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気持ち良いのか脂ギッシュなのか、とにかく汗をかいて勾配を歩き、息も絶え絶えで辿り着いた山からのパノラマは、それまでの人生観を変えるきっかけになった。
山に登り始めた当初は、ガイドブックや地図、ノウハウ本を読み漁り「どうやら富士山以外に凄い山があるらしい」「ゴアテックスという無敵のバリアの様な服が存在する」という事を知り、インプットをしては山に登ることを繰り返していた。
のめりこむ程社会との隔たりや交友関係に変化が見られ、私に山に登るきっかけを作った妻が「また山か」と、何か得体の知れない生物に嫌悪する目で私を見つめ、文明人として耳を疑う行為を平然と話す人という噂(半分事実)が流れ、登山を始めて数年でその影響力を思い知ったのである。
それまで周囲が見る私という輪郭が「真面目でお人好し」から「変態で獣的」に変わったのもこの数年の間で、とりあえず私という人間の概念が固まったので、初対面の人には野糞とカエルを食べる話をすればその後のコミュニケーションに支障がきたさなくなり、山を登って人間関係がある意味良好になったのは、嬉しい誤算である。
恐らく他の活動をしていたらこうはならなかっただろう。登山というのは時に長い人生を表現する時にも使われるほど深く、人間の根源に訴えかける行為であるからかもしれない。
そんな自分の生活に影響を与えた登山。中でも大きな変化をもたらしたことのひとつは、道具に対する考え方である。
登山の道具は、自分の命を自然環境で存続させるための重要な要素である。レインウェアやテントが無ければ悪天候に耐える事は難しく、鍋がなければ煮炊きをすることも出来ない。自分の生死を左右する重要な登山道具は、ひとつの大きな山行を終えると不思議な愛着、というか自分が乗り移ったような感覚すら芽生えさせ、ちょっと穴が空くと丁寧に補修し、性能的な寿命を迎えれば、供養のように処分することもある。
それでも捨てることが出来ないので部屋には不思議と道具が積み重なり、時折引っ張り出しては使ったりする。道具というのは自分を表現し構成する身体の一部のような側面もあり、さらに命を繋ぐためにコストを惜しまない。それを感覚的に理解する一部の登山者は「穴だらけのTシャツを着倒してスケスケの包帯みたいになるまで着て社会的地位を失いかねない」事態になったりもする。
日常のものも含め、道具のメンテナンスと整理整頓は10年以上前に比べれば欠かさなくなった。
道具の延命とパフォーマンス維持に余念はなく、使ったら一番影響の受けにくい場所に保管する。道具は自分の分身であるという感覚がそうさせるのか「まだ使えるでしょ」という言葉は、登山者と一般的な人ではどこか質が違う事も感じるようになった。
そうなると、自分の力があまり及ばない家電には興味を示さなくなり、我が家では炊飯器が姿を消し、エアコンは愛犬と娘が生活の主体となっている1階にしか設置されていない。(単に設置が面倒ということもある)
道具やモノに対する思考は徐々に極まりつつあり、最近はトイレや文明では欠かせないトイレットペーパーの存在が疑わしくなっている。尻を拭くなら何か別の方法がありそうで、できればウンコも自然に還元したい。そう思う様になったのは、自然界での野糞であり、山登りをしているから行き着いた私なりの思考だ。ただここまで極まりそれを実行し続ける勇気は無いので、今は時々にしている。
私が今行き着いている私を取り囲むモノに対する考え方は「自分の分身であり命を存続させるモノ」が結論であり、生活を含めた自分の人生が豊かになったのは、間違いなく登山のおかげであり、山に関わっていない自分を現在は想像できない。
先日『くう・ねる・のぐそ』自然に愛のお返しを 作:伊沢正名
という本を読んだばかりなのでついコメントしてしまいました。
ペーパーを使用しない環境に優しいのぐそなど面白い内容の本でしたよ。
よろしければご参考まで
コメント、またご丁寧な案内を頂き、感謝申し上げます。
ウンコの事を真面目に考えていたとき、私も数ヶ月前に伊沢氏の同書籍に辿り着きました。
私には至らない境地を文字通り実践し続ける氏の野グソ率にいたく感銘を受けたのを覚えています。
人は何故ウンコという刹那的な出会いに愛着を抱くのか、気になるところです。
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