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登山道で疲れた身体に差し出される一口の甘味。
それは優しさか、はたまた善意の証か──。
多くの登山者は、「もらうのが当たり前」「ありがたい行為」と思っているだろう。
だが私は、これまでの経験を通して、山で差し出されるお菓子には別の意味があると感じている。
そしてそれは、ときに「あなたの自我を侵食する契約書」にすらなり得る。
■ なぜ“お菓子”に警戒すべきなのか?
登山中にお菓子を渡される状況は、単なる栄養補給や気遣いとは限らない。
むしろそれは、贈与という形式を通じた、場の支配の最終段階であることがある。
✅ 1. お菓子は“返礼を強いる無言の契約”
「受け取れば、笑顔でお礼を言わねばならない」
「断れば、場の空気を壊してしまうかもしれない」
そんな心理的負債を発生させるのが、信頼のない相手からの一方的な贈り物である。
✅ 2. 食を共にすることは“共同体への参加”を意味する
日本文化には、「同じ釜の飯を食う」という言葉がある。
登山においても、同じ甘味を分け合うことは、心理的に共同体への同調を強要する儀式になる。
一見すると些細だが、これは**“よもつへぐい”──戻れなくなる食の契約**に等しい構造を持つ。
■ 私の体験
先日、ある登山サークルで一日中、大音量で熊鈴を鳴らし続けていた中高年女性がいた。
音に疲れ切っていた頃、彼女は登山終了間際に笑顔でお菓子を配り始めた。
私は反射的に「ありがとうございます」と言って受け取ったが、口にはしなかった。
なぜなら、彼女の差し出したお菓子は、単なる優しさではなく、
「私はこの場を仕切っていた」という事実を、甘味によって確定させる儀式に感じられたからだ。
受け取った瞬間、「彼女の登山の物語に、自分もいた」と記録されてしまう。
それが嫌だった。
■ 旧友のケースにも同じ構造があった
私の旧知の人物も、毎回必ず高価な菓子や保冷剤付きのゼリーを持参していた。
形式的には親切だった。
だが私は、それが**人間関係の主導権を握るための“精密な贈与操作”**であることに後から気づいた。
それに気づいて以降、私はどんなに丁寧な包装であっても、
信頼なき人物からの贈与はすべて「操作」と見なすようになった。
■ 登山中の贈与に潜む支配の構造
行為 表向きの意味 背後の心理操作
お菓子を渡す 気配り・善意 「場の主」であることの証明
高価で丁寧な包装 心遣い 断りづらくさせる設計
食べさせる 疲労回復 “同調”という心理的契約
■ ではどうすればよいのか?
✅ 1. 信頼のない相手からの食べ物は原則として受け取らない
「ありがとうございます、でも甘いものは控えてるんです」
「今は少し胃が重くて……お気持ちだけ」
→ 角を立てずに境界を守る言い回しを用意しておく。
✅ 2. 受け取っても、口にしない・関係を深めないという選択肢もある
形式だけの応答で、相手の支配構造に巻き込まれない戦術的スルー。
✅ 3. 「贈与=善」という思考停止をやめる
贈与は関係性の提示であり、**“力のやりとり”**である。
そこに信頼がなければ、それは支配のための道具でしかない。
■ おわりに──甘さの裏に潜むもの
山で渡されるお菓子。
それは、たとえ小さな飴玉一粒であっても、**あなたの物語を乗っ取るための“味覚による侵入”**である可能性がある。
あなたが登山に求めているものが「静けさ」「独立」「自己との対話」であるなら、
甘いものほど、慎重に距離を取るべきである。
🔔登山者への注意喚起:
信頼のない人物からの甘味は受け取るな。
それは“優しさの形をした支配”かもしれない。
付録
🎯【焦点化】──単なる行動食か、それとも「見せる食」か?
✅1. 本来の行動食:登山の“生理的必要”としての補給
血糖低下・疲労回復・筋肉維持など、身体的な理に基づく摂取行為。
→「見られようが何だろうが、自分のペースで食べる」
他人の反応など眼中にない。
→ 自律した補給行為。
👉 ここに“配慮”や“演出”は介在しない。
✅2. 他者の視線を意識した食:社会的な“意味のある食事”
「見られている」「どう思われるか」を意識した瞬間、食行為は自己防衛的パフォーマンスに変わる。
→ 配る、隠す、言い訳する(「行動食ですよ」など)
👉 この時点で、“食”が社会的行動に変化している。
🧠そして、「配る人」は何をしているか?
✅表面上:「気遣い」「シェア文化」「優しさ」
✅実際には:
自分の行動を正当化するための共犯関係の構築
「一人で食べてる」と思われたくない(=恥、卑しさ)
みんなに渡しておけば、自分の食欲も“善意”としてカムフラージュされる
✒️言い換えると:
行動食として食べるのなら、黙って食べればいい。
でも、“配り始めた”その瞬間から、食はもう「栄養補給」ではない。
それは自分の行動への免責と、他者を巻き込むことで安心を得る小さな支配行為になる。
「食べなよ」と言われて、断るのが難しくなるように設計された、“善意の圧力”だ。
🔍そしてもう一歩深く見ると:
本当にお腹が空いていたなら、他人の視線に気づく前に食べているはず。
見られてから動作を整える、袋をゆっくり開ける、配る……
→ これは“演技された食欲”であり、社会性に最適化された間食。
🔚結論:
登山の補給行動が“他者の視線”を意識し始めた瞬間、
それはもはや行動食ではない。
それは、空腹の隠蔽であり、支配の伏線であり、善意という名の共犯化である。
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