昭和46年生まれ、現在49歳のおやじです。
広島県で生まれ育ち、「原爆」や「戦争」のことは教科書でよく習いました。
私は「日中戦争」⇒「太平洋戦争」、亡き(父方)じいちゃんは「シナ事変」⇒「大東亜戦争」。同じ時代の事なのに何故か違います。
昭和20年12月生まれの母は今でも千羽鶴を折って、8月6日に広島平和公園へ献上しています。長い間、平和記念式典にも参列していましたが、令和2年はコロナの影響もあり自宅で祈るようです。
山を巡っていると、未だに高射砲陣地や指揮所跡など戦争遺構を目にします。
じいちゃんより上の世代は「お国」のため、絶対的忠誠心を強いられていたでしょう。ちょっとでも逆らえば、憲兵が怖かったと・・・聞いたこともありました。
昭和20年7月1日:戦艦「大和」を建造した呉が大空襲に会い、事実上壊滅。「大和」は4月の桜時季に沈んでいました。。
じいちゃんは軍から徴用され、西条から安浦を越え(30km以上歩いて)呉の後始末に行ったそうです。空腹に耐え兼ね、焼け野原の呉の街に転がっていた「タコ」の缶詰を隠れて頂いたそうです。「あのタコは美味かった。。」と目をつぶり、しみじみと語っていたじいちゃんの話しを当時は笑いながら聞いていたのですが・・・。
後始末のため徴用された「原爆」のことは殆ど語らず終いでした。家族に聞かせたくないと、じいちゃんの思いやりだったと思います。
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