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瀬田丘陵製鉄遺跡群の一つ源内峠製鉄遺跡
近江の国は縄文時代から古代、戦国、中世に至るまで地形的にも歴史上でも日本の要でしたので多くの遺跡、史跡に恵まれています。
何気ない田んぼでも掘ればたいがい何らかの古代遺跡、住居跡や遺物が出てきます。
近江の鉄鉱床は古生層に花崗岩が貫入したことによる接触交代鉱床で、源内峠の製鉄遺跡のほか滋賀県内には60か所の製鉄遺跡があり、8か所の製鉄遺跡群として設定されています。
普通、製鉄遺跡の背後の山林から原料の鉄鉱石を採掘しているものなのですが、瀬田丘陵の製鉄遺跡群は他の製鉄遺跡と同様に鉄鉱石を原料としているにもかかわらず、瀬田丘陵には鉄鉱石の鉱床がないのが特徴で、他の場所から運んできた非原料立地型ということになります。
鉄鉱石の採掘遺跡はまだ特定されていないようです。
近江国庁などの国衙施設が隣接し、信楽、奈良へ通じる交通の便がよく、須恵器など他の手工業も発達し、瀬田丘陵一帯が大規模に開発され瀬田丘陵は一大工業団地の様相を呈していたと思われます。
とくに663年白村江で日本軍が大敗し1万人余りの兵士が海に沈み、兵が身に着けていた鉄の鎧も水没、貴重な鉄が無慮50トンも失われました。なのでその増産分も図らねばならなかったため、原料立地に拘っていられなかったのではないかと思います。
おまけに壬申の乱で鉄はさらに大量に必要になることとなったのですが、美濃に本拠を置いた大海人皇子は渡来人の新技法による美濃赤坂の金生山の鉄鉱石で作った鉄製の剣で戦い、旧式製法によるの近江軍の鉄製の剣に勝ったとも言われています。
7世紀中ごろから8世紀中ごろまでのおよそ100年間です。まさに激動の近江の国でした。
ちなみに、金勝アルプスの「金勝」は「金青」つまり赤鉄鉱のことです。鉄鉱石の露頭もあるそうですが私はその場所は知りません。
おかげで、湖南アルプスなど一帯は燃料供給のために禿山になりました。
現在の禿山は、近江や飛鳥など各都の造営や大仏建立のために木を伐採したからだけではないのですね。
参考資料 *財団法人滋賀県文化財保護協会 紀要第9号 1996/3
*近江歴史回廊倶楽部
*その他聞き覚えなどを加えて私見を書いたものです。
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