メットを持たずに沢や岩を続けるのは好ましくないことだと自分は思う。
落石や滑落時の頭部損傷は経験や技術の向上で回避できるものだと思えないからだ。
が、他の装備はどうであろうかと近頃考える。
一つ目の契機は春先の新潟・奥只見行だった。
林道に被った雪渓のすぐ下は雪しろの入った川でそういう箇所がだらだらと続く。
自分は10本爪を装着してピッケルを使いながら、下を見ないようにおそるおそる雪渓を越える。
他の方は私のようにへっぴり腰ではないしもっと軽装備でやや慎重に行く。
が、衝撃的だったのは地元の父ちゃん母ちゃん達だ。
網篭片手に長靴のみでスタスタスタ。
今晩のおかずを買いにスーパーに行きますよ〜♪という風情である。
プロのぜんまい屋さんに至ってはそれに収穫した重量が加算される。
落ちたら数秒で心臓麻痺→死亡の川の上に私のような奴もいて、そういう方達もいるのだと、ふと思ったが形になる前に記憶のお蔵入りしてしまった。
お蔵入りした思い出を呼び覚ましたのは丹沢・同角沢帰路である。
同行者はすたこら登って行くが8Mお助け紐のみの登攀下降は自分のレベルでは無謀にしか思えず、最初の3段滝を高巻いて早くも帰ると言い張ったあたりから試練が始まった。
巻きと言っても尾根までの直登でなかなかの斜度と高さである。
手がかり足がかりになるものも多くはなくボロボロ崩れていく。
へたくそなので前を歩かされるも、落ちたら同行者も落ちていくので気が気でないし助けもない。
尾根に上がってからもテープ通りに帰らないので、いつ手詰まりになるか冷や冷やしながら沢と尾根をトラバースしていく。
足元から崩れていく怖さゆえ、無我夢中で手がかりを探そうとした自分と爪の中は土で真っ黒だ。
ピンソールがあれば、バイルでもあれば、ロープさえあれば、せめてフェルトでさえなかったら。いっそ登った方がマシだった!
と「全部装備のせいだ!」で頭がいっぱいだった自分を今思い出すとかなり恥ずかしい。
そんな考えで頭をいっぱいにして帰路を任せっきりにした同行者を怨みにさえ思った。
これは山登りを始めてから初の経験だった。
下山後「こういうのは慣れだ。」と一言いわれ奥只見の長靴夫婦を思い出す。
他にもホームでは雨具を持たない人。
時計を持たない人。
GPSを持たないことにこだわりを持つ人。
遭難したり死亡したりしていないからいいようなものだが
これは本来批判対象だろう。
況してや山のことを知らない初心者がやるのは無謀を通り越して自殺志願と同義だとは思う。
自分なぞは行商のようにいろいろ背負って歩かねばなるまい。
が、装備を減らせるということは山をより多く知っているとか
山と距離が近いような気がして憧れるたりもするのである。
まあ山菜採りの場合は山が日常そのものだろうし
趣味の山登りで死んだってつまらないのだが…
チェーンスパイク購入を躊躇し始めたのは懐具合のせいか。否か。
自分の爪をじっと見る。
物の無い時代から生活のために毎日のように山に入ってた人と、物質社会・情報社会において趣味で週末Onlyで山に入る人との違いじゃないか、とも思います。
ただ、同じように生きてきたわけじゃないので、彼らを手本とすべき……とは思わず、彼らは彼ら、自分は自分、で良いと僕は思います。参考&研究の対象とするのは構わないと思いますが。
「単独行者」の中で加藤文太郎がマタギの人々のやり方に面食らってたシーンがあります。あれは半ばフィクションでしょうが、そういう面は今の人も昔の人も同じじゃないかしら……
長文失礼しました。
おそようございます^^
古い山屋に育てられたせいかローテク方面に関心が向くようで…
観天望気や読図すら放棄して携帯頼みになりそうな自分にこれでいいのかと問うことがしばしばです。
私のような初心者が物持たぬのはただの無謀ですが
あとは好みというかスタイルなのかなとも最近考えます。
どちらが正しいとも思いませんが、ローテクの方がどうやら批判対象になることの方が多いようなので「こういうの駄目なんですかね?」という形の日記になりましたw
単独行読んだことないので分りませんが瀬畑さんと沢屋さん(名前忘れた…)の出会いみたいに書かれてるんですか?
マタギは美化されすぎているとかたまにTLで見かけますね。
どんななんだろう。たまには本も読もうw
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