練習練習と言いまくっていた今年の夏山、白山に向けて土曜日早朝家を出ようとしたその直前に、父が亡くなりました。
大きな病気もしたことなく、定年を2年繰り上げて念願の悠々リタイヤ生活を始めて6年、昨年祖母と祖父が次々と他界した慌ただしさの中で見つかった癌と戦って帰らぬ人となりました。
一緒に行く予定だった先輩達には、急な変更をお願いせざるを得なくなりましたが、ガイド役が不在となったにも関わらず予定をこなしていただけたことに、まずは安堵をしましたが、それ以上に稀に見る好天に恵まれた絶景に息を飲みました…。
父が、その青春を心底注ぎ込んだ日本の山々、その父の影響をモロに受けて、ブランクはあったものの遅れ馳せながら深くのめり込むようになった私が、その最も愛する白山が最高のコンディションとなろう日に父が去った事に、どんな意味があるのか…
自問自答の日々です。
勿論父を恨む訳でもありません。
父は死期を自分で選んだのだろうか?あと、半日遅ければこんなにはスムーズに行かなかった筈。山の上に居たら尚更。だからあのタイミングだったのか?
若かりし頃の父のパートナーであり、同期入局で父のことを誰よりも知り尽くしたSさんにも参列頂き数十年振りにお会いして、父の昔話をほんの少しですが伺うことができました。
成人式をブッチして、二人でテントの中で祝杯をあげ「誰も祝ってくれんな」と皮肉りあったこと、よく父が話した2月の富士山のトイレでビバークした話のパートナーがSさんであったこと、2ピン分フォールしたSさんのザイルを父が腕で止めたこと、普段は控えめなのにとあるバリルートを紹介した本の著者にわざわざ手紙を書いて詳細の教えを乞うたこと(因みにその著者からの返事には達成したら是非詳しく教えて欲しいとあり、そんな程度で本が書けるんやなと二人で笑いあったこと)、二人でマッキンリーの国際登山隊に名を連ねたものの、上長に辞表を出してから行けと言われ、やむ無く断念したこと。
とてもとてもあの短い時間で語り尽くせる話ではなく、父の偉大さの片鱗を知る貴重な経験でした。
勿論私は父でなく、父は私ではありませんから、父の跡を追って何かをするわけでもないのですが、少なくともこれから私が登って見る山の風景は、これまでとは少し違ったものになるかも?という感覚でいます。
20代前半、山に明け暮れた父は、その後家庭を持ち、私達兄弟に生を授け、それと共に冬山へ行くことを諦めました。
しかし私の幼い記憶の中には、毎冬寒い寒い雪山へ連れて行かれ、寒い寒いと泣いていた記憶が(笑)。
成人してからその頃の写真を見返してみると三歳位から連れ出されてました(爆笑)
武奈ヶ岳 イン谷口上の堰堤脇にテントを張って遊んだのはその一部でした。
思えばまだ若く心身共に最も充実した時に、それを発揮する場を得られなかった父のせめてもの喜びだったのではないかと思います。
まだ時間が経っておらず、自分自身を客観的に見れているかも?な中にいますが、一方でこの時の気持ちを残しておきたいという気持ちもあり、書き連ねました。
駄文にて失礼致します
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