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ようやく来たバスに乗ると、運転手さんから「もしかしたら上野原駅まで行けないかもしれません」とアナウンスがあり、ただならぬ雰囲気を感じた。上野原駅には着いたが、電車はその日動かなかった。先生はラジオを取り出し、情報を集め始めた。そして「まずは腹ごしらえしよう」と言い、上野原駅周辺の飲食店を回ったがほとんどが店仕舞いをしているか、満席だった。唯一入れたのが、一福食堂だった。今のように綺麗では無かったが、こんな状況でも客を次々と受入れてくれた。
私は牡蠣の卵とじ丼を頼み、料理を食べながらニュースを観ていた。津波の映像がずっと流れ、ようやく事態を把握した。あの時の牡蠣の卵とじ丼の美味しさを、私は一生忘れないと思った。
上野原駅に戻ると、1人2個菓子パンとサバイバルシート1枚が配られ、1人1回公衆電話も使わせてくれた。家族に電話すると「明日旅行だから、それまでに帰って来てね」とのんきな返事で、本当に地震が起きたのか?と言う気がして来る。
電車内は開放され、私たちはそこで泊まることになった。山の道具を持っている私たちは、防寒具も飲み物食べ物もヘッドランプもあり、一般のお客さんよりは快適だったが、それでも電車の長椅子では眠れなかった。当時ハードコンタクトをしていた私は入れっぱなしに出来ずコンタクトを外して、何も見えなくなった。それを機に、数ヶ月後に視力回復手術を受けることにした。非常時に、裸眼の大切さを知ったからだった。
眠れない夜を過ごし、これからどうなるんだろうと不安になった。夜中12時頃突如車内にアナウンスがあり、少しずつ電車を動かすと言う。本当に少しずつ、止まっては動き、動いては止まりを繰り返し、新宿に着いたのは朝の6時だった。あり得ないほどの人の波で新宿は溢れていた。先生たちとはそこで挨拶も出来ないまま、人並みに押され別れ別れになった。
家に帰ってやっと眠れると思ったら、家族に「旅行行くよ!」と言われた。「お風呂入ってないし」「地震あったみたいだし」と返事をしたが、楽観的な家族は「温泉だから、大丈夫!」「震源地と逆方向だから」と意に返さず。踊り子号は止まっていて、在来線で行った。宿に着くと他の客は全員キャンセルしていて、我が家だけだった。支配人は「お客様は神さまです、こんな時に来てくださり」と頼んでいない船盛りも出してくれた。
津波のニュースを観ながら、初めて家族が「こんな時に、旅行来ちゃダメだったんじゃないの?」とようやく気が付いたみたいに呟いた。
311の地震を経験しなかった私だが、その後数ヶ月はスーパーやコンビニで物の無い生活を経験し、トイレットペーパーや米が買えない時代が私の世代であるのかと驚いた。
地震から1年後、福島出身の男性と知り合った。お子さんを津波で亡くし、奥さんはそのショックで自死し、自分も死のうと思ったが友人に殴られ止められ、東京に出て来たと言う。自分が山に行っていて地震を知らないことや、翌日温泉に行っていたことは、その友人には遂に言えなかった。東京で彼女も出来たが、結局友人は福島に帰って行った。
今日あれ以来久しぶりに、一福食堂で牡蠣の卵とじを食べました。
飽きっぽい私が、唯一今も登山は続けています。
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