今更ながら『ココヘリ登山学校の教科書』を読んでいる。
初めに「自己責任」について書かれていて、確かに、と考えた。「責任」と「自己責任」という語の使い分けは英語にないことから、「責任とは、もともと自分の責任のことを言うはずではないでしょうか。日本人は、その責任に改めて自己という言葉をつけて」、自らの責任であることを強調している、と(p.18〜19)。
そう考えると、日本人にとって「責任」とは、個人の、私の、責任よりも、公の、組織としての、責任という意味合いを持っている語なのかもしれない。
部下のミスについて上司が謝るのは当然だと考えられているし、子どもの行動について親が謝る姿も一般的だ(時に子どもが成人していても)。老親に対して子どもが責任を持つのも当たり前の風潮がある。つまり、私個人の直接の行動の結果ではないことについても、社会関係上私が責任を持つことがあって、それは個人の責任よりも大きく強い、というような。
日本人にとって「責任」とは、まず第一にそうした社会的な責任がイメージされ、それは個人のものではないので、自分に由来する自分の責任については「自己責任」として区別しないといけない、ということだろうか。
なので、自分で山に行って遭難したら「自己責任」で、例えば学校行事で山に行って遭難したらそれは「学校の責任」「引率者の責任」ということになる。
個人の責任より社会的な責任の方が強く、身近であることは、良い面もあるし、悪い面もある。
自分が属する社会的な関係のなかで、自分も他のメンバーも全員が何らかの責任を持とうとするとき、例えばそのグループやコミュニティをより良くしようと動くことができる。自分のためではなく、そのグループやコミュニティのために行動する。山で言うなら、「自分一人なら行って帰ってこれるが、体力のないメンバーに合わせて下山しよう」がこのパターンだろうか。
一方でもちろん、社会的な責任を恐れるあまりにメンバーを管理したり自由意思を排除したりする動きも生じる。例えば、「初心者が口を出すな!俺に黙ってついてこい」のような…。
最悪なのは、「個人の責任」と「社会的責任」の両方で悪い面が噴出するときで、私は昨今の「自己責任批判ブーム」はこの両方の悪い面が噴出している現象だと思っている。
本当に個人の責任なら、それは個人の責任で完結しているので、結果は本人が引き受けている。死亡した、ケガをした、入院をした、怖い思いをした、仕事を休んだ、しばらく山に行けない、など。(それを助ける人たちがいるのはまた別の話である。どんなに愚かな場合でも、死に瀕した人や困難に遭遇した人がいたら、助けようとするのが人間が社会を円滑に営むために積み重ねてきた行動指針である。)
それを「自己責任だ!」と非難するのは、要は全く関係ない人が(大抵は山に登ったことのない人たちが)「社会的に」制裁を加えようとする動きだ。
なんで他人の行動についてとかく「自己責任だ!」と批判して社会的に制裁を加えようとするのかと言えば…彼ら自身が「自己責任論」と呼ばれる社会的制裁に苦しんでいるからでしょう。(誰かや何かが苦しめている場合もあるし、自分が勝手に背負い込んで苦しんでいる場合もある。)誰か、「公に責めてよい」相手を血祭りにあげて、うっぷんを晴らそうとしている…ように私には見えている。
自分の行動の結果を自分で引き受ける覚悟を持って、他者の過った結果(誤っても結果オーライなこともある)には可能なら必要な(かつ自分にできる範囲の)サポートをする、それが真に「自己責任」を負った個人の在り方だと、私は考える。
https://toyokeizai.net/articles/-/337633
したがって、少しでも迷惑をおかけしないように「傷害保険や対策費、家族への生命保険」の準備はもちろんのこと、登山行為が安全に最後まで出来るような周到な準備と対策をした上で取り組まないといけない危険なスポーツが登山ということです。
「年間に300名も亡くなるスポーツは他にはありませんが、あまりに危険だということになるとすべての商売関係者が困るのでいまや、いつでも誰でもどこでも簡単に出来るスポーツという間違った解釈」が宣伝されて定着してしまっていることが1番の問題となっています。
お読みいただき、コメントまでいただきまして、ありがとうございます。
まさに新自由主義によって喧伝された言葉が都合よく悪用されているように思います。
ただ、「責任」という言葉自体は新自由主義の前にも存在していたということと、悪用?誤用?される前に、そもそも「自由」や「責任」についての概念がアメリカやヨーロッパ諸国とは当然異なるものと思われるので、そこになにがあるのか、ココヘリの記事をきっかけに考えてみた…という次第です。
ちなみに、「迷惑」という言葉、概念も、現代の日本に強く(悪い)影響を及ぼしているように思います。
それもまた、いつか機会があれば文章にしてみますね。
考えを深める機会を下さってありがとうございます。
大変興味深かったので、一旦閉じた日記を再読いたしました。
yamatabiD5さんのご教示どおりなのかもしれませんが、「責任とは、もともと…日本人は…」という考え方はなるほど、と思いました。
登山に関して自己責任という言葉はいつも漠然とした違和感を感じていました。その違和感は「責任に改めて自己という言葉をつけて…」といったことをおぼろげに感じていたのかもしれません。
私にとっては責任と言えば個人の責任で、社会的な責任であれば社会的責任、文字通り。
受け取り方は少しずつ違うかもしれませんね
最後の「自分の行動の結果を自分で引き受ける覚悟を持って…それが真に自己責任を負った個人のあり方だと、私は考える」に共感しました。
このようにありたいものです、少しずつ、そのようになりたい。
お考えをお聞かせくださりありがとうございました
ココヘリ登山学校の教科書、読んでみたくなりました
拙文をお読みいただき、丁寧なコメントまでいただきまして、ありがとうございます。
「自然」という大きなものの前では、人一人の覚悟などあろうがなかろうが、結果を引き受けざるを得ないのでしょうが…
でも、泣いたり笑ったり後悔したり憤ったり、するのが人間であり、人間の美しさ、愛おしさでもあると思います。
精一杯、小さな人間として、生きたいと思います。
もしココヘリ登山の教科書をお読みになったら、ぜひ感想をお聞かせください。
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