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2024年06月05日 21:49未分類全体に公開

ピークハントはくだらない (SNSで加速した百名山などの登った山の数自慢、コースタイム自慢などはやめませんか)

山の楽しみかたは人それぞれですが、百名山などの山頂をコレクション(ピークハント)するだけの登山はくだらないと思います。本来、趣味は競争や生産性とは対極にあるものです。他人の目を気にすること、他人と競争すること、数や効率を気にすることなんかやめませんか。


<他人の評価で承認欲求をみたすことに>

自分とは感性が異なる「とある誰か」が権威付けした山を、最短ルート※で山頂を踏んで標識と記念撮影したらそそくさと下山したり、一日に何座も登って数をそろえたり、季節や天候も考えずに強行軍したりして、ピークハントをする登山はプロセスを軽んじて結果だけに重きをおく、他人と比較する、他人の目を気にした登山であって、自分がなくてムナしいだけです。

登った山の数で競って、他人より優れていると自己評価を高め、承認欲求を満たして安心を得たいのでしょう。こうした他人の目を気にした登山は、自分の価値観を、幸福の基準を、他人に委ねていることになります。「自分軸」でなければ、いつまでたっても満足できるはずがありません。

この、目に見える結果で他人と比較しなくては気が済まないという「心のクセ」は、社会や生活、教育、家庭などの自分を取り巻く環境によって、幼い頃から他人と競争してきたことで刷り込まれてきたものですが、この悪癖が自然を相手にする趣味の登山でも行われているのです。人の心は数値化して比べるものではないのに・・

『ひとつの目標を達成したら、次の目標をたて、さらに上を目指さなくてはならない』、『短い時間で複数のことをして結果を出さなくてはならない』という、生産性を高めるために刷り込まれた思考様式に、エンドレスのラットレースに、趣味の山歩きも組み敷かれているのです。現代社会の奴隷ともいうべき疲れる生き方ですね・・

※時代が違うといえばそれまでですが、そもそも深田久弥は平ヶ岳登山に際し、越後側からバスで入りダム湖を船で渡って入山し、二岐沢から猛烈な藪こぎを経て山頂に立ち、上州側に下りのべ5日を要したといいます。今みたいにただ山頂を踏むために日帰り(キャンプ禁止)で駆け足登山をしたわけではなく、山の味わいかたが根本的に違います。


<何のために山に登っているの?>

SNSが普及したことによって、見知らぬ誰かまでわざわざ比較の対象に取り込んでしまい、この流れが加速しています。

山に登るときにSNSに掲載することを前提に写真を撮っていませんか。妙なポーズで撮った山頂写真をSNSに顔出ししたり、「映え」を気にして自分の登山中の後ろ姿をタイマーで撮るようになったら重症と言わざるを得ません。

特別な自分、輝いている自分を演出して、誰かに認めて欲しいのでしょう。人は他人の経験に一番嫉妬するといいますが、裏を返せば、ふだんの生活で自分が認めてられていないという不満を抱えていると吐露しているようにも感じます。

SNSにアップしても、他人からしたら果てしなくどうでもいいことで、一瞥してすぐに忘れ去られるものです。

適当かつ無責任に押された「いいね」の数は、あなたの登山をさらに窮屈なものに追い立てることになるでしょう。どこの誰とも知らない人のデジタルデータに自分の思想、行動が決められてしまうのです。


<キリがない目標達成至上主義>

山頂は目に見える「目標」ですが、これまでに何万人、何十万人もの人が登ったであろう百名山にあなたが登ったとしても、ガイドブックを塗り潰したとしても、特別な自分になれるわけがありません。本当の自分なんて見つかりません。いくら数を揃えても安心することはなく、ましてや不老不死になるわけでもありません。

山頂に立った瞬間だけは達成感があるでしょうが、それはただの「刺激」です。心のうちから湧き出す幸福とは異なるものです。そして、この刺激は一過性のものに過ぎず、他人に影響を与えるものではありません。「天地創造の計画には人が幸せになることは含まれていなかった」とのことですが、人の感情は定温に保つエアコンと同じで、突出した感情はすぐさま元の水準に戻るようにできていて、絶頂感は長続きしないそうです。

パックマンみたいに次から次へと次の山頂(目標)を追いかけているときは、狩りをして獲物を狙っている状態であるため、興奮して楽しいでしょうが、百名山も終わってしまえば、日常に置換されて、すぐに忘れて、過去のものとして流れてゆきます。

強い刺激はさらに強い刺激を必要とし(快楽のトレッドミル)、ピークハントを続けると、より強い刺激でしか満足できなくなります。

百名山や三百名山などの山頂スタンプラリーをするために、消化試合のように適当にこなす山も出てくるのでしょう。その山に対して失礼で、もったい話ですね。これこそが時間とお金の無駄遣いだと言わざるを得ません。

またマウントをとるために推奨されていない難易度の高いコースを選択して、わざわざ危険に身をさらすことに・・他人と比べて安心したいという想いからくる競争によってどれほどの人命が奪われてきたのでしょう。


<今ここに心があるのか?>

またSNSでは、いかに短いタイムで山頂を踏んだことや、ロングコースを短時間で踏破したことを自慢する類の登山者が散見されます。

デジタルデバイスで簡単に計測できてしまうことがいけないのかもしれませんが、趣味の登山の世界でもタイムパフォーマンス、コストパフォーマンス自慢。自分の身体能力を誇示したいのか、いかに効率よく他人より「得」をしたかをアピールして、悦に浸って、何を得るのでしょう?

急ぐと視野が狭くなり五感が鈍ります。どんなに鍛えたとしてもヒトの感覚は何倍にもなりません。急ぐと自然と触れる機会が減じることになり、また自分が処理できる情報も少なくなるため、結果として山を味わうことができなくなります。

コースタイムの半分で登った、だから何?その山行、実際は数分も自然を楽しんでないのではと思ってしまいます。せっかく一日を捧げるつもりで来た山なのに、同じ日は二度と来ないのに、そんな登山をしてもったいなくはないのでしょうか?山は無料のアスレチックフィールドではありません。そんなに目に見えるタイムを気にするのならば、同じ条件で測ることができる近所の坂道でも走ってろと言いたくなります。

山頂を踏むことしか興味がない登山は、山頂を踏んで目標を達成した次の瞬間から、自分を取り巻く自然なんかには興味を失い、ランチにたべるラーメン、下山後のB級グルメ、温泉、次の山頂などの自分の「欲」を満たすことしか頭にないのではないでしょうか。

本来、「下山」も山歩きの楽しみの半分を占めているはずなのですが、山頂を踏んで目的を達成したら「もうこの山には用は無い」とばかりに、「早く次のことをしよう」と、せせこましく下山する人が多いような気がします。今、心がここに無ければ自然を楽しめるはずもありません。

プロセスをすっ飛ばした、結果重視の、目標から目標へ飛び石する登山は、たまたま目に飛び込んできたダイナミックな景色を受動的に受けることはあるでしょうが、こちらから能動的に自然に働きかけていないから、その大半は「ただ歩いただけ」ということになります。自分から働きかけていないから、記憶にはほとんど残りません。


<自然とのハーモニー>

本来趣味は、競争や生産性とは対極にあるものです。今の行き過ぎた流れにブレーキをかけて、他人の目を気にすること、他人と競うこと、数や効率を気にすることなんかやめませんか?

山を歩くことは、あらゆることから自由になって、頭をからっぽにして、五感で自然を感じて、不思議なものを不思議と思い、この世界が与えてくれた奇跡に感動し、太陽のもとを心地よいリズムで歩いて、自分の精神と身体を調律する貴重なひとときです。

気持ちにゆとりがないと、心にふれるものに出会うことはできません。他人の評価や競争なんか気にせずに、下界のあらゆることなんか置いてきて、深呼吸しながら、手のひらに陽光を浴びて、上を向いて、ゆっくりのんびり歩くことにつきると思います。
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