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京の名所旧跡は他にもあるでしょうが、なぜか金閣寺が最初に頭に浮かんだので。。。
同じような事を考えた人が多かったのか、結構な人出でした。あいにく雪は大分消えていたので中途半端な雪景色でした。
帰りに三条河原町でバスを下車、前々から気になっていた高山彦九郎像の写真も撮って来ました。この像を待ち合わせの場所にする人が多いのか、通りがかった時には必ず人がいて思うような写真が撮れなかったものですから。。。
よく山頂で『○○山 ××××m』の山名標の前で記念撮影をしようとしたら、その真ん前でオバチャン集団が弁当広げていて邪魔、という感じです。
「このヒト、なんで土下座なんかしているの?なんかワルイコトしたの?」と思ってる方もいるかもしれませんが、これは土下座ではなく京都御所を拝礼している姿なのです。
台座の解説文をそのまま転記します。
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高山彦九郎 皇居望拝之像
江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。今ここにある銅像は高山彦九郎正之(1747〜1793)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。十八歳の時以来、前後五回、上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
その姿は
大御門その方向きて橋の上に
項根突きけむ真心たふと
橘 曙覧
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士
気概は高山彦九郎
京の三条の橋の上
遥かに皇居を伏し拝み
落つる涙は鴨の水
と歌いつがれた。
京都市観光部振興課
高山彦九郎大人顕彰会寄贈
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ペリーの黒船来航が1853年ですから、いわゆる幕末動乱の時代よりも随分前の時代の方です。
武士が忠節を尽くすべきはまず自分の主君であり、徳川将軍家である、というのが当たり前の時代に勤皇尊王を説いて全国を回った訳ですから、幕府のおぼえめでたかろうハズもありません。
幕府の追及を受け自刃、享年46。
「土下座像」などと言われているのが余りにお気の毒なので、書いてみました。
金閣寺よりも高山彦九郎先生の事が主になってしまった。。。
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