碓氷峠と古代交通史跡巡り
- GPS
- 07:57
- 距離
- 112km
- 登り
- 2,264m
- 下り
- 2,295m
コースタイム
天候 | 曇り時々雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
感想
群馬県立歴博友の会主催の碓氷峠―古代交通史跡ツアーに参加。高崎駅でバスにピックアップしてただき、、今日のツアー企画者と解説者の紹介。開設は安中市文化財担当の藤巻氏。律令制時代の古代道路は、江戸時代の中山道などと比較できないほど広い。時のヤマト政権の権威を示すためか、あるいは東北遠征の軍事道路かーー高崎や伊勢崎周辺で、古代の12m道路の痕跡が発掘されている。しかし東山道の全体がどのようなルートになっていたかは、今もって不明という。12m幅の道路が出てくるのはまだ限られた場所で、もっと細い官道跡は出てくるが、古代駅家の所在もわからない場合が多いらしい。山陽道、畿内、東北の一部など、直線の12m道路は、その様子がおおよそわかっているが、東山道ルートは山越えの厳しい場所なので、つかめていないということだ。標高差の大きい碓氷峠でなく、入山峠ルートであろうという想定(東山道旧碓氷峠方面説も有力視されている)しかできていないそうだ。往路は、豊岡から18号線に入り、杉並木やの残りや妙義山を見ながら安中、松井田を経て、横川からバイパスに入って入山峠を越え、軽井沢に。軽井沢駅前から軽井沢銀座を経由し、車窓から沿道のお店を眺め、一路旧碓氷峠の熊野三社に向かう。軽井沢銀座は11時から宝光社天国で、許可車以外は通行できなくなる。11時前であっても観光客で中々車は前に進めない。それでも雨のせいか、比較的スムースに抜けられ、予定の十分前に神社下に到着。
古代道路はいずれのルートも11世紀には(全国的に)廃絶され、中世には現在の旧碓氷峠(大峠)となり、その後旧中山道となる。「この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる(wikiより)。
現在神社は長野側の熊野大皇神社と群馬側の熊野神社に分かれているが、これは戦後改革で神社が県別に分かれたことで、なされた措置。旧東山道が旧中山道に移行した時期に入山峠から移築されたという説もあるが、不明。神社下には茶店が数件あり、かつては皆宮司が旅人のためのサービスと特例で経営していたが、現在では宮司の経営する茶店は一軒のみ。旅人のエネルギー補給食として売られた力餅が有名らしい。参道の石段下には「安政遠足ゴール地点」の表示がある。武家の間で始まった安中城から熊野神社までの29?の競争だ。云わばハーフマラソンだが、このコースを走った人はとても走れるような道でなく、登山だったという感想を漏らしたという。今のトレランのようなものだーちなみに遠足は「とおあし」と読むようだー。
石段を登って神社の本堂に出る。長野側と群馬側のお堂が並んでいる。その中には松井田から寄進された県指定文化財の古鐘が置かれている。鐘が黒っぽいのは、誰か鐘の拓本を取ろうとして、間違えて鐘に墨を塗ってしまい、黒くなってしまったという(笑うに笑えない)。拓本を取るにはとるものに直接墨を塗るのでなく、絞ったタオルで水けを付けてから画仙紙を貼り、余分な水分を落としてから墨を付けた「タンポ」という墨付け道具でむらなく、まんべんなく墨を付けて、画仙紙をはがして新聞紙の上で乾燥させるそうだ。三つの神社を見た後、周囲にある祠や多重塔などを見て回る。群馬側は展望が開け、妙義山の向こうに安中や高崎方面などの平野が広がっている。また八咫烏の祠があり、天然記念物のシナノキを見る。その上に億社もあるようだが、出発の時間に間に合いそうもないので、あきらめてバスまで戻る。いろいろなところを撮影していたので、お土産の力餅を買う時間もなくなった。帰りのバスで、ツアー費用で買ったお餅はいただくことができたがーー。
熊野神社(旧碓氷峠)から軽井沢銀座をなんとか抜け出して軽井沢町歴史民俗資料館に向かう。資料館では若い学芸員が古代の官道、交通、宿場に関してや軽井沢の避暑地、別荘地としての発展の歴史、それに貢献した外国人や文人らに関する展示、この土地の民俗資料や中国陶磁器コレクションなどがあった。解説した学芸員は安中市出身だった。
それから新碓氷峠・眼鏡橋を経由して碓氷湖まで下り、昼食休憩。ヤマヒルが出そうだという説明で多くの参加者はバス内で食事をしたが、私は雨の中、東屋で昼食ーー例のごとく手作りおかずと100円おにぎり弁当と果物。アプト道を歩いてきたと見えるハイカーらが通過したので尋ねるとヤマヒルには出会っていないという。足元を見るが、蛭の形跡は見えなかった。時間まで坂本ダム方面まで行って撮影し、バスに戻る。それから坂本宿を通過し、碓氷関所に向かう。手前でバスを降り、馬車鉄道石碑やアプト道、鉄道文化公園に展示されている機関車などのほか、アプト式鉄道建設の犠牲者を弔う鎮魂碑を見学。公式記録は29人の犠牲者だが、この石碑には5百名とあり、その真偽は今日まで解明されていないという。
昼食後、坂本宿を通過し碓氷関所跡を訪ねる。横川駅手前で下車し、碓氷関所跡に向かう旧中山道を進む。途中、アプト線などの建設工事で亡くなった労働者の鎮魂碑やハイキング道になったアプト道入口、鉄道文化公園にある旧車両など
が見える。山側を見上げると、丁須の頭、御岳へと続く裏妙義のザンゲ岩あたりが見えている。地元の人は○○山といっていたが、メモし損なった。碓氷関所跡は箱根など国指定になっている関所跡と異なり、碓氷関所は県指定史跡。理由はこの土地がアプト鉄道などの重要な交通要路でとして、近代になってからも栄え、関所跡の様々な部材や土地が再利用されて、遺構の保存が悪かったため。関所周辺の建築物の部材は、売りに出されたりして、他の建築工事などに使われてしまったのだ。現在残る関所跡の門は、後から復元されたものだが、わずかに大きな柱などに当時の部材が一部使われているのみだ。またその先に東門跡の碑があるが、その門跡の延長上にある石垣にほぞ穴の跡があり、これがかなり遠くまで門が続いていて、関所破りを防止したという。
関所跡には資料館がある。国指定史跡にならなかったので、関所跡保存のために住民が基金を募り、その余ったお金で資料館を立てたので、箱根などとは違いきわめて簡素な建物だ。しかし中の資料は中々貴重だ。今回はここを開けていただいて藤巻氏の解説を聞きながら展示品を見る。まず目に入るのは広重の関所、宿場の浮世絵だが、江戸時代の関所に駐在した同心の衣装や道具の他、様々な貴重な文書が展示されていた。特に「入り鉄砲と出女」の監視が厳しく、特に女性の旅行者に関連する文書や幕末の西郷、高杉らをチェックするようなお触書の他、宿場周辺の絵地図などの図面など多数の文書が残されている。
関所跡と資料館を後にして、近くの横川茶屋本陣を訪ねる・ここは当時の関係者の子孫がまだ住んでいるまま。史跡に指定されている。恒例の方が住んでおられるので、外から見るだけにする。「本陣」とは、参勤交代を「軍事訓練」という名目で行っているために、こうした名称がつかわれているのだそうだ。「各藩の力をそぐため」とは幕府も言えまい。
その後、移動して「五料茶屋本陣」に向かう。ここは史跡として、整備され、庭園や室内の調度品や道具がよく保存され、当時の本陣の使われ方の一端を知ることができる。大名の休む上段の間は一段高くなっており、床の間には刀や高価な書画・焼き物が飾られている。周囲の壁には長槍、また土間には正月飾りやその他の飾り物などが保存されている。御座敷から見えるよく手入れされた庭の向こうには裏妙義の山々が見え、見事な借景だ。ここで二時半近くになり、最後の訪問地、学習の森ふるさと資料館に向かう。
学習の森ふるさと資料館では現在「白絵図に見る上州の戦国時代」展(富原文庫所蔵白絵図の世界)をしている。これはなかなかすごいコレクションで、上州の中世、近世の城だけでなく安土城など数多くの城の絵図や関係資料が多数展示されている見ごたえのある展示だ。時間がないので学芸員さんが大急ぎで展示解説をしてくださったが、あまりの速さにせっかくの展示がもったいなかった。常設展示解説までして、15時半には終了し、高崎駅に向かった。
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