先週行った、鉄砲沢近辺がとても急峻で25000分の1地形図と全く異なっている様相に疑問を持ち、本当に関東大震災等で崩壊したのかを調べてみた。
「峠のむこうへ」HPに
http://homepage3.nifty.com/tougepal/tetupou.htm
大昔は、オガラ沢から鍋割峠ではなく、この辺りを等高線沿いにトラバースして
茅ノ木沢棚の頭の雨山峠寄りの鞍部から寄に下る道があり、これで物資を運んで
いたそうな。
ということは、今はとてもトラバースするような状況ではないし
そのような道は、今回下り、登ったやせ尾根には見当たらなかった。
多分、道があったとすると、
最初下った尾根は、尾根が二俣に分かれていたが、その先は急なため、
この二俣に分かれていた辺りを通っていたのかも、
帰りに登った尾根では、休憩した先の平らな部分辺りに道があったのでは。
どちらも現在は、やせ尾根で道のかけらもない。
特に最初下ったやせ尾根の横には、沢があり、そのさらに向こうに
沢の上部が岩がゴロゴロしたような如何にも削り取られたような尾根の稜線が
あったが、これは不自然だし、だとすると、この沢は、25000の1地形図での
大きな尾根だったところか。。。。でも、尾根が崩壊するなんて聞いたことがない。
ということで、気になっていたので調べてみた。
関東地震(1923)時の震災地応急測図原図と土砂災害
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_24/HE24_053_064_07Inoue.pdf
凄い面積が崩壊している。
以下は、神奈川県HPの「丹沢大山総合調査学術報告書」の中の記載
1923年以降における西丹沢山地での崩壊地発生の特徴−中川川・玄倉川流域
http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/10247.pdf
この報告から震災時は、沢、斜面、尾根に関係なくすべて崩壊していたようです。
さらに稜線近傍で崩壊していることからやせ尾根が形成された。
丹沢山地における土砂災害の実態とその履歴
http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/10251.pdf
震災時の崩壊状況が書かれている。やはり尾根筋が多く崩壊してたようだ。
以下は「丹沢大山自然再生委員会」のHPの内容
2.丹沢は南の海からやってきた
http://www.tanzawasaisei.jp/kurasitotanzawa/02.html
ここに1945年当時の丹沢の写真があります。震災後30年も経っているのに白いところがすべて崩壊地。
いやーーー震災時は、もっと凄かったんでしょうかね、いやーーー凄いのひと言です。
丹沢の実態と丹沢大山総合調査(前編)
http://www.tanzawasaisei.jp/journal/19.html
震災時の記録からその後のシカの影響。
丹沢セピア写真館 (昭和30年代後半の丹沢大山の様子)
http://www.tanzawasaisei.jp/rekisi.html
自分が行った蛭が岳は、この写真のように森林の中を登って行った。
でも去年行った時は、最初鬼が岩から見たときはこれが蛭が岳と唖然とした。
ということで、最初下ったやせ尾根の横の沢は、多分、広い尾根だったんだろう。
そして、震災前には、ここは、25000の1地形図のように丸みを帯びた尾根が広がって
いたのかも。だとしたら、ここにトラバースした道が存在してもおかしくない。
それが震災で、跡形も無く崩壊した。ということでしょうか。。。。
ということは、あの尾根が崩壊した沢は、当時のままの貴重な場所だった
ということか。沢自体は沢で凄いが、その周りの尾根には植物が寝ずいてやせ尾根ながらも綺麗な場所に
なっていたが、100年の月日を越えてここまで回復したんですね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する