![]() |
![]() |
![]() |
寺伝によると奈良時代に行基により創建、平安時代には空海が修行したと伝わる
平安末期には荒廃するも高野山の僧阿観が朝廷、武家の力を借りながら伽藍を整え、寺領を増やしていく
この阿観に後白川天皇の妹、八条女院が深く帰依し、金剛寺は八条女院の祈願所となる
八条女院に仕えていた浄覚、覚阿姉妹が阿観の後を継ぎ、第二代 第三代の院主(いんず)となったことが「女人高野」と呼ばれる一因と考えられている
空海が弘仁七年(816)
嵯峨天皇から高野山を下賜され、高野山は開創当初から「女人結界」が定められたと伝えられている
これは修行者の堕落を防ぐための不邪淫戒という戒めによって、修行者を律するもの
女性の穢れを結びつけ、聖域への立ち入りを禁じた「女人禁制」とは異なっていた
この女人結界が解かれるのは
明治五年(1872)の「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃し登山参詣随意トス」であるが、高野山は更に遅れて明治後半になってからである
(女人高野日本遺産協議会より)
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する