![]() |
1カ月半ぶりとなった先週末の山行で、脚がプルプルになった影響がモロに出て、昨日は1日筋肉痛が酷くて階段の昇り降りにも苦労したけど、今朝は多少緩和したのでほぐすためのリカバリージョグに行ってきた。平地を走ってる分にはとくに問題はなかったけど、昔住んでた恵比寿南三丁目から目黒川方面へ一気に下る別所坂の急坂では、さすがに腿が拒否した感じで、そろりそろりと歩くしかなかった😎 今回からスマホに合わせてタテ撮影してみたけど、ヨコ画像に慣れているせいか、画面に収まる情報量が少ない気がして気になる。たぶん慣れの問題だと思うけど。
#朝ラン #早朝ラン #ランニング
オーディブルはダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』の続き。
◎六日戦争(第三次中東戦争、1967年)
・スエズ危機後、保守的なサウジやヨルダンはアメリカに接近、急進的なシリアやイラクはソ連に接近。アラブ世界最大で最重要プレイヤーだったナセル大統領率いるエジプトは、米ソ両国に色目を使い、アラブの保守派と急進派の両陣営の支配を目論む。
・1964年に創設されたPLO(パレスチナ解放機構)は、シリアが支援する過激派組織ファタハ(反シオニスト同盟とパレスチナの解放のためには民間人を狙ったテロも辞さない戦略で、エジプトやヨルダンから嫌われていた)の創設者の1人ヤセル・アラファトを議長に迎え、ナセルの後援を得て活動を開始。
・イスラエルとシリアがゴラン高原で衝突、シリア指導者層が親ナセル派に交代すると、エジプトとシリアは連携してパレスチナ解放運動を主導し、ナセルはシナイ半島の和平を監視していた国連緊急軍に撤退するよう要請。シナイ半島にエジプト軍が入り、イスラエルとの約束を反故にしてティラン海峡(イスラエル最南端のエイラート港からアカバ湾→紅海を経てアラビア海へと至る唯一の通り道)を封鎖。もしイスラエルと戦争になったら、「(イスラエル建国前の)1948年以前の状態」に戻すと宣言して、イスラエルを挑発する。
・度重なる挑発に開戦やむなしに傾いたイスラエルは緊急戦時内閣として、タカ派の英雄、眼帯姿のモシェ・ダヤンを国防大臣に、極右過激派イルグンの指導者で野党党首のメナヘム・ベギンを無任所大臣に任命し、6月4日に賛成多数で先制攻撃を承認した。
・6月5日未明に飛び立ったイスラエルの戦闘機は数時間の攻撃でエジプト空軍を壊滅状態に陥れ、その日のうちにヨルダンとシリアの空軍も撃破。イスラエルの陸上部隊がシナイ半島とガザ地区になだれ込み、エジプト軍を圧倒、スエズ運河に到達し、ほぼ数日で事実上終了。
・イスラエルはエルサレムの旧市街にある聖地(嘆きの壁と神殿の丘)を奪取し、ヨルダン川西岸へも侵攻、ゴラン高原からシリアの脅威も排除。ヨーロッパのユダヤ人が壊滅してからわずか20年後のイスラエルは、たった6日間の戦争で、それまでの3倍もの土地を占領する強大な国家に生まれ変わり、占領地域で暮らす100万人のアラブ人を支配することになる。電光石火の大勝利からわずか数ヶ月後、ヨルダン川西岸に最初の入植地が建設された。1948年に故郷を終われ、比較的安全なガザ地区とヨルダン川西岸に逃れてきた100万人のパレスチナ人は、ふたたびイスラエルの支配下に置かれ、さらに何十万人ものパレスチナ人が決して親切とは言い難い隣国へと逃れていった。
◎ブラック・セプテンバー事件(1970年)
・6日戦争で何十万人の難民がなだれ込んだヨルダン王国の政情は不安定になり、ヨルダンの法律を無視したPLOが活動拠点をおき、国内に別の国家がある状態に。ヨルダン王政の打倒を求める者もいて、国王暗殺の陰謀も明るみに。
・PLO傘下でマルクス・レーニン主義を標榜するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)による民間航空機5機同時ハイジャック事件が発生。うち3機がヨルダン国内の旧英軍ドーソン基地=PFLPは「革命空港」と称した=に強制着陸させられ、人質解放後、機体は爆破された。
・ヨルダンのフセイン国王はこれに激怒、PLOおよびPFLP排除のために全土に戒厳令を敷き、内戦に突入。シリアがPLO支援にまわる一方、ヨルダンはアメリカに助けを求め、戦闘が激化したものの数か月で終結、PLOはシリアに敗走した。
・ところが、シリアで軍事クーデターが発生、空軍司令官だったハーフィズ・アル=アサドがバアス党の指導者と大統領を追放して権力を掌握。PLOと対決姿勢をとったことで、PLOはレバノンに追いやられた。
・PLOはこの一連の事件を「ブラック・セプテンバー」と呼び、最大派閥ファタハが結成した秘密テロ組織のグループ名とした。このブラック・セプテンバーが1972年にミュンヘンオリンピックでイスラエル選手団を殺害した(ミュンヘンオリンピック事件)。
・PFLOはその後、日本赤軍と手を組み、1973年にドバイ日航機ハイジャック事件、1974年にシンガポール事件、在クウェート日本大使館選挙事件を起こし、ドイツ赤軍と共謀して1977年にルフトハンザ航空機ハイジャック事件を引き起こす。
・この黒い9月事件を機に、イスラエルとアメリカの同盟関係が強固になり、現在に至る。
◎ヨム・キプール戦争(第4次中東戦争、1973年)
・1970年、ヨルダンとPLOの停戦に尽力したエジプトのナセル大統領が心臓発作で死亡、アンワル・サダトが後を継ぐ。シナイ半島奪還を目指すサダトは、同じくゴラン高原を奪還したいシリアの新しい独裁者アサドと手を組み、ユダヤ教で最も神聖な日であるヨム・キプール(贖罪の日)を狙ってエジプトとシリアがシナイ半島とゴラン高原に建設されたイスラエルの軍事拠点に奇襲攻撃をかける。
・当初はエジプトとシリアが優勢に戦いを進めるが、アメリカがイスラエルへの武器を提供すると立場が逆転。数日でシリアをゴラン高原から追い出し、エジプトもシナイ半島から駆逐した。だが、それ以上侵攻するならソ連が軍事介入すると威嚇し、アラブ産油国もイスラエルの同盟国に対して原油禁輸措置を発動すると発表するに及んで、停戦。
・サダトは戦争には敗れたが、当初の目論見通り、イスラエルを返還交渉のテーブルにつけることに成功する。そのためにソ連と手を切り、アメリカに急接近した。
◎左派労働シオニストから右派リクード党への政権交代(マハパク、1977年)
・戦争には勝利したものの、数千人の死者を出したイスラエルには政治的動揺が走り、右派リクード党を率いるメナヘム・ベギンが建国以来イスラエルを導いてきた左派労働シオニストを総選挙で破ってはじめてイスラエル首相となる。この選挙はヘブライ語で「マハパク(
大波乱。革命に近い言葉)」と呼ばれる。左派の労働シオニストの企ては社会主義のそれだったが、リクードはブルジョワ資本主義者であり、領土最大化主義者であり、ユダヤ人がイスラエルの地の唯一の正当な継承者だと信じる保守的ナショナリストだった。
・リクードを支持したのは、あとからイスラエルに参加したアラブ・イスラム圏出身のミズラヒ系ユダヤ人であり、彼らは建国以来の左派エリート層であるアシュケナージ系ユダヤ人を恨んでいた(難民キャンプに収容され、寂れた町や僻地の村に定住を余儀なくされた)。かれらはネタニヤフ元首相の政治基盤でもある。
・右派のベギン連立政権はヨルダン川西岸(それは聖書に出てくる「ユダヤ人の土地」だった)への入植を積極的に推進した一方、シナイ半島などすべての占領地を維持するのは困難だという認識ももっていた。
・1977年、エジプトのサダト大統領がイスラエル国会で演説し、占領地の変換と引き換えにイスラエルに和平を申し入れると宣言、アメリカのカーター大統領の仲介でキャンプ・デイヴィッドでの和平交渉が始まる。和平は実現しサダトとベギンはノーベル平和賞を受賞したものの、パレスチナ問題は脇に押しやられた。ブルドーザーの異名をもつタカ派の元軍司令官アリエル・シャロンは、ヨルダン川西岸とガザ地区における入植地建設を先頭に立って推進した。パレスチナ人の私有地を軍事目的で取得したのち、農務省管轄の入植地として移管した。
・和平を実現したサダトはパレスチナを見捨てたとして非難され、過激派ジハード団のメンバーによって暗殺される。ホスニー・ムバラクが後継者となり、30年間エジプトを支配した。
◎レバノン侵攻(1981年)
・レバノンに拠点を移したPLOは、キリスト教徒、スンニ派、シーア派の危ういバランスの上に成り立っていたレバノンの権力闘争に介入し、スンニ派(PLO,イラク、リビア)、シーア派(シリア、イラン)、キリスト教(イスラエル)による内戦が勃発。シリア、ついでイスラエルがレバノンに侵攻し、中東のパリと呼ばれた首都ベイルートはイスラエルの猛攻によって壊滅状態に。
・アメリカの圧力もあってレバノンから撤退したPLOはチュニジアの首都チュニスに新たな拠点を構える。
・イスラエルは親イスラエルのキリスト教政府の樹立を目論むが、キリスト教民兵組織の指導者がシリアのナショナリストに暗殺された結果、シャロン率いるイスラエル国防軍はベイルートに突入してこれを掌握、パレスチナ難民キャンプを包囲した。
・キリスト教民兵組織の兵士がPLOの残党を殺す名目で難民キャンプに入り、少なくとも800人の住民を虐殺。それを取り巻くイスラエル軍は見て見ぬふりをして虐殺を黙認した。→イスラエルの国際的な評判は地に落ち、イスラエル国内でも責任を問う声があがり、シャロンは国防相の職を辞した。
・PLOが去ったあとのレバノンの権力の空白を埋めたのが、イランを後ろ盾とするシーア派原理主義の過激派組織ヒズボラ(神の党を意味する)で、その後、イスラエルの最もしぶとい敵の1つとなる。
・イスラエルではレバノン内戦のせいで政治的分断が生まれ、シモン・ペレス率いる左派労働党とシャミル率いる右派リクード党のどちらも連立政権を組めず挙国一致内閣が誕生する。
◎第1次インティファーダ(1987年)
・リクードが権力の座について以来、ヨルダン川西岸とガザ地区の入植地は拡大し、パレスチナ人が住む町や村は分断され、耕作地は食いつぶされ、貴重な地下水もイスラエル人入植者に偏って分配された。パレスチナ人がそれに抗議すると、ジュネーヴ条約で禁止されている懲罰的家屋破壊という悪行を復活させた。
・イスラエル国防軍のトラックがガザ地区に帰るパレスチナの日雇い労働者を満載したワゴン車と衝突、4人が死亡したことに抗議するデモに対してイスラエル軍が発砲、数人を射殺した。それから数日で占領地であるガザ地区とヨルダン川西岸は大規模デモで埋め尽くされ、不服従、ゼネスト、暴動に発展。彼らはこの民衆蜂起をインティファーダ(振り落とすという意味)と呼んだ。
・インティファーダは東エルサレムにも広がり、イスラエル人はアラブ人街を避けるように。
・入植地建設の中止、土地没収の中止、パレスチナ人だけに適用される特別税や制約の廃止を訴え、商店を閉め、納税を拒否し、イスラエル製品をボイコットしたインティファーダは、だが、ナイフや銃の使用は認められていなかった。市民的不服従と投石による民衆蜂起だった。
・イスラエルはそれに対抗して、学校や大学を閉鎖、24時間外出禁止令を出し、電気と水道を止め、何千人ものパレスチナ人の若者を逮捕した。丸腰のティーンエイジャーを重武装のイスラエル国防軍兵士が殴打する映像が世界中で流され、イスラエルの国際的信用はさらに地に落ちた。
・1991年ソ連が崩壊し、湾岸戦争でイラクを駆逐したアメリカが並ぶもののない超大国として君臨。パパ・ブッシュ大統領が主導して和平会議を開き、インティファーダは終わりを告げたものの、パレスチナ人は自分たちの新たな力と主体性を意識するようになり、ガザ地区ではイスラミック・ジハード(イスラム聖戦機構)やハマス(イスラム抵抗運動)が台頭。ハマスの目標は歴史的パレスチナの地にイスラム国家を樹立することで、インティファーダにデモ参加者や戦士を送り込んでパレスチナ政治の主導権を握り、PLOの対抗勢力となる。
・チュニジアに亡命したPLOのアラファト議長は、このままでは時代に取り残されると危機感をつのらせ、イスラエル打倒の看板をおろし、占領地にパレスチナ独立国家を樹立することを目指すと宣言。和平の機運が高まった。
◎イスラエル最大の支援国アメリカの援助パッケージ
・1948年以降、1400億ドル以上を支援。現在は、10年間で380億円の軍事援助を受けている。
・アメリカがイスラエルの連帯保証国となって、銀行融資を引き出すスキーム。ソ連からの移民の入植を支援するために、イスラエルはアメリカに100億ドルの債務保証を求めたものの、和平交渉に乗り気でなかったシャミルに対して、パパブッシュは保証額を減らすと脅しをかけたが、シャミルは応じず。両国の関係に亀裂が入った。キャンプデイヴィッドでもカーター大統領は援助パッケージの見直しを示唆してベギンにエジプトとの和平協定への署名を迫った。
◎オスロ合意(1993年)
・ソ連崩壊によって、旧ソ連から何十万人ものユダヤ人移民が新たにやってきたが、宗教的には真のユダヤ人とは認められない人も多かった。そのため結婚相手、埋葬場所などに関して制限を受け、それに反発した移民たちは、1992年の選挙こそラビンに票を投じたが、その後強硬路線の右派政党に引き寄せられ、右派を支える存在になっていく。
・1992年の総選挙で中道左派の労働党が圧勝、70歳になったイツハク・ラビンが首相の座に返り咲く。ラビンは何百万人ものパレスチナ人を支配し続けるのは無理だと考え、イスラエルの未来を守る唯一の方法は和平だと信じていた。そこで首相就任後、入植地建設を凍結。それがアメリカとの関係改善につながり、ラビン首相とPLOのアラファト議長はオスロで和平交渉のテーブルにつき、相互に相手を承認する書簡を交わす。その4日後、両者はビル・クリントン大統領をはさんでホワイトハウスの芝生で合意文書に署名した。
・オスロ合意プロセスによってパレスチナ自治政府が設立されるが、和平を快く思わない双方の過激派によるテロ工作が本格化する。過激派ユダヤ人入植者によるモスク襲撃(29人殺害)、ハマスとイスラミック・ジハードもイスラエルのバスやショッピングモールに爆弾テロをしかけ、多数の民間人を殺害した。
・オスロ合意を受けて、ヨルダンのフセイン国王もラビン首相と和平協定を結ぶ。その数カ月後、ヨルダンを訪れた著者はヨルダンのタクシー運転手に自宅に招かれ歓待を受けた。
「どこから来たかとたずねられて、私はアメリカからだと答えた。「でも、君はイスラエル人なんだろう?」と向こうは聞いてくる。ヨルダンとイスラエルのあいだでほんの数カ月前まで戦争状態が続いていたことを踏まえて、私は用心深く、違うと答えた。自分はアメリカ人であり、イスラエル国民ではないと言った。「でも、イスラエルに住んでいるだろう?」と彼らは食い下がる。私もしまいには、たしかにイスラエルに住んでいる、と認めた。それこそ彼らが期待していた答えだった。「よくぞ来てくれた、われらがイスラエルの兄弟よ! 俺たちのあいだにようやく平和が訪れた。俺たちは似ているところが山ほどあるんだよ!」。安堵し、感動して、そのとおりだと、私も同意した。「そうさ」と彼らはいう。「俺たちはどちらもアブラハムの子供たちだ! どちらも平和を望み、どちらも普通に生活して、家族を養って、幸せになりたい! そして、俺たちはどちらも汚いパレスチナ人が嫌いなんだ!」
ショックだった。いまでも、それに対して何か言わなかったことを恥じている。しかし、それこそ、この紛争の解決は思っていたよりもはるかに難しく、はるかに込み入ったものになるだろうと私が悟った瞬間だった。」
・ハマスとイスラミック・ジハードの原理主義者は、PLOにはパレスチナ人の生得権(パレスチナの地すべての所有権)を放棄する権利などない、イスラエルは撲滅すべきガンなのだから。
・イスラエルの過激派入植者の目には、ラビンとペレスの行為は裏切りに映った。大イスラエルは神がイスラエルの子ら(ユダヤ人)だけに約束した土地であり、それを割譲するなどもってのほか。過激派のラビはラビンに殺害指令を出すに至る。
・双方の和平反対派は、テロによって信頼を損ね、和平プロセスを頓挫させることを狙った。野党指導者のベンヤミン・ネタニヤフは「ラビンに死を!」と唱和する大規模集会を主導した。
・1995年にオスロ合意支持の大規模集会で演説したラビンは、「シル・ラ・シャローム(平和の歌)」を歌ったあと、警護車に乗るところを極右過激派の学生に銃撃され死亡した。ラビンの暗殺はイスラエル国民に衝撃を与え、ラビンの路線を継承して団結するかと思われたが、ハマスとイスラム聖戦機構が立て続けに自爆テロを敢行し、レバノン南部に居座るヒズボラもイスラエルとの戦闘を再開した。ラビンのあとを継いだペレスと労働党に対し、リクード党首のネタニヤフ(ビビと呼ばれる)が恐怖をかきたてる選挙運動を繰り広げ、僅差で勝利を収める。
・その後のイスラエル政治は、右派と左派のあいだで行ったり来たり。和平プロセスも遅々として進まなかった。
◎第2次インティファーダ(2000年)
・リクード党のネタニヤフが労働党のエフード・バラクに敗れたあと、リクード党首に返り咲いた「ブルドーザー」シャロンは、エルサレム旧市街の神殿の丘(岩のドーム、アル=アクサ・モスク、嘆きの壁を含む)の領有権を主張してかの地を訪れた。
・東エルサレムではこれに反発して暴動が勃発、イスラエル警察も応戦した。抗議活動はすぐにヨルダン川西岸とガザ地区に広がり、イスラエル国防軍によって多数のパレスチナ人が射殺された。第二次インティファーダも初期のころは投石のみだったが、パレスチナ過激派が銃を持ち込み、武力衝突と化す。最終的にイスラエルがパレスチナ自治政府施設を空爆するに至る。
・2001年の選挙で、バラクに勝利したシャロンは首相になり、オスロ合意は完全に終わる。
・第2次インティファーダのあいだに自爆テロなどで死亡したイスラエル民間人の数は700人以上。イスラエル治安部隊に殺されたパレスチナの非戦闘員は2200人にのぼる。
・イスラエルはヨルダン川西岸の境界にそって「分離壁」を建設。暴力の責任はアラファトにあると決めつけたシャロンは、パレスチナ自治政府本部を包囲し、建物の多くを破壊した。アラファトはそこにとどまるが、2004年にフランスの病院に搬送されたあと死亡した。
・ここに至って、入植事業を長らく推進してきたシャロンは考えを改める。
「このまま占領を続けて、350万人のパレスチナ人を占領下に置いたままにできるという考えは、私の見解では、われわれにとっても彼らにとっても、非常に悪い。永遠には続けられない。君たちは、ジェニンや、ナブルスや、ラマッラや、ベツレヘムにずっといたいか? そうするのは正しくないと、私は思う」
「私は真の合意に達するために、真に努力することを決意した。私は75歳だ。いまある地位よりも上を目指す政治的野心はない。この民族に安全と平和をもたらすことを目的、目標と考えている。そのために非常に大きな努力をするつもりだ。自分のあとに残すべきもの、それは合意に達するための努力だと思っている」
・シャロンは2004年に占領下の入植地の一部からイスラエルの入植者と部隊を一方的に退去させる計画を発表。右派は裏切られたと感じ、左派は一方的退去は権力の空白を生み、そこにハマスが入り込むだけだと非難したが、ブルドーザーは文字どおりブルドーザーを送り込んで、ガザ入植地を解体し、ユダヤ人入植者全員(8000〜9000人)とイスラエル国防軍の部隊すべてを引き揚げた。
・それに反対するネタニヤフがリクード党内で反乱を起こし、シャロンは中道右派の新政党カディマを結党するが、2006年の総選挙を前に脳卒中で倒れ、昏睡状態となって、回復することなく8年後にこの世を去った。
◎第2次レバノン戦争(2006年)
・シャロンの後任となったエフード・オルメルトは5大入植地を除いてヨルダン川西岸全域から撤退するつもりだったが、イランの支援を受けた南レバノンのヒズボラの挑発を受けて、南レバノンへの本格的な侵攻を開始。イスラエルの猛攻で100万人近いレバノン民間人が避難を余儀なくされたが、イスラエルもハイファなどの北部の都市がヒズボラによる反撃(ミサイルやロケット弾)を受け、何十万人ものイスラエル人が北部から避難した。
・支持率が3%まで落ち込んだオルメルトだったが自説を曲げず、パレスチナとの和平交渉を進めた。が、今度はガザ地区内の争いがそれを妨げる。アラファトの死後、オスロ合意を支持するファタハと合意を拒絶するハマスとのあいだの緊張が高まり、数カ月間流血の抗争が続いたあと、支配権を握ったのは、アメリカやイスラエルがテロ組織と認定するハマスのほうだった。→ガザ地区はハマスが、ヨルダン川西岸はパレスチナ自治政府およびファタハが支配する構図が完成。
・ハマスが実権を握るガザ地区は、イスラエルによって全面的に(陸路も海路も空路も)封鎖され、「世界最大の屋外監獄」と称されることに。ハマスは脱獄のための地下トンネルを掘り、エジプトから武器を含む物資を持ち込み、近隣のイスラエルの町に向けてロケット弾を撃ち込んだ。
・2008年、ふたたびハマス対イスラエルの戦闘がはじまり、3週間で、1400人のパレスチナ人、13人のイスラエル人が死亡。
・紛争で深手を負ったオルメルトは辞職。2009年の選挙ではカディマ党が勝利したものの組閣できず、右派による連立政権が樹立した。リクードのビビ・ネタニヤフが政権に復帰した。
・それ以来、ビビは汚職や政治スキャンダルによって3件刑事告発されたが、首相の座にとどまり続けた。2020年にコロナショックが起きると、パンデミックと戦うと称して、ライバルである中道政党と連立を組んだ。
・ビビ時代のイスラエルは深刻な民主主義のリセッション(後退)を招いている。超正統派宗教権力者の力を強め、アラブ系少数民族を弱体化させ、言論と異議申し立てのじううに制限を課し、占領政策を批判する人権団体を黙らせ、入植事業を劇的に強化し続けた。数々の反動的、反民主的な法律を制定、公営バスやスーパーマーケット、通りでの男女隔離など、反動的な政策も次々と採用した。
・労働党の建国者たちは急速に力を失い、右派連立政権に抵抗できるだけの力をもたなかった。反対勢力のない極右政権は、有権者のほぼ半分の支持しかないのにもかかわらず、政権を維持し続けた。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する