記録ID: 5233434
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ハイキング
箱根・湯河原
不動山(新松田→大磯)
2023年03月04日(土) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 06:17
- 距離
- 27.0km
- 登り
- 418m
- 下り
- 459m
コースタイム
天候 | 快晴 ぽかぽか |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
| 南武線(川崎行) 10.6km 1・4・5号車 | 06:54-07:10[16分] | 220円 ◇登戸 1・2番線発 [乗換5分+待ち6分] | 小田急線急行(藤沢行) 56.6km | 07:21-07:36[15分] | 639円 ◇町田 1・2番線着 [乗換1分+待ち3分] | 小田急線急行(小田原行) ↓ | 07:40-08:29[49分] ■新松田 =========== 山歩き =========== ■大磯 | 東海道本線(東日本)(籠原行) 16.7km 中央 | 15:11-15:26[15分] | 330円( 普通車 ) ◇藤沢 3番線着・1番線発 [乗換4分+待ち6分] | 小田急江ノ島線快速急行(新宿行) 23.1km やや後 | 15:36-15:58[22分] | 462円 ◇相模大野 ≪降車不要≫ [乗換0分+待ち1分] | 小田急線快速急行(新宿行) 17.1km | 15:59-16:16[17分] ◇登戸 3・4番線着 [乗換5分+待ち12分] | 南武線快速(立川行) 10.6km | 16:33-16:44[11分] | 220円 ■府中本町 4番線着 交通費合計:1871円 |
コース状況/ 危険箇所等 |
危険なところなし。迷いやすいところなし。 |
その他周辺情報 | 1)いこいの村あしがら(曽我丘陵) ひな祭りイベント開催中でした。河津桜、紅梅白梅、富士山を見に来る観光客やローディー(ロード自転車)が多く、駐車場にはシルバー人材のおじさんが赤い棒を持って立っていました。甘酒や野菜直売のお店も出て賑わっていました。 2)六所神社 相模国総社の神社。境内を東海道線が横切るため、鳥居から拝殿までの参道にアンダーパスがある古い神社です。甘酒を販売していました。 3)旧吉田茂邸 想像以上に広いです。隣の旧三井別邸を併せて「大磯城山公園」になっています。 |
写真
六本松跡通過。以下、説明板を写す。
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古代千代台地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、西からの旅人は皆ここに寄って、この道を、目指す坂東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。
その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山または豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。
また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東三十三番観音の五番勝福寺から六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。
戦国乱世のころ、京の聖護院后道興は「答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は 嵐吹くなり」。を詠み、降って元禄のころ 松尾芭蕉は「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」。門人の白雄は「人の知る 曽我中村や 青嵐」その後 蕪村も「雨ほろほろ 曽我中村の田植えかな」と詠んだ。
この六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。
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古代千代台地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、西からの旅人は皆ここに寄って、この道を、目指す坂東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。
その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山または豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。
また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東三十三番観音の五番勝福寺から六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。
戦国乱世のころ、京の聖護院后道興は「答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は 嵐吹くなり」。を詠み、降って元禄のころ 松尾芭蕉は「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」。門人の白雄は「人の知る 曽我中村や 青嵐」その後 蕪村も「雨ほろほろ 曽我中村の田植えかな」と詠んだ。
この六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。
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キタテハ(もしかするとシータテハ)、ルリタテハを追ったけど写真を撮れなかった。テングチョウだけ写真を撮れた。翅を閉じて停まっているけど、陽に透かしてオレンジの模様を写真にできて嬉しい。
史跡 車坂を通過。
昔からいろいろな人が通った坂。以下、説明板を写す。
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「鳴神の 声もしきりに 車坂
とどろかしふる ゆふ立の空」
太田道灌
戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。「平安紀行」の作者は、太田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にてゆう立しきりに降りそえば」とあり、この時に詠んだものです。
「浜辺なる 前川瀬を逝く水の
早くも今日の 暮れにけるかも」
源実朝
「吾妻鏡」建保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て箱根、伊豆の二権現に参拝する際、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず日暮れまで待つ間に詠んだものです。
「浦路行く こころぼそさを 浪間より
出でて知らする 有明の月」
北林禅尼(阿仏尼)
「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊まり、あす鎌倉へ入るとあり、この時に詠んだものです。
昔からいろいろな人が通った坂。以下、説明板を写す。
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「鳴神の 声もしきりに 車坂
とどろかしふる ゆふ立の空」
太田道灌
戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。「平安紀行」の作者は、太田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にてゆう立しきりに降りそえば」とあり、この時に詠んだものです。
「浜辺なる 前川瀬を逝く水の
早くも今日の 暮れにけるかも」
源実朝
「吾妻鏡」建保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て箱根、伊豆の二権現に参拝する際、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず日暮れまで待つ間に詠んだものです。
「浦路行く こころぼそさを 浪間より
出でて知らする 有明の月」
北林禅尼(阿仏尼)
「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊まり、あす鎌倉へ入るとあり、この時に詠んだものです。
感想
目的
1)不動山:神奈川県の山(分県登山ガイド) 51/54座目。
2)新松田駅と大磯駅を赤線繋ぎ。(丹沢と三浦半島を繋ぐ。)
反省
天気が良く春の花は楽しかったが、新松田駅ー上大井駅間はロードで退屈。
弘法山経由で、秦野駅ー大磯駅をあるいて丹沢と三浦半島を繋いだ方が良かったかもしれない。
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