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・・この不自然な国境線の由来は、戦国時代に始まる河内・大和の国の農民の水争いに端を発している。この農業用水の利権をめぐる水争いを調停した時の権力が、大和の国に軍配を上げたことによって、自然の国境線が無理やり大和の国に有利なように変えられた、というのが真相のようなのだ。・・
(「金剛山のカタクリ/秘密の花園」ヤマレコ2023年2月15日の日記)
しかし、ほんとうにそれが正しいのか、ふと気になってきた。ネットで河内・大和の水争いについて検索してみると、3つの資料がひっかかった。1つは、「大和と河内の国境論争に伴って作成された立体図」という文書、もう1つは、金剛山のレジェンド根来春樹氏の書かれた「水越峠の水争い」という、この事件に関連する古文書を、何が書かれているか分かりやすく書き並べたもの。3つめは、くりんとの登山ガイドの「水越川の水論争とダイトレ」である。
これらの資料から、河内・大和の農民の水争いに終止符を打った、江戸時代元禄期(1701年)の京都所司代の判決による国境線と、当時、両国の農民の主張する国境線が、それぞれ地図上のどこを通るのかが、はっきりと分かってきた。
●まず、大阪側、河内の農民の主張する国境線は、以下のとおりである。
葛城山〜水越峠〜(尾根伝いに)越口〜(尾根伝いに)旧パノラマ台〜ダイトレの尾根〜白雲岳〜湧出岳
●次に、奈良県側、大和の農民の主張する国境線は、以下のとおりである。
葛城山〜(尾根伝いに)水越トンネル入口〜太尾〜六道ノ辻〜大日岳〜金剛山頂(葛木神社福石)〜湧出岳
この2つを比較すると、個人的には、大阪側の主張する国境線の方がずっと自然で、こちらに軍配を上げたくなってしまう。というのは、彼らの主張する国境線が、自然の分水嶺になっているからである。実は、大和の農民は、この裁定以前から、モミジ谷から流れてくる水を、分水嶺が最も低くなる「越口」で、人工的に水路を作り、奈良県側の関屋方面に落としていたのである。しかし、長い間の既得権になっていたこの水利権を、新しい水田開発で水不足になってきた大阪側の農民が不満に思い、実力行使で水路をふさぎ、奈良県側に水が流れないようにしてしまった。当然、奈良県側の農民は怒り、すぐに水路を元通りにする・・といういたちごっこが始まった。
1701年、特に水不足が深刻だったこの年、大阪側の農民は、ついに、手に手に鋤や鍬、鎌を持ち、1000人以上が決起する事態となった。さすが、大阪人は、昔から頭に血が上りやすかったのか・・と思ってしまう(笑)。流血沙汰を避けたい奈良県側は、近隣の6ヶ村の庄屋が連名で口上書を幕府の役人に提出、法廷闘争に持ち込んだ。こうして、その年の12月、江戸幕府の京都以西の行政を所轄する京都所司代の最終的な判決が言い渡されたのである。
●それによると、京都所司代の判決による国境線は以下の通りである。
葛城山〜水越峠〜(尾根伝いに)越口〜現在の県境尾根〜六道ノ辻〜大日岳〜金剛山頂(葛木神社福石)〜湧出岳
この京都所司代の調停案を見ると、大和・河内の農民双方の言い分の中間を取った、ごく穏当な判決であるということが分かる。しかし、この判決によって、越口から南のモミジ谷やカヤンボ谷は大和の国のものとなり、奈良県側が、従来通り、越口の水路から農業用水を利用する権利が認められることとなった。つまり、判決は奈良県側の勝訴であり、大阪側の敗訴に終わったのである。
しかし、では、この判決をもって、金剛山頂付近の不自然な国境線の由来が、「時の権力によって大和の国に有利なように変えられたから」・・と言えるのかというと、事実は全く違っていたことが分かる。つまり、私の推測は全くの見当違いだったのである。
何故なら、京都所司代の判決による国境線は、現在の大阪・奈良府県境のように、自然の山の稜線から外れて、六道ノ辻少し南から西へ向かい、金剛山西側の尾根や谷をズタズタに横断して、カタクリ尾根から大阪府最高地点へ至る、こんな乱暴な国境線を引いた訳ではなかったからである。それどころか、奈良県側の農民の主張する国境線でさえ、すべて、六道ノ辻〜大日岳〜金剛山頂(葛木神社福石)〜湧出岳という、自然の稜線上をきれいに通っているのだ。だとすれば、江戸時代以前の河内・大和の国境線も、ほぼこれに近いものであり、この状態で、幕末まで続いたと考えられる。
それなら、いつ、こんな変な府県境に変わってしまったのか。金剛山のレジェンド根来春樹氏も「葛木神社でも分からない。明治以降に大きな事件はなかった。奈良県庁に問い合わせても分からない。」と仰って、完全に匙を投げておられる。だが、私には、一つ思い当たることがある。それは、明治の廃仏毀釈と廃藩置県という出来事である。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)は、1868年の神仏分離令に始まる。江戸時代まで、仏教の寺院と日本古来の神々を祭る神社とは、ごく自然に仲良く共存していた。寺の境内に神社の神々が祭られ、仏を守護する守護神のような役割を与えられ崇められていた。しかし、天皇を中心とする中央集権国家を作ろうとした明治政府は、天皇家の祖先とされる天照大御神をはじめとする日本古来の神々を祭る神社を、仏教寺院から分離させて、国家神道として明治新政府の保護の下に置くことになるのである。そのため、日本中で、仏教寺院や仏像・仏具などの破壊運動が起こった。これが廃仏毀釈と呼ばれるものである。
金剛山転法輪寺も、廃仏毀釈の嵐にさらされ、大きな被害を受ける。というより、壊滅的な打撃を受けたという方が当たっているだろう。というのも、江戸時代までは、山頂に本堂があり、山麓には、五堂七宇と呼ばれるほどの堂塔・伽藍・僧房があって、さながら修験道の一大メッカであったと言われていたのだ。それが、廃仏毀釈後は、それらの建物は跡形もなく消え去ってしまう。現在の本堂は、つい最近、1961年(昭和36年)に再建されたものなのである。
廃仏毀釈後も、生き残った寺院も多い中で、何故、金剛山転法輪寺だけが、これほどまでに徹底的に破壊され、その存在を抹消されなければならなかったのか。その理由は、この寺を開いた山岳修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)にまつわる伝説にある。
役行者こと役小角(えんのおづぬ)は、大和の国、葛木の上の郡、茅原村に、古代豪族賀茂氏(かもし)の流れをくむ血筋に生まれた。それが、やがて成長するにつれて、金剛〜葛城の山中に入り、修行の末、密教の呪法を身につけ、空中を飛び、前鬼後鬼と呼ばれる鬼神を従え、果ては、一言主(ひとことぬし)の神をさえ、金剛山と吉野の金峯山の間に橋を架ける工事に使役したと言われているのである。一言主の神と言えば、賀茂氏祭祀の葛木の山神である。本来自分の一族の祭るべき神を、密教の呪法で無理やり家来のように従え使役したというのだから、穏やかではない。賀茂氏一族にとって、役小角は、とんでもない異端児、一族の裏切り者と言われても仕方がない存在だったのである。
江戸時代まで、一言主の神は、金剛山転法輪寺境内の葛木神社に、仏教の守護神のような存在として祭られていた。ところが、明治維新となり、日本古来の神々を尊び仏教を蔑む風潮が生まれる。金剛山の奈良県側の山麓に本社のある一言主神社を尊崇する地元の農民から、役行者が開いた転法輪寺を敵視する風潮が生まれてもおかしくない。こうして、廃仏毀釈の嵐の中で、転法輪寺とそれに関係する堂塔・伽藍・僧房が徹底的に破壊され、金剛山頂には、葛木神社だけが残されたのである。
この廃仏毀釈の嵐の後に来るのが、廃藩置県だった。廃藩置県は、江戸時代の藩を廃止して、近代的な行政区画である県に改める、というものだが、その際、かつての旧分国がいくつか合併して一つの県になったり、分国の国境線が変更されたりしている。おそらくこの時、金剛山頂のあの不自然な府県境によって切り取られた一帯が、河内の国から切り離されて奈良県に統合されたのではないか・・というのが、私の推測である。
そのヒントになったのは、金剛山の国有林の境界線が、あの不自然な府県境とぴったり一致するという不思議な事実である。そもそも国有林の起源は、各藩が所有していた藩有林や、「寺社の所有だった山林」が、明治政府に編入されて成立した・・と書かれている。(林野庁ホームページ)
ということは、こう考えられるのである。あの不自然に切り取られたような金剛山頂付近の土地は、かつて広大な堂塔・伽藍・僧房が建っていた転法輪寺の所有する土地だったのではないか。それが、廃仏毀釈で転法輪寺は跡形もなく破壊され、葛木神社だけが残された。転法輪寺所有の山林は、明治政府に接収されて国有林となり、明治政府の保護の下に葛木神社の神域として守られた。
金剛山頂の葛木神社は、奈良県側の鎮守としての地主神と38社が合祀されている。一言主の神は、奈良県側に起源を持つ、古代豪族賀茂氏の祭神であり、本社は奈良県側にある。となれば、当然、奈良県の管轄下に置くのが筋だろう。
こうして、あの、無理やり大阪側から切り取られたような不自然な府県境が生まれたのである。以上が私の推論だ。しかし、この不自然な府県境のおかげで、現在に残る金剛山の美しい自然林が、国有林として保護され、守られてきたのだから、それはそれで幸運だったにちがいない。
大変興味深く読ませて頂きました。
廃仏棄釈と廃藩置県ですね。世界遺産の法隆寺でさえ廃仏棄釈の嵐に廃退し、多くの宝物が皇室に献上されたと聞いています。
ところで現在の金剛山頂はどうでしょう?
所在地は奈良県でも実質的には大阪府、あるいは千早赤阪村のように見えます。
山頂売店の位置は県境の東側奈良県御所市でも千早赤阪村の番地があります。山頂一帯の電話番号も河内長野の局番です。ダイトレも奈良県を通っていますが管理は大阪府環境農林水産部です。
ますます複雑ですね。
おっしゃるとおり、現在の金剛山は、大阪からの登山者であふれかえっていますね(笑)。登山道も、千早側からのルートがメインになっています。山頂売店に千早赤阪村の番地があるとか、電話の局番まで河内長野の局番だとは知りませんでしたが(笑)。
でも、金剛山の歴史を彩る人物や出来事は、楠木正成以外、圧倒的に奈良県側の影響が強い気がします。その意味で、金剛山は、やはり大和の国の文化の香りがする山なのだと思います。
何度もすみません。
山頂売店の住所の件ですがGoogle mapに住所を入力して確認したところ、麓の住宅を示すので、この住所は連絡先のようですね。
因みに、転法輪寺のHPを確認すると住所は奈良県御所市で電話番号は河内長野の局番でした。
私の早とちりで申し訳ございませんでしたm(._.)m
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