ボルダリングにでも行こうかと思ったが、気がかわり図書館にて地元の史料を読んでみた。
っていうか、他に面白そうなものがなかったので、懐かしむために^_^;
海軍航空隊
これは物心ついたときから知ってる
子供の頃、地下通路に潜ったりして遊んだものだ
遊び場だった裏山には防空壕もたくさんあり、肝試しに入ったり…
少年航空隊の練習場から特別攻撃隊の基地となり、○○部隊(特攻隊)
となる
元が練習場だったのは知らなかった、特攻隊のことは幼くして自然と知った。
この○○部隊の碑のそばには、大きな碇、砲弾が置かれ、少年時代の遊び場だった。
昔は立派な胡桃の木があって、よく拾っては食べていた
残念ながら6年ほど前に切り倒されてしまいましたが…
終戦後は米軍に接収され、アメリカ軍が駐留
半年ほど米軍の管理下となる
駐留した人数
多いときは7500ほど、平時は4500ほど
軍の規律はよく行き届いていたらしい
地元民はキャンプの雑役(日当10円)
日本軍の使用していた機材、家具などをどんどん捨てて、地元の人の中にはそれらを使って儲けた人もいる
ここら辺は知らなかったなぁ
当然と言えば当然
その後、緊急開拓法と農地改革によって本格的に開拓が始まる
この頃に今の我が家は誕生した、豊橋、安城と移り、戦乱の中満州へ渡ったが、敗戦の混乱の中、命からがら帰ってきた。
この帰国までの途中で、祖母は一人娘を亡くしてしまう
この亡くなった娘のことは後に作成された回顧録、祖母の葬儀の時に初めて知った…
海軍航空隊跡地は、大蔵省に引き継がれ、農林省の管理に移り、愛知県が代行機関として開拓が進められた
祖母と祖父は飛行場跡地を開拓して、小さな平屋を建てる
この土地で娘が3人、そして父が産まれ
ほどなくして祖父は他界してしまう…
祖母は女手一つで子供を育て上げ、現在の立派な家まで建てた…
私と違い、人望が厚く、損得勘定など関係なく、困った人や頼ってくる人に手を差しのべていた。
やがて現在の○○町と命名され一部落を形成した
現在のある施設は
旧海軍の兵舎とその敷地の一部は法務省に受け継ぎ立てられたものである
その施設…昔ゴルフボールを打ち込んだりしてました。
クソガキでご免なさい(>_<)
ちなみに猿投山の西回りコースにある、天然記念物の花崗岩(菊石)、これは昔はそこらにゴロゴロしていて、たくさん採れたそうだ…
価値があるとなってからは沢山の人が訪れ、皆が採っていき、今では貴重なものとなってしまった。
この地方にも方言はいろいろあるのだが、その中で私の家で実際に使われていた言葉の一部
右が意味です。
そいで…それで
そんなら、ほいじゃ…それなら
ほい…ねぇ
おそがい…恐ろしい
こそべたい…くすぐったい
おいでる…いらっしゃる
ちゃっと…早く
でかい…大きい
あっちべた…向かい側
余談だが、おいらの父は鶏肉を絶対に食べない
その理由は長くわからなかったが、祖母の葬儀の時に初めて明かされた
我が家には鶏小屋があって、父が子供のころのこと
ある雪の日、食用に鶏をしめる時
祖母が首を切り落としたのだが、その直後その鶏が雪の上を走りまわり
それを見ていた父はトラウマとなってしまったそうだ。
こんにちは
ぼくも住んでいる町の戦前の姿を図書館で調べるのが大好きです。軍の基地、病院や学校の位置、住宅地になる前の歴史、道路や鉄道が何故そこにできたかの理由、図書館もおもしろいけど年寄りに聞くのもさらにおもしろいです。
私の母も満洲からの引き揚げです。子供のうちにあちらで亡くした弟や妹の名前など、父母祖父祖母が生きているうちに聞いて、書き留めておかないと、誰にも知られない人になってしまい不憫です。以前、母と満洲の故郷を旅した事があります。行って本当によかったです。
ヨネヤマさんこんばんは。
コメントを頂きましてありがとうございます。
そうですね、山に限らずその土地の歴史、先人の体験談など、もっと広く知られるべきことはたくさんありますね。
満州からの引き揚げやその後の苦労など、戦争を知らない私達には想像もできないですが、仰るように知られることのないままは不憫ですね
私の叔母、祖母の葬儀の折に、ようやく墓碑に名前と戒名が刻まれました
これまで家族に明かさなかった祖母の心中、毎日欠かさずお経を読む祖母、ずっと背負っていたんだな…と、改めて思ったりします。
母との満州の旅、素敵ですね。
私は親不孝ばかりなので、早い内に孝行しないとなぁって思ってはいるのですが…^_^;
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