御嶽山の噴火、衝撃的でした。
ニュースでしか知るすべもないですが、紅葉シーズンの休日、しかもお昼時。これはもう、考えられうる限り最悪のシチュエーションです。
舞台だって、もしこんな芝居を作ったら、あざとい、くどい、金返せって言われますよ。
しかし、それが現実になれば、もはやそれは悲惨でしかありません。
膝までくる降灰は、倒れた人を埋め尽くしてしまうでしょう。
遭難された方の、救命と発見を祈るばかりです。
ネットニューズを見ていたら、亡くなられた方々の人となりを掲載しているページを見つけました。
若いから死ぬのが不憫だとか、歳とっていたらどうなんだとか、そういうことは無意味な議論ですが、事実として存在する死に個性を付与することはよいことだと思いました。
死者は、人格を持った個人の死であって、積み上げられるボディカウントとしての「1」ではないからです。
しかし、その美文調のロマン的叙述にも、若干不安を感じるのです。
いつも災害のニュースには、1番目に生々しい悲惨な現実の報道。2番目に被害者や残された人のヒューマンドラマがやってきます。
ではその次に何が来るかというと、「日本は火山列島なのに、登山をするなんて無謀だ、自殺行為だ」といったような、おおざっぱな非難。
そしてその次には、行政の管理云々が来て、その後は忘却がやってきます。
登山をするには、さまざまなリスクがあります。
道迷い、滑落、落石、増水、雷、天候悪化、水分欠乏、野生生物、毒性植物、食料不足、装備、などなど、枚挙にいとまがない。
思考の濃淡はあれ、登山者はそれをイメージしているはず。
しかし、山の噴火を常にイメージできるかというと、それは難しい。
このあとのニュース報道がどうなるかはわかりませんが、現象のスペクタクル→ヒューマンドラマ→現象の極論を相対化した登山者全体への非難→行政への非難→忘却、といった流れになるならば、そうではないところでこの事実を受け止めなければいけないな、と思った次第なのです。
(これは、あらゆることに言えますが)
ニュースが売れるかどうか、というところとは全く別の次元で、当事者の現実がある。私たちは、そのようにしてニュースを肉体化しなければいけない、そう思うのです。
多くの人たちがそうであるように、私も御嶽山の噴火は知っています。
知っていますが、私の住む埼玉の空からは、その火山灰はおろか噴煙だって見ることができません。
そんな中で、一つ一つの事象に向き合っていくには、そのリアリティを想像して持続しなければならないし、それが重要な事だと思う。
さもないと、物事は一般化して、すぐに風化してしまうのだから。
生意気な記述ですみません。
ちょっと報道の方向が変わってきていて、それがいつもの変わり方なので、不安に思ったもので……。
いつもはこんなこと書かないですが、山のことなのでちょっとムキになってしまいまして……。
長文失礼しました。
seizanryoさん、初めまして。
登山者全体への非難→行政への非難→忘却…世間の望む方向に報道も動いていますね。登山者や行政を擁護したって世間は喜びませんから。
登山者への警鐘は登山届の提出くらいしか伝わってきません。山のことは登山者自身が向き合って考える必要がありますね。
masutyannさん、はじめまして。
私自身、この噴火関係のいろいろを、どう認識すればよいのか、実はよくわかっていません。頭を悩ませています。
自分があの噴火の現場にいたら、冷静に対応できただろうかとも考えます。
出来なかっただろうな。
ワンパターンな報道のスペクタクル的な展開は、個人的には好きではないですね。
単純化して類型化してしまえば、カテゴリーの棚にしまわれて、その先には忘却以外に道はないですから。
もちろん、人はいずれ忘れてしまう。
でも、それでも、その事実に向かい合いたいな、と思います。
微妙な記述ですみません。微妙な内容の日記にコメントありがとうございました。
seizanryoさん こんにちは。
8月があんな天気だったので、例年より多くの登山者が歩かれていたと思います。
噴火する数日前から兆候があり、火山予報なども控えめに注意を呼び掛けてますが・・・
殆どの方があんな事態を予想する訳が無く、被害に遭われた方の不幸を悼まずにはいられません。
震災もそうですが、生死の差を分けるのは何なのでしょうか?
単に運不運で片付けられません。
だからと言って山好きは山に行くのを止める訳ではないと思います。
活火山に行く際は火山情報を念入りに調べたり、メットを持参したりするくらいでしょうか?
まさか防弾チョッキみたいな物を着て行く方はいないでしょうし!
それも時間経過と共に喉元過ぎれば忘れ去られてしまうでしょう。
指摘されてるように山歩きには様々なリスクが伴います。
それを踏まえて真摯な気持ちで山に入るのは当たり前の事です。
何と言っても山は神域なのですから・・・
niiniさん、こんばんは。
そうなんですよ。リスクのすべてを回避することは出来ないのです。
赤信号で車にひかれないように交差点で信号待ちしていても、そこに人工衛星が墜落してくる可能性だってゼロではないのですから。
電車の事故にあわないためには、電車に乗らなければいい。
事故にあわないためには、自宅から一歩も出ないのが一番のリスク回避です。
でも、それは、本質的だが実際的ではない。
今回の噴火は、悼ましい出来事です。
だからこそ、いろいろ各々が受け止めないといけないのでしょう。
私自身も、どう受け止めていいのか、ちょっと混乱しています。
山は神域。確かにそうです。山上他界ですからね。
少なくとも、山に登るという事は、巨大な自然とダイレクトに向き合う事なんだとしみじみ思う次第。
まさに昨日houraikenと話していました。
ドラマ仕立てにしちゃって凄くイヤだ、と。
私、逆の立場ならブチ切れますよ・・
あんたらの飯代のために死んだんじゃない!って。
福島第一原発に関する報道なんかもご指摘の流れを見事に踏襲してますね。
今現在進行形の事象なのに情報は超小出しで、忘れるように仕向けないと色々都合が悪いんでしょう。マスコミっておっかないですよ。
houraikoさん、こんばんは。
そうなんです、どうしてドラマティックな仕立てにしてしまうのでしょう。
なんかニュースのインタビューも、そういうエピソード無理やり拾ってそうで。
「道で会うと、「こんにちは」って挨拶してくれる、とてもいい子でした」とか。
そうじゃない、って思ってしまう。
(だって普通、知人と道出合ったら、挨拶か会釈か、手を挙げるか、ウィンクするか、何かするでしょう)
そういうことじゃない。
死、ということについては、ある折り目正しさを持って悼まないといけないと思うのです。
福島の原発のことは、さすがはhouraikoさん、実はこの日記書きながら、私もそのことを思っていました。
地震の国ですからたくさんの地震がおきますが、東日本大震災は原発がからんで今までとは違う問題を呈している気がするのです。
それでも情報を選択的に小出しし、経済という言葉を免罪符に、すべてを飛び越えていこうとする。
ま、それでもいいのかもしれません。いいのかもしれませんが、「あさましい」という言葉が私の胸にやってきてしまうのは、何故だろうか。
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