01阿藤伯海記念公園駐車場
駐車場(スタート&ゴール地点)を見下ろしたところです。写真の左側に写っている白梅にメジロがいたので動画に撮りました。石段を上り阿藤伯海記念公園の流芳(りゅうほう)の丘からは、遥照山(ようしょうざん)や竹林寺山(国立天文台岡山天体物理観測所)、そして、安芸守山(あきのかみやま)<写真14>を望むことができます。
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01阿藤伯海記念公園駐車場
駐車場(スタート&ゴール地点)を見下ろしたところです。写真の左側に写っている白梅にメジロがいたので動画に撮りました。石段を上り阿藤伯海記念公園の流芳(りゅうほう)の丘からは、遥照山(ようしょうざん)や竹林寺山(国立天文台岡山天体物理観測所)、そして、安芸守山(あきのかみやま)<写真14>を望むことができます。
02阿藤伯海記念公園ボケ
流芳(りゅうほう)の丘に上る石段のてっぺん近くで咲き始めでした。「先駆者」という花言葉は、織田信長が家紋としてボケを用いていたことに由来しているとされています。
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02阿藤伯海記念公園ボケ
流芳(りゅうほう)の丘に上る石段のてっぺん近くで咲き始めでした。「先駆者」という花言葉は、織田信長が家紋としてボケを用いていたことに由来しているとされています。
03流芳(りゅうほう)の丘
ピンクの梅
流芳の丘には約20本の梅の木が植えられており、訪問した際には、ピンクの梅は8分咲き程度でした。左側にかすかにこれから登る安芸守山(あきのかみやま)<写真14>が見えています。
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03流芳(りゅうほう)の丘
ピンクの梅
流芳の丘には約20本の梅の木が植えられており、訪問した際には、ピンクの梅は8分咲き程度でした。左側にかすかにこれから登る安芸守山(あきのかみやま)<写真14>が見えています。
04流芳の丘白梅ズーム
流芳の丘に咲いている白梅をズームしました。こちらも8分咲き程度です。白梅の方が紅梅に比べ、実も大きく、梅干しや漬け物に向いています。そういえば、南高梅も白梅でした。
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04流芳の丘白梅ズーム
流芳の丘に咲いている白梅をズームしました。こちらも8分咲き程度です。白梅の方が紅梅に比べ、実も大きく、梅干しや漬け物に向いています。そういえば、南高梅も白梅でした。
05流芳の丘紅梅ズーム
流芳の丘に咲いている紅梅をズームしました。こちらはまだ3分咲き程度でした。梅はこの3品種のようです。花が咲く前は紅梅か白梅かは判断できませんが、紅梅は幹の中まで紅色なので、素人にも判断できるそうです。
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05流芳の丘紅梅ズーム
流芳の丘に咲いている紅梅をズームしました。こちらはまだ3分咲き程度でした。梅はこの3品種のようです。花が咲く前は紅梅か白梅かは判断できませんが、紅梅は幹の中まで紅色なので、素人にも判断できるそうです。
06阿藤伯海旧居の門
阿藤伯海(あとうはくみ)は浅口郡六条院村(現浅口市)出身の教育者、漢詩人です。その功労を顕彰し、生家を修復した阿藤伯海旧居が公園横にありました。入館料は100円でした。入館は9時からでしたので、少し早すぎました。側にある蓮池には、7月になると大賀蓮が咲くそうですが、この日は池がほとんど干上がっていました。
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06阿藤伯海旧居の門
阿藤伯海(あとうはくみ)は浅口郡六条院村(現浅口市)出身の教育者、漢詩人です。その功労を顕彰し、生家を修復した阿藤伯海旧居が公園横にありました。入館料は100円でした。入館は9時からでしたので、少し早すぎました。側にある蓮池には、7月になると大賀蓮が咲くそうですが、この日は池がほとんど干上がっていました。
07阿藤伯海旧居
阿藤伯海は1944(昭和19)年、職を辞し郷里に帰り、漢詩の詩作を中心に暮らしたとされています。1956(昭和31)年から翌年まで岡山県教育委員会委員も務めたようです。室内には漢詩などが展示されています。引き返しアスファルト道に出て泉団地方面に向かうと、水路にハクセキレイがいたので動画を撮りました。
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07阿藤伯海旧居
阿藤伯海は1944(昭和19)年、職を辞し郷里に帰り、漢詩の詩作を中心に暮らしたとされています。1956(昭和31)年から翌年まで岡山県教育委員会委員も務めたようです。室内には漢詩などが展示されています。引き返しアスファルト道に出て泉団地方面に向かうと、水路にハクセキレイがいたので動画を撮りました。
08鴨方川コガモ
里見川の支流である鴨方川がJRと交差する場所にコガモが群がっていました。適度に浅瀬があり、餌も豊富で、人が寄ってこない線路付近のせいか、のんびりと遊泳と採食行動をしていました。動画には踏切の音が…(*_*;
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08鴨方川コガモ
里見川の支流である鴨方川がJRと交差する場所にコガモが群がっていました。適度に浅瀬があり、餌も豊富で、人が寄ってこない線路付近のせいか、のんびりと遊泳と採食行動をしていました。動画には踏切の音が…(*_*;
09安芸守山&竹林寺山
踏切を渡ってすぐのところから地頭富士と呼ばれる安芸守山(あきのかみやま)<写真14>がはっきりと見えました。その背後には国立天文台岡山天体物理観測所が頂上に設置されている竹林寺山が見えます。
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09安芸守山&竹林寺山
踏切を渡ってすぐのところから地頭富士と呼ばれる安芸守山(あきのかみやま)<写真14>がはっきりと見えました。その背後には国立天文台岡山天体物理観測所が頂上に設置されている竹林寺山が見えます。
10古池&安芸守山
古池越しに安芸守山(あきのかみやま)を撮影すると、その美しいフォルムが古池にも投影されます。また、この写真を拡大するとわかりますが、ホシハジロがたくさん遊泳していました。古池のすぐ北に隣接している丸池でホシハジロや飛んでいるカワウの動画を撮りました。
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10古池&安芸守山
古池越しに安芸守山(あきのかみやま)を撮影すると、その美しいフォルムが古池にも投影されます。また、この写真を拡大するとわかりますが、ホシハジロがたくさん遊泳していました。古池のすぐ北に隣接している丸池でホシハジロや飛んでいるカワウの動画を撮りました。
11安芸守山登山道標
登山口の近くまで来ると、この「安芸守山(登山口)」の道標が設置されています。これは2つ目か3つ目でした。この奥にもう1つ道標が見えており、そこからは一本道です。
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11安芸守山登山道標
登山口の近くまで来ると、この「安芸守山(登山口)」の道標が設置されています。これは2つ目か3つ目でした。この奥にもう1つ道標が見えており、そこからは一本道です。
12道標裏の井戸
道標<写真11>の裏に丸い穴があったので、覗き込むと、深い井戸がありました。懐かしい!?パイプが設置されていたので、まだ使われているのかもしれません。コンクリートの道はすぐに土の細道になりました。
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12道標裏の井戸
道標<写真11>の裏に丸い穴があったので、覗き込むと、深い井戸がありました。懐かしい!?パイプが設置されていたので、まだ使われているのかもしれません。コンクリートの道はすぐに土の細道になりました。
13オオカマキリの卵嚢
土道を歩き始めてすぐにオオカマキリの卵嚢(らんのう)を見つけました。うちの庭と同じく、ゴールデンウィーク頃、束になって孵化するのでしょうか。丸太と土の階段状の道がずっと続き、たまに脇にロープが張られています。途中から石が埋まった部分が増えてきました。枯れススキや微妙に枯れかけたササの間の細道を進みます。
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13オオカマキリの卵嚢
土道を歩き始めてすぐにオオカマキリの卵嚢(らんのう)を見つけました。うちの庭と同じく、ゴールデンウィーク頃、束になって孵化するのでしょうか。丸太と土の階段状の道がずっと続き、たまに脇にロープが張られています。途中から石が埋まった部分が増えてきました。枯れススキや微妙に枯れかけたササの間の細道を進みます。
14安芸守山頂上
最後に枯れかけた笹原の細い踏み跡を歩き頂上に辿り着きました。遠景から見る美しいフォルムとは裏腹にとても素朴(ワイルド)かつフラットな標高199mの頂上でした。ここには室町時代に山城が築かれていたようです。城主は毛利元就の娘婿である宍戸安芸守隆家と伝えられています。明治時代には人骨などが出土したそうです。この少し北東の木々の間から竹林寺山が見えました。
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14安芸守山頂上
最後に枯れかけた笹原の細い踏み跡を歩き頂上に辿り着きました。遠景から見る美しいフォルムとは裏腹にとても素朴(ワイルド)かつフラットな標高199mの頂上でした。ここには室町時代に山城が築かれていたようです。城主は毛利元就の娘婿である宍戸安芸守隆家と伝えられています。明治時代には人骨などが出土したそうです。この少し北東の木々の間から竹林寺山が見えました。
15益坂三角点
崩れやすい土道を下り、赤いビニールテープやピンク色のテープを見ながら歩きます。途中で連れが落とし物を取りに戻り、10分程ロスしました。地形図の道と合流し、2つ目の分岐を直進すると、崩れやすい土道を北東に向かってしまいました。鉄塔で行き止まりになり、右折して南東に上る道を進むと、緩やかな道に合流しすぐに標高200.4mの頂上三角点に出ました。山の名前は不明ですが、三角点名は「益坂」となっていました。西に進路を変え鉄塔を過ぎると、しばらく安芸守山<写真14>を見ながら下れました。
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15益坂三角点
崩れやすい土道を下り、赤いビニールテープやピンク色のテープを見ながら歩きます。途中で連れが落とし物を取りに戻り、10分程ロスしました。地形図の道と合流し、2つ目の分岐を直進すると、崩れやすい土道を北東に向かってしまいました。鉄塔で行き止まりになり、右折して南東に上る道を進むと、緩やかな道に合流しすぐに標高200.4mの頂上三角点に出ました。山の名前は不明ですが、三角点名は「益坂」となっていました。西に進路を変え鉄塔を過ぎると、しばらく安芸守山<写真14>を見ながら下れました。
16以茂津上池の北
標高100m巨石群
崩れやすい土や滑りやすいザラついた土がたまにあるので、気を付けながら下りました。標高100m辺りに道に沿って巨石群が現れたので、歩きながら動画にも撮りました。さらに下り鉄塔から安芸守山<写真14>を眺め、滑るザラついた土道を進むと、下池を少し過ぎたところに鉄塔巡視路の分岐がありました。No3鉄塔に向かい幅50cm程の沢をまたぎ、送電線に沿って落ち葉道を上ると、益坂三角点<写真15>からちょうど35分で鉄塔に着きました。
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16以茂津上池の北
標高100m巨石群
崩れやすい土や滑りやすいザラついた土がたまにあるので、気を付けながら下りました。標高100m辺りに道に沿って巨石群が現れたので、歩きながら動画にも撮りました。さらに下り鉄塔から安芸守山<写真14>を眺め、滑るザラついた土道を進むと、下池を少し過ぎたところに鉄塔巡視路の分岐がありました。No3鉄塔に向かい幅50cm程の沢をまたぎ、送電線に沿って落ち葉道を上ると、益坂三角点<写真15>からちょうど35分で鉄塔に着きました。
17木野山神社
緩やかになった道を歩いていくと、大きな岩<写真18>が見え、その岩と対峙するように、木野山神社がありました。名前から判断すると、オオカミ信仰、山岳信仰の神社のようで、ここにもやはり岩がいくつかあります。
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17木野山神社
緩やかになった道を歩いていくと、大きな岩<写真18>が見え、その岩と対峙するように、木野山神社がありました。名前から判断すると、オオカミ信仰、山岳信仰の神社のようで、ここにもやはり岩がいくつかあります。
18磐岩(いわむら)神社
磐座(いわくら)
木野山神社<写真17>の南に大きな磐座(いわくら)がありました。周辺にも巨石群がいくつかあり、パワースポットの様相を呈しています。一周しながら、動画も撮りました。
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18磐岩(いわむら)神社
磐座(いわくら)
木野山神社<写真17>の南に大きな磐座(いわくら)がありました。周辺にも巨石群がいくつかあり、パワースポットの様相を呈しています。一周しながら、動画も撮りました。
19磐岩神社磐座&祠
磐座の正面には小さな祠がありました。ご祭神の経津主命(ふつぬしのみこと)は、出雲国に赴いて国譲りの交渉を成功させた武神で、伊耶那岐神(いざなぎのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った剣についた血がかたまってできた五百箇磐石(いほついはむら)という岩群から生まれたとされています。この磐座を五百箇磐石に見立てたのでしょう。
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19磐岩神社磐座&祠
磐座の正面には小さな祠がありました。ご祭神の経津主命(ふつぬしのみこと)は、出雲国に赴いて国譲りの交渉を成功させた武神で、伊耶那岐神(いざなぎのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った剣についた血がかたまってできた五百箇磐石(いほついはむら)という岩群から生まれたとされています。この磐座を五百箇磐石に見立てたのでしょう。
20磐岩神社磐座の割れ目
祠<写真19>の右後方の岩の切れ目がまるで加工しているかのようにシャープでした。すぐ左側には穴が開いており、くぐれそうでしたが、バチが当たりそうなので、磐座の左端をしゃがんで通り抜け、再び裏側にまわってみました。周辺の狭い岩の間を歩くのは楽しかったです。岩の間の滑りやすいザラついた土の上を歩いて下り、少し下の岩の上から祠を振り返ったり本殿を見下ろしたりしてみました。
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20磐岩神社磐座の割れ目
祠<写真19>の右後方の岩の切れ目がまるで加工しているかのようにシャープでした。すぐ左側には穴が開いており、くぐれそうでしたが、バチが当たりそうなので、磐座の左端をしゃがんで通り抜け、再び裏側にまわってみました。周辺の狭い岩の間を歩くのは楽しかったです。岩の間の滑りやすいザラついた土の上を歩いて下り、少し下の岩の上から祠を振り返ったり本殿を見下ろしたりしてみました。
21磐岩神社本殿
岩の間の道を振り返ってみました。千数百年前、この辺りは入り江に面する景勝地で、大三宅や小三宅などの地名から見ても倉などが並ぶ枢要の地だったと思われます。海賊などから守るために武神である経津主命(ふつぬしのみこと)をお祀りすることにし、それにふさわしい岩群があるこの地に神社を建てたのでしょう。
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21磐岩神社本殿
岩の間の道を振り返ってみました。千数百年前、この辺りは入り江に面する景勝地で、大三宅や小三宅などの地名から見ても倉などが並ぶ枢要の地だったと思われます。海賊などから守るために武神である経津主命(ふつぬしのみこと)をお祀りすることにし、それにふさわしい岩群があるこの地に神社を建てたのでしょう。
22磐岩神社拝殿&狛犬
この神社の鳥居の付近まではかつては港だったことを示すように、長い急な階段が神社まで続いていました。狛犬は玉に乗っていました。石段の下からはずっとアスファルト道です。
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22磐岩神社拝殿&狛犬
この神社の鳥居の付近まではかつては港だったことを示すように、長い急な階段が神社まで続いていました。狛犬は玉に乗っていました。石段の下からはずっとアスファルト道です。
23火の見櫓&安芸守山
金光町地頭下の新池の東にありました。無線が発達した時代において、このような火の見櫓は減ってきているそうですが、まだ使われているようで、半鐘の下にスピーカーが見えています。
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23火の見櫓&安芸守山
金光町地頭下の新池の東にありました。無線が発達した時代において、このような火の見櫓は減ってきているそうですが、まだ使われているようで、半鐘の下にスピーカーが見えています。
24桝池のオオバン
金光町地頭下の桝池の北西端でオオバンが遊泳していました。全体は灰黒色で額とくちばしは白色ですので、すぐに分かります。すぐ側は打ちっぱなしで人がいるのですが、平気なようでした。動画も撮りました。
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24桝池のオオバン
金光町地頭下の桝池の北西端でオオバンが遊泳していました。全体は灰黒色で額とくちばしは白色ですので、すぐに分かります。すぐ側は打ちっぱなしで人がいるのですが、平気なようでした。動画も撮りました。
25桝池のヌートリア
桝池に生息していました。体長30cm前後で、岡山県に最も多く生息しているネズミ目の帰化動物です。このヌートリアとダイサギが接近するシーンを動画に撮りました。
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25桝池のヌートリア
桝池に生息していました。体長30cm前後で、岡山県に最も多く生息しているネズミ目の帰化動物です。このヌートリアとダイサギが接近するシーンを動画に撮りました。
26桝池のバン
オオバン<写真24>よりひとまわり小さく、額とくちばしは赤色です。警戒心が強いそうですが、この個体はじっとこちらを見ていたかと思うと、なぜか泳いで向かってきました。水かきがないので泳ぎは不得意らしく、首を前後に振りながら必死で泳いでいる姿を動画に撮りました。この少し東にはヒドリガモが休んでいましたが、こちらに驚いて逃げ出したので動画を撮りました。
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26桝池のバン
オオバン<写真24>よりひとまわり小さく、額とくちばしは赤色です。警戒心が強いそうですが、この個体はじっとこちらを見ていたかと思うと、なぜか泳いで向かってきました。水かきがないので泳ぎは不得意らしく、首を前後に振りながら必死で泳いでいる姿を動画に撮りました。この少し東にはヒドリガモが休んでいましたが、こちらに驚いて逃げ出したので動画を撮りました。
27桝池のカルガモ
桝池の南岸近くにたくさん群れていました。くちばしの先端が黄色いので、マガモのメスとはすぐ区別できます。グェ、グェ、グェと太い声で鳴き、留鳥で一年中見られるカモです。我が家の近所の田んぼに住み付き、勝手にカルガモ農法をやっています。決して引っ越しの季節だけではありません?
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27桝池のカルガモ
桝池の南岸近くにたくさん群れていました。くちばしの先端が黄色いので、マガモのメスとはすぐ区別できます。グェ、グェ、グェと太い声で鳴き、留鳥で一年中見られるカモです。我が家の近所の田んぼに住み付き、勝手にカルガモ農法をやっています。決して引っ越しの季節だけではありません?
28桝池&安芸守山
桝池は金光町で最も大きなため池で、桝池越しに見た安芸守山は優雅な姿に映ります。
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28桝池&安芸守山
桝池は金光町で最も大きなため池で、桝池越しに見た安芸守山は優雅な姿に映ります。
29八幡神社拝殿&本殿
金光町佐方(さかた)にある神社です。享徳元年(1452年)将軍足利義成(後の義政)の時に勧請したと伝えられています。現在は佐方下地区の氏神として祀られています。
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29八幡神社拝殿&本殿
金光町佐方(さかた)にある神社です。享徳元年(1452年)将軍足利義成(後の義政)の時に勧請したと伝えられています。現在は佐方下地区の氏神として祀られています。
30八幡神社本殿彫刻
八幡神社本殿の側面の彫刻です。ご祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)でしょうか。
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30八幡神社本殿彫刻
八幡神社本殿の側面の彫刻です。ご祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)でしょうか。
31御崎社
八幡神社<写真29>の北東に位置していました。末社でしょうか。その名称からも港が近かったことがわかります。
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31御崎社
八幡神社<写真29>の北東に位置していました。末社でしょうか。その名称からも港が近かったことがわかります。
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