記録ID: 21366
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積雪期ピークハント/縦走
日高山脈
神威岳、エサオマントッタベツ岳
1988年01月05日(火) 〜
1988年01月08日(金)
イグルスキー米山
その他3人
- GPS
- 80:00
- 距離
- 46.8km
- 登り
- 2,028m
- 下り
- 2,045m
コースタイム
1月5日日高小屋(8:40)→カムイ北東尾根末端C1(12:30)
1月6日C1(6:30)→C2(標高1560m)(11:00ー12:15)→カムイ岳往復→C2
1月7日C2(6:40)→エサオマントッタベツ岳(10:35)→C2=C3(13:30)
1月8日C3(9:00)→林道(11:00)→トッタベツヒュッテC4(13:30)
トッタベツヒュッテC4(9:00)→十勝平野
1月6日C1(6:30)→C2(標高1560m)(11:00ー12:15)→カムイ岳往復→C2
1月7日C2(6:40)→エサオマントッタベツ岳(10:35)→C2=C3(13:30)
1月8日C3(9:00)→林道(11:00)→トッタベツヒュッテC4(13:30)
トッタベツヒュッテC4(9:00)→十勝平野
アクセス | |
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コース状況/ 危険箇所等 |
エサオマンが憧れの山になったのは、神威岳から撮影された冬の北尾根の写真を見てからだ。その北面にある細い稜線の両側をそぎ取るように発達した2つのカールが挑発的でエサオマンに登るには、冬に北から攻めたいと決意した次第だ。パミールから帰った冬、岡島さんと立てた計画は、前の春のメイン山行の終点、ピパイロ岳から幌尻、カムイを経てエサオマンへ、となった。だが検討会で皆を納得させられず、この長い山行計画を諦めることになったが、エサオマンにイカれていた僕たちは他の山域に変える気にはなれず、カムイ北東尾根からのアタックという、延々と林道を歩いていって1週間かけて稜線を往復するだけの、シンプルにしてもったいない計画を作った。だが目的のはっきりした美しい計画ではある。岡島さんはこういうヒマラヤ極地法ふうの計画がそういえば大好きだ。 悪天のため正月三ヶ日を珍しく里で過ごし、札内のトッタベツ川を入山。尾根の取り付きで冬テンを張り、焚火。 翌日、まる1日かけて神居北東尾根をよじのぼり、稜線手前のカンバの疎林で冬テンを張る。天気は悪くないが、気温が低く、展望は効かない。これが噂の厳冬季日高山脈だ。 カムイ岳は地味な山だ。ただのポコとも思えるのだが、なぜ名前があるのか考えてみるとトッタベツ川からの冬の登路として登りやすいカムイ岳北東尾根の存在があるからだろうか。しかしこうなってみると、縦走したのではただのポコとして忘れられそうなカムイ岳といえども、俄然この計画の中では存在感が大きくなる。カムイ岳との礼儀正しい出会いという意味では、良いことになったかもしれない。僕らはカムイ岳の貴重な山頂を丁重に踏んだ。最高点と思われる場所に佇んでいると、突如視界が利き、目線よりも一段上に巨大なポロシリの山体が忽然と現われては消えた。青空なのだがすっきり晴れず、寒いガスがびゅんびゅん飛んでは視界をチラ見せにして焦らす。日高高所地帯の1月の厳しさを知る。この天気で縦走を延々貫徹するには、まだまだ経験不足かも知れない。 この尾根から、エサオマンの北尾根を見た。雪庇が恐ろしげに発達し、深くえぐったカールの中空に張りだしていた。寒々とした雪煙がそれをかき消す。堂々たる姿だ、壮麗だ。アタックの日はガスにけむり、白い中をひた登る。最低コルのブッシュはうるさいが、左へよれば北東カールに墜落してしまう。肩へのナイフリッジは足場がきまり、山頂らしきところへ至る。岡島さんがその先を見に行き、やっと最高点であることが判る。寒い山頂に長居はできず、はやばやと下る。これが厳冬の北日高というものだ、身の程を思い知った。 |
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