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思い起こせば、私が最初に北岳小屋にお世話になったのは40年以上も前の昭和35年7月9日の午後7時45分にバテバテで到着した時でした。梅雨明けも間近の7月6日早朝4時に韮崎駅に下車した登山者は、私と他に1人でした。行く先は同じ単独行同士でパーティを組むことになり(私がテントを持っていた事も有りましたが)・・・。
韮崎駅より歩きだし、「穴山橋」・「平川峠」と順調に歩を進めましたが、どうした事か、ルートを「荒倉山」へ取ってしまい、とんでもないロスタイム(荒倉山まで7時間のアルバイト)・・・・・当時このルートがあったかどうか不明・・・・・。予定は、初日鳳凰小屋まででしたが御座石での幕営となりました。翌日は少し楽をして鳳凰小屋にて幕営、三日目の英気を養いました。翌日は雲行きが怪しくなり、「賽ノ河原」を過ぎるあたりから、梅雨末期の土砂降りに加え、「白鳳峠」付近では、前年までの台風に依る倒木群に行く手を阻まれて悪戦苦闘で「広河原小屋」にたどり着きました。小屋は丁度小屋開き初日でもあり、小屋番さんの好意に甘えて泊めていただきました。この小屋番さん(お名前は忘却)と3人で大宴会でした。この小屋も床の下が川床状態でしたが、翌年流失したとのことでした。
翌日は、前夜のお天気祭りが功を奏して梅雨が明け大快晴で、前夜のアルコールを汗とともに飛ばすのにもってこいでした。あまりの天気の良さと、はじめて見るバットレスの魅力に誘われて岩稜に突入、途中から進退極りエスケープし、這い松を泳ぎ回り、「白根御池」から6時間半も掛け「小太郎の肩」に上げました。夕闇が迫る北岳山頂は夕闇がせまり、夕焼けだけがぼんやりと思い出されます。初訪問は正に疲労困憊となりました。翌朝、貴方に貴重な食料の中から胡瓜3本頂戴し「塩見岳
」まで頑張る事が出来ました。しかし、実は、ザックの中の食材は、アルファ米と醤油しか残っていませんでしたので、2人で胡瓜3本に塩を付け、18時半は正にシャリバテで塩見岳の山頂到着でした。
その日は、「三伏小屋」迄の予定でしたが、懐中電灯の乏しい光では鉈目が見えずらく、20時20分、権右エ門山を巻く水場で幕営としました。半煮えのアルファ米に醤油をかけたのみの最後の晩餐でした。
翌朝は、空腹をかかえて三伏小屋まで、朝っぱらから蜃気楼をみながら歩き、小屋の親父さんに開口一番朝飯を所望しました。おかずの「サンマの開き缶詰」は、生気を取り戻すに充分でした。
以来、我が家には、この品が常備食となっています。
翌、昭和36年8月6日は、職場の仲間5人で、池山御池経由の山行で2日目でお伺いし幕営させていただき、翌日白根三山を縦走し、大門沢から奈良田へ下山しました。
翌年の昭和37年夏には、南アルプス南部縦走で、身延(新倉)より入山し、荒川三山・赤石岳・聖岳・茶臼岳を歩き畑薙山から下山し、大吊橋上からの渓谷美に大満足の一週間でした。
翌年は遠征が出来ず、近場の西丹沢の沢遊びで我慢しました。
そして、翌、昭和39年8月に、貴小屋でのお手伝い(遊ばせて貰った)は、生涯忘れられない思い出となりました。
一つは、大入り満員で、小屋関係者3人が外でシぶ厚いシートを被り、雷雨の一夜を過ごした事。(稲光を上から見る貴重な体験)二つには、キタダケソウの法被(ハッピ)を作ってきた常連さん(たしか、白旗史郎さんだと思いますが)達と一緒に雪渓遊びで大汗をかき、着下しの法被のキタダケソウの模様が背中にくっきり写り(刺青のように)大笑いしましたこと等、このままずぅーと山に残っていたいと思った事でした。翌40年の5月には、鳳凰三山で、吹雪に逢い山の厳しさを体験させられました。
同年8月には、総勢9名で、南北縦走を行い、増々南アルプスにのめり込む筈でした。
翌41年に、中央アルプスの駒ケ岳・宝剣岳(※ロープウェーが開通する前)登山は、東京の職場を退く最後の山行となり、7年間の青春時代との別れでもありました。 つづく
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