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ヒグマと遭遇したとき「死んだふりをしろ」と語られるのは、冷静なサバイバル戦略ではなく、実際には誰かが喰われる前提の自己保存論理である。
「死んだふり」という提案は、あくまで個人に選択肢を与えたように見せかけ、犠牲を個人責任にすり替える。その本質はこうだ:
"犠牲者が自ら進んで囮になった、だから他者は助かった"
つまり、集団のための犠牲を美化し、その責任を集団ではなく個人に押し付ける。
■ 死んだふりは倫理的処刑のマニュアルである
この“山の掟”には次のような前提がある:
クマとの遭遇=確率の低い死闘
戦って勝てる可能性はゼロに近い
逃げるには時間稼ぎが必要
誰かが「その役」を担えば、他は助かるかもしれない
このロジックに従えば、「死んだふり」は自己防衛ではなく、匿名の生贄制度の制度化である。集団の中で最も“弱い者”が自動的にその役を背負うことになる。
■ 倫理を装った“役割”の割り当て
現実の山中で、誰が犠牲になるのか?
年配者?
体力の劣る者?
無口で控えめな者?
ヒグマに出くわした瞬間、誰が「不要」かという沈黙の判断が行われる。そしてその者の行動が、死んだふりであれ、立ちすくみであれ、「囮」として消費される。
それは明言されない。
だからこそ、残された者はこう言える:「仕方なかった」「事故だった」「彼が盾になった」。
■ 死んだふりの裏にある「正義なき合理性」
生き残るための選択肢を持つことは悪ではない。
だが、その選択が倫理や集団的責任を脱臭してしまうとき、
そこには正義も尊厳も残らない。
この「死んだふり」の教えは、
何も考えずに実行する者
誰かがそれをしてくれることを期待する者
双方にとって都合が良すぎる。
そしてその「都合の良さ」こそが、最も恐ろしいのだ。
■ 終わりに──倫理の仮面をはがせ
人が極限状態に置かれたとき、
倫理は残るのか? それとも剥がれるのか?
「死んだふり」はその問いへの答えの一つである。
生贄を“戦略”と呼び、犠牲を“偶然”と呼ぶ。
そのことによって、我々は責任なき正義の仮面を手に入れてきた。
だがその仮面の下には、
弱者を見捨てる冷酷さ
集団の中で自分だけ助かるという本能
それを正当化するための言葉遊び
が、透けて見える。
「死んだふり」という言葉を無邪気に語ることは、
制度化された裏切りの共犯者になるということだ。
倫理とは、暴力の前で試される。
その時、何を捨て、何を守るのか。
それを問い直すために、この“掟”を解体する必要がある。
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