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オーディブルはダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』の続き。
◎デイル・ヤシーン事件(1948年4月)
・イスラエル極右過激派のイルグンとレヒがエルサレム近郊のアラブ人の町に侵攻、大半が女・子供・老人の住民100人〜250人を虐殺。
・世界中のユダヤ人コミュニティに衝撃が走り、アイシンシュタインやハンナ・アーレントなどの米国のユダヤ人はイルグンの指導者で後のイスラエル首相のメナヘム・ペギンを糾弾したが、事件そのものは都合よく忘れられた。
「ほとんどのアメリカのユダヤ人の子供たちは、ユダヤ人コミュニティの教育施設で教わるイスラエルの歴史の一部として、そこで何があったかを教わることはない。彼らが教わるかなり美化したバージョンのイスラエルは、間違ってもそんなことをするはずがないのだ。そのため、彼らが大学に進み、怒れる反イスラエル主義者がデイル・ヤシーンでのシオニストの残虐行為を語るところに出くわすと、とっさに信じまいとする。わざわざ調べてみて、大虐殺は実際にあったと知るや、不完全で誤解を招くイスラエルの歴史を教えたユダヤ人コミュニティの教育施設に裏切られたという思いを抱く。アメリカのユダヤ人の若者たちが受けたイスラエルに関する教育に、ユダヤ人のテロリスト集団や、その運動をつぶそうと動いたイシューヴのユダヤ人組織の話題が含まれていたら、それがいかに不愉快で気まずいものであれ、彼らはデイル・ヤシーン事件の状況を理解できたかもしれない」
◎第1次中東戦争(イスラエルでは「独立戦争」と呼ばれ、パレスチナ人には「ナクバ(大惨事)」と呼ばれる。1948年)
・イスラエルの独立宣言は同年5月14日。イシューヴの指導者ベン=グリオンによってなされた。この日を境にイシューヴの戦闘部隊はイスラエル国防軍を名乗るようになる。英国は撤退。
・ベン=グリオンら実利重視の社会主義的シオニズム(労働シオニスト、左派)は、英国や国連が提案する分割案はすべて呑んだ。
・イルグンなど過激派を率いる右派シオニストとの火種は残ったまま。左派がイスラエルとパレスチナの平和的妥協をはかろうとするたびにそれを邪魔し、左派のラビン首相を暗殺したりしている。
「数年前、私は子供たちと一緒に、アムステルダムにあるアンネ・フランクの家を訪れた。訪問後、すべてを理解しようと頑張っている娘(当時11歳)にこうたずねられた。アンネと家族はなぜ、アメリカでもカナダでもオーストラリアでも、「どこでもいいからほかのいい国」に行かなかったのか、と。私は娘に、ヨーロッパで恐ろしいことが起こっているとはっきりわかってもなお、ヨーロッパのユダヤ人を進んで受け入れてくれる国は世界のどこにもなかったのだと説明した。当然、娘は信じられない様子で、どうしてユダヤ人が安全に行ける国が世界に一つもないのかときいた。まさにそのときその場で、私はシオニスト意識の誕生を目の当たりにしたのだ。
というのも、ヒトラーが「最終的解決」を実行する前の数年間に、ヨーロッパのユダヤ人の多くに避難場所を提供する国が世界に一つでもあれば、言うまでもなくあなたが本書を読むこともなかっただろうからだ。シオニストの企てが始まった理由はホロコーストではなかったとしても、その企てが成功した理由はホロコーストだったはずだ。娘の願いをかなえてくれる「いい国」が一つでもあったとすれば、移民もおらず存在理由もないイシューヴ(ユダヤ人共同体)は孤立した小集団のままで、いずれ縮小して消滅した可能性がきわめて高い。
だが、そうはならなかった。シオニストは正しかった。つまり、ユダヤ人以外、誰もユダヤ人の面倒を見てくれることはなかったのだ。ヒトラーがヨーロッパのユダヤ人を根絶やしにしようとした時代に生き、それに気付いていた人が、いまでも世界中にいる。イスラエルが存在する根拠は、大昔の歴史ではない。あなたのすぐそばで暮らし、息をしているのだ。イスラエルは、文字どおり生きるか死ぬかの問題に対する複雑で不完全な答えだった。イスラエルが建国されたとき、ユダヤ人にとってそれ以上のものは手に入らなかった。イスラエルは、大海で彼らが唯一つかまることのできた板であり、唯一手にしていた救命筏だったのである」
◎強制移住=均質的な国民を無理やりつくるための民族浄化は20世紀前半のトレンドだった
・イスラエルの建国によって何十万人ものパレスチナ人が故郷を追われ、強制移住(=民族浄化)させられた。土地の強奪は、故郷を追われたパレスチナ人の増大と家に戻らせてほしいという切実な願いを生んだ。いまでも古い家の鍵はパレスチナ人のシンボルとなっている。
・1920年代のギリシャ人、トルコ人の強制移住(数百万人)
・第二次大戦中は、ユダヤ人のみならず、ロシア人、ポーランド人、ゲルマン民族など数千万人が誤った国にいるという理由で祖国から追い出された
・スターリン時代のソ連では数百万人のソ連人が国内で強制的に移住させられた
・インド独立闘争では何百万人ものヒンドゥー教徒がのちのパキスタン、バングラデシュから追い出され、同じく何百万人ものイスラム教徒がインドからこれらの隣国へ追い出された
・イスラエルの建国によって追放された70万人のパレスチナ人はヨルダン、ヨルダン川西岸、レバノン、シリア、エジプト、当時エジプト支配下のガザ地区へ。だが、彼らの大半は歓迎されたのではなく、厄介なお荷物として難民キャンプに留め置かれた。現在その子孫は500万人を超え、世界各地に離散している。
・イスラエルとアラブ諸国の戦争後の1949年に採択された国連決議では、「1948年の戦争で生じた難民が、故郷に戻って隣人と平和に暮らしたいと望むなら、できるだけ早期にそれが許されるべき」とされ、それがパレスチナ人が故郷への「帰還権」を有するという主張の根拠となっている。だが、難民とその子孫がイスラエル領内に帰還すれば、「アラブ人の人口>>ユダヤ人の人口」となり、ユダヤ人は少数派に転落する。
・1949年に国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)ができ、登録難民は難民としての地位を子孫へ引き継げる。現在60か所のキャンプに140万人が収容されている。
◎イスラエル内の勢力分布
・建国前からいたのはアシュケナージ系ユダヤ人。現実路線を貫く左派労働シオニストの主流派と、パレスチナ人追放をうたう右派に分かれる。
・数十万人のホロコーストサバイバー:ヨーロッパ出身のユダヤ人
・75万人以上のミズラヒ系ユダヤ人(ミズラヒはヘブライ語で「東の」の意味):イスラエル建国により中東や北アフリカで反ユダヤ主義が広がり、そこから逃れてきた人たちで、アラビア語を話し、食事、服装、文化、音楽もそれぞれの出身国のもの。→イスラエルの支配層であるアシュケナージ系ユダヤ人から再教育が必要な粗野な人たちだと見下され、入国後は一時滞在キャンプに収容され、その後、国の周縁部や都市部でも危険な地域に定住させられた。
◎スエズ危機(第二次中東戦争、1956年)
・汎アラブ・ナショナリストで反イスラエル主義者のエジプト大統領ナセルがイスラエルに対抗するためにソ連に接近。ソ連がエジプトやシリアに武器を供給し、フランスとのちにアメリカがイスラエルに武器を提供するという冷戦の構図。
・ナセル排除を目的に、英米はエジプトのアスワンハイダム建設プロジェクトへの出資を停止。ナセルはその意趣返しにスエズ運河の国有化に打って出る。英仏イスラエルは秘密同盟を結び、イスラエルがシナイ半島に侵攻。エジプトが英仏による休戦の呼びかけを拒否すると、それをネタに英仏軍も侵攻。だが、3カ国がグルになっているという密約がバレ、イスラエル軍はシナイ半島から撤退を余儀なくされると、英国の威信にも傷がつき、英国の中東支配は事実上終わる。
◎六日戦争(第三次中東戦争、)
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