空蔵堂(北端)、高来神社(西核)の四方結界があり、中心柱として、千畳敷・湘南平が配置されている。
これら結界を記した具体的な文献はないが、明治以前は、四方位の守護結界が、多様な高麗の文化も含めた共同体包摂の統合装置として機能していたのではないかと想像した。
これら結界を記した具体的な文献はないが、明治以前は、四方位の守護結界が、多様な高麗の文化も含めた共同体包摂の統合装置として機能していたのではないかと想像した。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
雨具
日よけ帽子
靴
ザック
昼ご飯
行動食
飲料
コンパス
計画書
ヘッドランプ
予備電池
GPS
ファーストエイドキット
日焼け止め
保険証
携帯
時計
タオル
ストック
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感想
高句麗の渡来文化が築いた聖なる結界と、鎌倉時代の仇討ち物語。その二つの歴史が交差する丘、湘南平には、千年の時を刻む尾根道があります。錯綜した世界線の中に点在する史跡を終戦記念日にたどりました。
7世紀、高句麗が滅亡すると若光(玄武若光)は一族を率いて大磯に上陸し、住民に深く慕われました。山頂には高麗神社と高麗寺、麓には高来神社と慶覚院があり、神仏習合の奥院・里宮システムを形成していました。
しかし明治の神仏分離政策によって、山頂の社寺は廃絶され、麓の高来神社と慶覚院も分離させられた歴史があります。国家が多様な宗教観を排し、国家神道を確立するために導入した国民国家政策でありました。
湘南平の地によって、明治以前の分権的な共同体の多様性を思い起こす終戦記念日になりました。
また、湘南平の巻道には「曽我十郎硯水の池」が現れ、旧東海道には「化粧井戸」が残ります。どちらも曽我物語にまつわる史跡ですが、曽我兄弟の仇討ちは、歌舞伎や浄瑠璃で繰り返し演じられ、江戸庶民の心をつかみました。その背景には、忠臣蔵と同様に「判官びいき」の文化、すなわち強権に抗う弱者や報われぬ悲運の者を支持する心情がありました。
こうして高句麗の渡来文化と鎌倉の仇討ち物語の世界線が重なり合う湘南平は、現代では想像しがたい多様性を包摂する共同体の記憶を今に宿し、また明治以降の国民国家政策の延長線上に、終戦記念日を静かに映し出す歴史の場でもありました。
動画は歌舞伎、寿曽我対面の場
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