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人間の侵入を拒むように黒部峡谷での工事は困難を極め300人以上の犠牲者を出すことになる。
その工事の中で最も難工事であった阿曽原谷と仙人谷のトンネル工事。そこで繰り広げられる人間と自然との闘いの物語です。
最高で165度(!)という高温の岩盤。
人夫たちに水をかけながら作業を進めるもダイナマイトが自然発火による爆発で8名の命が一瞬にして奪われる。
また雪崩によって宿舎が丸ごと流され工事は中断され再開は無理だと思われていた。しかし電力を必要とする国(軍)の意向により工事は再開されることになる。
時代が違うといえばそれまでだが現在では考えられないこと。戦時中という異常な事態がそうさせたのです。
トンネルの貫通した時の模様がこう記述されています。
「人夫たちは、号泣することも忘れたようにただ腰を落とし、荒く息をしているだけだった」
映画「黒部の太陽」で見た歓喜の渦とのあまりの違いに言葉がありませんでした。
nipeさん はじめまして
高熱隧道の文字に思わず吸い寄せられるようにきてしまいました。
何度読んでも当時の工事のすさまじさ、異常さに絶句してしまいます
先般、その高熱隧道を訪れる機会がありました。山登りではないので気が引けるのですがレコアップしてあります。よければご覧ください
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-221742.html
高熱随道ってことは下の廊下にいかれるんですか?
下の廊下・日電歩道の開通の時期になると私も読んでしまいます。
わたは数年前に高熱随道を呼んでから実際に下の廊下を通って行って見ました。
トンネルの中が暑くて、当時のことを想像して楽しんでまいりました。
sakura0725さん、こんにちは。
レコ拝見しました。
「黒部の太陽」を見て「高熱随道」を読んだ今、見学ツアーに行ってみたくなりました。
meteoさん、こんにちは。
今のところ下の廊下を歩く予定はありません。
映画「黒部の太陽」の中で高熱随道のこともちょっとでてきたので読んでみました。
Nipeさん、日記ありがとうございました。恥ずかしながら、この件はまったく知りませんでした。
黒部といえば、第四です。4年まえに家内とはじめていき、2年前には会社の山仲間と立山のあと、東一の越から黒部平まで歩きました。関西電力が、第一から第四まで水力発電を建設したことは知っていましたが、第三となると宇奈月に近い?ですから、高温なのでしょうね。
黒四も約170名の方が犠牲になって完成。昭和37年?でしたでしょうか!! あのような山奥にあの規模のダム、そして約10キロでしょうか下流の地下に発電所。初めて黒部ダムを見たときのことは忘れもしません。水力発電に頼る時代は終わったんですね!!
Mikuniさん、こんにちは。
黒四は関西電力ですが黒部第三は日本電力という会社が作ったようです。
仙人谷から黒部ダムまでのルート、今はなくなってしまった日本電力が発電所建設の調査のために開削したことことから日電歩道と名付けられたようです。
高熱隧道とは関係ありませんが、黒部川の話がありましたが、何時の時代かはわかりませんが、「近代日本登山史」の中の写真に黒部川の籠渡しの写真が載っていました、
本当に川の両側に一本のロープで,それを利用して、
縄籠で腰掛けて行き来していたようですね、
現在では絶対に許可などおりないでしょうね、
nipeさん はじめまして。
吉村昭の高熱隧道、25年位前に読みました。
大戦前夜の時代背景とは言え、非人道的な劣悪な環境での工事の様子と、ホウ雪崩や予測もつかない黒部の大自然の猛威が印象に残る小説でした。
その後、伊藤正一さんの「黒部の山賊」を読む機会があり、一度は日本の秘境「黒部」に行ってみたいと思っております。
naiden46さん、こんにちは。
籠渡しですか。利用したくはないですね。
読み終えた「空白の5マイル」の中では川の両岸にワイヤーを張り滑車で渡る様子が書かれていました。
sige−chanさん、こんにちは。
自然の前では人間の力はなんと小さいものかと思わされました。
黒部、ぜひ歩いてみてください。
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