京都の夏の風物詩の一つに京都五山の送り火があります。
その代表格が右大文字とも呼ばれる「大文字」でしょう。
東山に連なる峰の一つ如意ヶ岳の山麓にでっかい「大」の字が書かれていて、京都のどこからでも見ることができます。
この「大文字」見上げて感じる不思議がが二つあります。
その1
この「大」の字、どのようにして書かれたのでしょうか?
まず山腹に長い白布を広げておおよその「大」の字を作ります。
次に京都の市街にやぐらを立て、やぐらの上から京都の古刹の書道に優れた名僧がハッタとその白布をにらみ、「一文字の左の端をもう少し上に。」とか「南の流れのはらいをもう少し長く。」、「あ、行き過ぎた。」などと指示を出します。
その指示を傍らに控えた騎馬が逐一如意ガ岳の麓まで知らせにすっ飛んで伝えに行ったそうです。
少しづつ修正を加えて現在の形に仕上げたというわけです。
一説に銀閣寺から相国寺の僧侶・横川景三が行ったともいわれています。http://www.gozan-okuribi.com/dai.html
が、銀閣寺からでは近すぎて全体のバランスなどよく見えなかったと思います。
当時はもちろん通信手段がありませんから、これしか方法はなかったでしょう。手旗では遠すぎて見えないし、のろしでは細かい指示はできませんから。
その2
なぜ、「大文字」の文字は京都の中心地を向かず北西を向いている?
「大」の字は、今の京都の中心地、繁華街のど真ん中、四条河原町(しじょうかわらまち)方向に向いていないのです。四条河原町、四条烏丸(しじょうからすま)が正面ではないのです。
ところで、この「大文字」が書かれたのはいつ頃のことかというと、諸説あります。
上記、大文字保存会のHPでは平安時代、室町時代、江戸時代の三つが候補として挙げられています。
わたしは、「大文字」が書かれたのは、室町時代だと思います。
そして、この、「大文字」が書かれた時代が「大文字」の向きと大いに関係があるのです。
さて、では正面はどこなんだというと、今出川通りです。正確には烏丸今出川(からすまいまでがわ)です。
今出川通りは御所の北の端の通り、出町や賀茂大橋のある通りです。
賀茂大橋から西へ、御所の北西角が烏丸今出川の交差点です。
烏丸通り(からすまどおり)と今出川通りが交差する北東角に同志社大学があります。その北は相国寺です。
この烏丸今出川がポイントなのです。
烏丸今出川の交差点から今出川通りを少し西へ行き、室町通りを過ぎ、もう少し行くと今出川新町の交差点があります。
この交差点を右に曲がり新町通りを北へ向かうと、同志社大学の新町校舎があります。
さらに道は同志社大学新町校舎をよけるように曲がっていますが、この場所が室町幕府のあった場所なんです。
京都の市街地図を見ると、京都の中心部、上京、中京、下京は碁盤の目と言われるように整然と区割りされていますが、ここの一角は道が不自然にクランク状に曲がり、小さい路地が入り組み、同じ上京でも明らか碁盤の目にはなっていません。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=zoTril9Fj_kY.kmlha8dqRo24&hl=en_US
最近は変わっているかもしれませんが街並みが不自然で京都らしくないのです。
つまりこの地域、同志社の新町キャンパスとその周辺が室町幕府の跡地であり、当時は花の御所とも呼ばれ、本家の天皇が住む御所より華やかで権力の中心地でした。
そして、如意ガ岳の「大文字」はこの花の御所、室町幕府からみて正面になるように作られているのです。
ですから「大文字」は天皇のいる御所から見ても、京の中心地の四条や御池、丸太町の各通りから見ても斜めになって見えているわけです。
「大文字」のスポンサーが室町幕府に媚びたのか、幕府が圧力をかけたのか分かりませんが「大文字」は室町幕府「花の御所」を向いています。
三条、四条大橋から見ると、ちょっとひねくれてそっぽを向いてるようでおかしいですね。
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