記録ID: 296031
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ハイキング
四国
安徳帝下向道と高丸山回遊
2013年05月04日(土) [日帰り]


- GPS
- 03:42
- 距離
- 7.5km
- 登り
- 583m
- 下り
- 583m
コースタイム
11:03安徳宮-11:20金見山林道を横断-11:34薬師堂跡11:43下谷越-12:00・544mピークT字路-12:25高丸山-12:45〜13:28五郷越-13:47〜14:06高度310m地点の古道分岐-14:45安徳宮
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2013年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
分教場跡手前の変形四差路北側壁面に「生木地蔵」の解説板が張り付けられていたと思うが、それに従い右折する。 「院の墓」(安徳帝の拝み御陵)の標柱がある三叉路はそのまま直進。500mほど東進したところにある、下谷八幡上宮(地形図「讃岐豊浜」に神社マークあり)付近に駐車する。専用駐車場は路肩の路盤が軟弱なせいか、立入禁止となっているが、付近に駐車スペースはある。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
安徳帝下向道とは、以前、金見山から大谷山回遊の山行記録で述べたように、安徳帝切山潜幸伝説に於けるもので、安徳帝一行が屋島から阿波の祖谷へ一旦移った後、伊予の切山へ潜幸され、そこで半年間滞在後、長門の彦島へ向かうために讃岐へ旅立った際、歩かれたとされる、下谷越の峠道のことである。 高丸山(588.9m)は下谷越から尾根伝いの東にある無名峰。下谷越から金見山〜大谷山までも縦走できるが、その際、回遊コースをとった場合、車道歩きが長くなるため、金見山とは反対方向を辿ることにした。 尚、登山口に至る途中にある「院の墓」は、安徳帝従者だった切山の平家関係者が、帝が下関の壇ノ浦で亡くなられたことを悲しみ、帝の御衣と御念持仏を埋め、仮の御陵としたもの。 上宮東の安徳宮側に、安徳渕や安徳の滝、安徳窪等のそこからの距離が記された標柱がある。それらはコースとは違う道だが、安徳渕と安徳窪はコース分岐から往復10分程度で行けるので、見ておいてもいいだろう。 標柱から未舗装林道を進むとすぐ、橋の架かるY字路に至る。コースは架橋された右の道だが、安徳窪(行在所跡)へ向かうため、左の道を進む。 すぐ右手に「安徳渕」の標柱が現れるが、この渕、実は安徳帝の伝承がある訳ではない。切山平家遺跡保存会が、伝説の雰囲気を盛り上げるために設置したもので、上流にある安徳の滝も同様である。ただ、名称の付け方に少々問題があるような気がする。寺社等に「安徳」をつけるのは気にならないが、それ以外のモノに付けると呼び捨てのように聞こえてします。違和感のない名称としては「天子ケ渕」、「天子ケ滝」等が適当ではなかろうか。因みに高知県には「天子ケ森」という低山がある。 道が北から西向きに変わると、三叉路があるので、そこを左折する。その道を上り詰めた所にあるのが安徳窪で、平地部分が帝の行在所跡で、東側の石碑が建つ、塚のような土盛り箇所は、三種の神器奉安所跡であるとされている。 高知県越知町の安徳帝御陵参考地近くにある行在所跡と比べると、あまりにも狭すぎるが、これは神器奉安所跡の土盛りと、西側の斜面が経年変化で行在所跡にせり出してきていることが考えられる。 安徳帝の面影に接すると、架橋されたY字路まで引き返し、橋の方向へ進む。沢側の路肩は所々、過去の台風や豪雨によって抉られているが、沢の出合北東部の橋は流失して跡形もない。が、水流も大してないので難なく西岸に渡渉できる。西岸の道は右折して北に向かうが、ほどなくY字路に達する。ここは左側の道が「道」には見えないかも知れないが、その踏み跡がコースである。目印は沢側にある炭焼き窯跡。Y字路に気付かなくとも、この窯には必ず気づくから、窯跡の少々手前を北西に折れればいい訳である。 道は「薬師尾」という急登の尾根をジグザグに上がって行くが、上方に金見山林道ができてからは殆ど手入れされなくなり、シダの藪に覆われている。よって、ここを登る際はオーバーズボンを穿いていた方が良い。 金見山林道に出ると道標が立っている。林道から上の道もシダ道だが、藪はなく、快適に登れる。 440m等高線上の緩やかなピーク左手には、お薬師跡標柱が建っている。これは安徳帝の切山潜幸を守護した五士の一士、伊藤清左衛門国久が、安徳帝一行の安泰を祈願して祭った薬師堂跡のこと。薬師堂は文禄年間(1592〜96)、金生町小山に移設されている。 そこから高度に於いて90mほど登ると下谷越で、手製の指導板が掲げられている。峠の南西部に広い平地があるが、昔、茶屋でも建っていたのだろう。 ここから高丸山までは尾根道を辿る。この尾根道も金見山から大谷山までの尾根道のように、かつては防火帯として木々が幅広く刈りはらわれていたはずだが、前述の山々の尾根道と比べると、刈りはらわれている幅は狭い。それでもハイキング・コースとしては申し分ない。落ち葉踏む雑木道である。 544mピークのT字路は、読図をしていないと道を誤るかも知れない。一応道標はあるが、それは高丸山方向から縦走してくる者用に設置されてあるもので、逆コースで来た場合、初心者は若干戸惑うかも知れない。そこのT字路は南東に折れる。 高丸山山頂には呆気なく到達する。三角点は道沿いにあるため、山頂たる風情はなく、展望もない。時折現れるヤマツツジが「そこに山があるから登る、それでいいじゃないか」と言ってくれる。 下りついた所には未舗装林道が通っているが、林道の南が五郷越で、香川県側は古道が残っている。平家遺跡保存会では、安徳帝一行は阿波から伊予に入国する際、南東の曼陀峠から峰伝いに五郷越まで来て、伊予側に下り、切山に至ったものとして、五郷越の愛媛側の峠道(古道は大半が消滅)を「安徳帝潜入道」としているが、このルートは祖谷から伊予に入る際、遠回りになる。それよりも境目峠から七田を経て中下へ下って北上した方が近い。 林道は最初の内、未舗装だが、肥窪集落(現在一軒のみ)が近づくと舗装道となる。 地形図では標高310m地点から破線が車道から分岐しているが、これが五郷越の峠道である。しかし数十メートル先の沢を渡った地点からは藪で廃道化している。 道路は金見谷を橋で渡ると、中下地区との境界辺りの三叉路に出る。そこは北に折れる。尚、地形図では、その橋より手前の方でも二度、橋を渡るように記載されているが、実際は、前述の境界付近の橋しか渡らない。これは道路の改修で道筋が一部変わったものと思われる。 下谷集落(今は一軒)に至ると、熊野権現神社や下谷八幡下宮といった安徳帝一行に纏わる史跡があるが、熊野社より手前、安霊碑斜め向かいから東の田の際を下ると、木の根元に田辺神社の祠が奉られている。これは伊藤氏同様、五士の一士である田辺家の始祖、田辺太郎を祀ったものだが、太郎の改名前(壇ノ浦の合戦前)の名は平清国、そう、平家一門である。 下宮にも興味深い遺跡がある。参道奥の石段口右手に、立石と祠、燈籠が並んでいるが、この立石を刀石という。左側の縁の側に、溝のようなものがあるが、これは三種の神器の剣が当たってできた溝だという。恐らく、元は立石ではなく、寝かされていた平石で、側の木か何かに剣を立てかけておいたところ、倒れて下にあったこの石に当たったのだろう。 帝が切山を去った後、下宮の近くに居住していた田辺太郎が石を起こして祠を建て、祀ったのだろう。 尚、下谷集落に至ると首輪をした犬が吠えながら近寄ってくるが、しばらくすると吠えなくなって、ただ単に寄り添うだけになり、逆に愛らしい。 下谷集落を過ぎると、下宮はもうすぐである。 |
写真
撮影機器:
感想
[安徳帝切山伝説を8分で知るには]
安徳帝の切山潜幸伝説を知るには、県道9号沿いにある、文化財指定の真鍋家住宅に寄ると良い。真鍋家の始祖は平清盛の八男平清房。つまり現、真鍋家当主は平清盛の末裔ということになる。
茅葺の真鍋家住宅横には「霧山ロボット侍」がおり、スイッチを押すと伝説の解説が始まり、下の地図に関連地がライトで図示される。
尚、住宅へ行くには、県道沿いの小公園に駐車し、道標に従い階段を下りて行く。
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