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はじめに: これは、僕が登山中に体験したある「錯覚」をもとに、人間の心や神秘体験について考えた話です。見間違いなんて誰にでもありますが、それが極限状態の中で起きると、なぜか“神様に出会った”みたいな体験として語られることがある。僕はそれを、身体を通して体験し、AIとの対話を通じて整理しました。
第一章:山の中で鹿を見た……と思ったら 2025年春、大峯山系を単独で縦走していたときのこと。大普賢岳から七曜岳を抜け、行者還岳を過ぎたあたりで、山小屋がもう目と鼻の先という地点。最後の難所も越え、ほっとして下り始めたそのとき、道の脇に何かが見えました。
大きな、毛むくじゃらの、動物のような……。
「えっ、鹿!?」と咄嗟に思いました。けど次の瞬間、よく見るとそれはただの倒木。皮が剥がれかけた、黄土色の大きな木の塊でした。
ほんの一瞬のことです。でも、その瞬間の“見えた”感じは本当にリアルで、脳がそう見せてきたんだなと、あとからじわじわ効いてきました。
第二章:錯覚の正体と人間の脳の癖 今振り返ると、あれは単なる見間違いではなく、身体的・心理的な極限状態の中で脳が起こした“意味づけ”の現象でした。
そのとき僕は、長時間歩き通していて、体力的にも精神的にもギリギリ。以前、大峯山系で鹿を見た記憶もあり、潜在意識には「この山には鹿がいる」という印象が強く残っていました。
そこに現れた黄土色の塊──脳は「安全か危険か」を即座に判断するために、既知のイメージ(=鹿)を重ねてきたんだと思います。これは脳の“予測補完”という働きで、要するに「わからないものを、知ってるものとして処理する」癖のことです。
第三章:昔話と“山の神”の正体 この体験をしてから、昔話や怪異譚の見え方がガラリと変わりました。
よく「○○峠にお化けが出る」とか「山の神に出会った」とか言いますよね。あれって、実は登山者や旅人たちが僕と同じような“錯覚”や“幻視”を体験して、それを物語として伝えてきた結果じゃないかと思うようになりました。
峠って、まさに疲れのピークであり、緊張が緩んだり高まったりする場所。そこで見える幻は、単なる錯覚じゃなく、文化の中で“意味あるもの”として語られ、残ってきたんじゃないかと思います。
第四章:訂正できるか、神話になるか 僕はあの瞬間、「あ、違う。ただの倒木だ」と訂正できた。
けれど、もし僕がそこで「あれは山の神だった」と信じてしまったら、その体験はきっと“啓示”になっていたはずです。そして語り継がれる“神話”の始まりになっていたかもしれません。
神秘体験って、実は“錯覚そのもの”ではなく、錯覚にどう意味を与えるかがすべてなんだと思います。
結び:意味づけの構造を、自分の体で知った この体験は、ただの登山中のハプニングとして終わらせるにはもったいないものでした。僕は自分の身体で“神秘体験の正体”に触れたわけです。そして、それをAIと対話しながら解剖する中で、昔話や信仰の“構造”がクリアに見えてきた。
これは迷信を否定する話ではありません。人が神話を語り、物語を残してきたのは、錯覚を通して“意味”を生み出す力があったから。だからこそ、神秘体験を疑うだけじゃなく、その構造を見抜く眼差しも大切にしたい。
──そんなふうに思えるようになった、ちょっと特別な山の体験でした。
初めまして
興味深いお話です
左と中の写真の奥に鹿の頭部が見えるんですが、これ錯覚でしょうか?
https://www.yamareco.com/modules/diary/82739-detail-178875
https://www.yamareco.com/modules/diary/82739-detail-170988
脳内現象だと考えたいのですが、今もって理解不能です。
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