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音楽には前奏があり、本には前書きがある。コース料理には前菜があり、ドラマやアニメにはオープニングがある。映画が始まる前、館内が暗くなり他作品の宣伝が流れる時間はなんだかわくわくするものだ。楽しみはその対象の本体だけではない。その前に気持ちを作る時間があってこそ、いつもの日常から脱し体験の中に没入できるのだ。
バスを降りる。山麓の集落。風景の中に生活や文化が見える。畑の作物、民家の建築様式、雑木林の植生。こういったものは地域によって少しずつ異なり、その地の自然環境や歴史文化、社会状況を垣間見せてくれる。信仰の山であれば麓にはその山の神をまつる神社の里宮がある。山は山のみで存在するのではなく、その地の人々の歴史と生活とともにある。
山に入ってしばらくの林道歩き。植林や二次林であることが多い。原生林や高山帯は登山の大きな魅力ではある。完全な自然の世界だ。昔の人は山の上を他界ととらえ、死者や神仏の世界と考えた。アイヌの人々は大雪山を「神々の遊ぶ庭」と呼ぶそうだ。原生林と高山帯は天上の世界・神の世界である。登山は異なる世界の間を越境する行為だ。だからこそ、人間の生活空間と神の世界・自然の世界の中間となる空間を軽視すべきではないのではないか。林道を歩き、二次林・植林帯を登ることは登山者と山の間の挨拶や準備のような時間なのではないか。
私の山歩きなど宗教登山でもアルピニズムでもない、ただの観光に毛が生えたようなものであるが、元来人間のものではない空間に入ることに変わりはなく、山に対する畏敬の念は持ち合わせておいたほうがいい。
昔の登山家の本を読んでみるとみんな人里から歩いて山に入っていた。ウェストンも田部重治も串田孫一も深田久弥も山口耀久もみんな麓の町や村から歩いている。もちろん、当時の登山家には交通手段が限られ、現代のサラリーマン登山者には時間が限られているというやむを得ない事情はある。仕方なくかもしれないが、山麓を含めて歩くことで山の解像度が格段に高くなっていたのではないだろうか(もちろん彼らは当時のかなりの知的エリートであり、そもそもの教養の深さが我々とは比較にならない)。
「山頂」は一つの目標であるが、登山体験として山麓から得るものは意外に大きいと感じる。
(画像は能郷から能郷白山への道、赤水から山伏西日影沢への道、明神岳・薊岳麓の大又集落)
追記:登山の在り方として車道歩きを肯定的に捉えたが、社会の在り方としてむやみに森や登山道を壊して車道建設をすることを肯定するものではない。それは山への畏敬のの念を持たず、自然の世界・神の世界を侵すものあり、災害などの形で人間世界の破壊につながりうるからである。
おはようございます。
深く賛同します。ここ数年モヤモヤと感じていたことを全て代わりに説明してもらったように思います。
私は主に千葉県内の里山をウロウロしていますが、千葉では山頂近くまで林道が通じる所もあります。山頂下まで車で乗り付けて、はい終了なレコも散見されます。山行スタイルは人それぞれで好きにすれば良いのですが、何だか勿体ないなぁ、と思います。私の場合は単に自家用車がないので歩くしかない、というだけなんですけどね。
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