記録ID: 5352328
全員に公開
ハイキング
近畿
熊野古道中辺路トレイル(田辺駅〜本宮大社)
2023年04月08日(土) 〜
2023年04月09日(日)


体力度
10
2〜3泊以上が適当
- GPS
- 18:03
- 距離
- 65.4km
- 登り
- 3,178m
- 下り
- 3,132m
コースタイム
1日目
- 山行
- 8:49
- 休憩
- 0:13
- 合計
- 9:02
距離 33.5km
登り 1,446m
下り 851m
2日目
- 山行
- 8:23
- 休憩
- 0:40
- 合計
- 9:03
距離 31.9km
登り 1,759m
下り 2,296m
15:27
ゴール地点
天候 | 1日目 晴天で北風強い 2日目 晴天汗ばむ 気温グラフを最終Picに追加しています。 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス 自家用車
始発バスは5時44分 8時5分、12時40分、15時5分 最終バスは16時40分 料金2,100円 明光バス 12時17分、14時37分の2便 |
コース状況/ 危険箇所等 |
概ね良好 |
写真
秋津王子安井宮跡
秋津王子の創祀時期は不明であるが、藤原定家の 『後鳥羽院熊野街記』建仁元年(一二〇一)十月十三日 条に、「夜田辺に宿泊、早出してまず 秋津王 子に参る」とある。しかし、藤原宗忠の『中右記』天仁 二年(二〇九)十月の熊野詣での記事にはみえないの で、この間に祀られたものと考えられている。
秋津王子の創祀時期は不明であるが、藤原定家の 『後鳥羽院熊野街記』建仁元年(一二〇一)十月十三日 条に、「夜田辺に宿泊、早出してまず 秋津王 子に参る」とある。しかし、藤原宗忠の『中右記』天仁 二年(二〇九)十月の熊野詣での記事にはみえないの で、この間に祀られたものと考えられている。
万呂の獅子舞 田辺市中万呂
市指定・民俗文化賊
昭和55年8月22日指定 安永四年(一七七五)の記録に「獅子舞献し 申す」とあり十一月二十三日を祭礼とする須佐神 社の神事である。とくに寝獅子の際、天狗 お多福が獅子をおこす所作は微妙でありお多福 桐で作った湯物を右肩にかっき中腰で腰をふり廻る踊りは他にあまり例をみない五穀豊年を祈る神事である。
市指定・民俗文化賊
昭和55年8月22日指定 安永四年(一七七五)の記録に「獅子舞献し 申す」とあり十一月二十三日を祭礼とする須佐神 社の神事である。とくに寝獅子の際、天狗 お多福が獅子をおこす所作は微妙でありお多福 桐で作った湯物を右肩にかっき中腰で腰をふり廻る踊りは他にあまり例をみない五穀豊年を祈る神事である。
三栖王子跡
三栖の地名は藤原為房の日記、「大御記」に見えます。為房は永保元年 (一〇八一)十月に熊野に参詣した際、三栖荘で宿泊しています。 王子の 名は藤原定家の日記、「熊野道之間愚記」に「ミス山王子」と書かれてい るのが初見です。 承元四年(一二一〇)四月の「修明門院熊野御幸記」で も三栖王子に参拝したことが記されており、承久二年(一二二〇) 十一月 熊野参詣をした藤原頼資の日記にもこの王子の名が見られます。
三栖の地名は藤原為房の日記、「大御記」に見えます。為房は永保元年 (一〇八一)十月に熊野に参詣した際、三栖荘で宿泊しています。 王子の 名は藤原定家の日記、「熊野道之間愚記」に「ミス山王子」と書かれてい るのが初見です。 承元四年(一二一〇)四月の「修明門院熊野御幸記」で も三栖王子に参拝したことが記されており、承久二年(一二二〇) 十一月 熊野参詣をした藤原頼資の日記にもこの王子の名が見られます。
室町時 代頃には、すでに三栖から塩見坂 (潮見峠)越えの道が開かれていましたが、応永三十四年(一四二七) 九月に熊野参詣をした足利義満の側室・ 北野殿は、旧来の参詣路を経由しています。その後、退転し、江戸時代に 再興されて「影見王子」と呼ばれたようです。 明治初年に八坂神社の摂社 となり、同四十一年に一倉神社(現、珠簾神社)境内に移転しました。
南方熊楠山中裸像撮影場
一月二十八日朝八時頃起。辻氏感冒平治の すぎ 由ゆえ、午下家を出、同氏を訪い共に横手八幡 (写真とる)より三栖千法寺、それより岡に出、途 中松グミ生たる松の下に予裸にて立ち喫煙する まま写真。岡の八王子及中宮写真、それより 岩田大坊、松本神社写真、黄昏なり。朝来入口にて丸で淡昏くなる。それより新庄を経帰る。予脚絆はくを忘れ脚はなはだ痛む。
一月二十八日朝八時頃起。辻氏感冒平治の すぎ 由ゆえ、午下家を出、同氏を訪い共に横手八幡 (写真とる)より三栖千法寺、それより岡に出、途 中松グミ生たる松の下に予裸にて立ち喫煙する まま写真。岡の八王子及中宮写真、それより 岩田大坊、松本神社写真、黄昏なり。朝来入口にて丸で淡昏くなる。それより新庄を経帰る。予脚絆はくを忘れ脚はなはだ痛む。
八上王子跡
天仁二年(一一〇九)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月二十二日、 「田之部」(田辺市) 王子に奉幣後、萩生山口で昼食をとり、山を越えて新王子社 に参拝しています。この新王子社は地理的に見て、八上王子社だと推定され さいぎょう ます。西行が熊野参詣の途中に立寄り「待ちきつる八上の桜さきにけり 荒くおろすな三栖の山風」という歌を詠み、社殿に書き付けたことで知られる ていか 王子社です。
天仁二年(一一〇九)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月二十二日、 「田之部」(田辺市) 王子に奉幣後、萩生山口で昼食をとり、山を越えて新王子社 に参拝しています。この新王子社は地理的に見て、八上王子社だと推定され さいぎょう ます。西行が熊野参詣の途中に立寄り「待ちきつる八上の桜さきにけり 荒くおろすな三栖の山風」という歌を詠み、社殿に書き付けたことで知られる ていか 王子社です。
田中神社
この神社は昔、田中神社から6kmほど上流にある岡川八幡神社の上手の倉山という山から大水のときに森全体が流れ着いたのだと伝えられています。
森全体ではなく、御神体か社殿が流れ着いたのだろうという解釈もできるでしょうが、森全体が流されたとしたら、ものすごい大洪水です。
この神社は昔、田中神社から6kmほど上流にある岡川八幡神社の上手の倉山という山から大水のときに森全体が流れ着いたのだと伝えられています。
森全体ではなく、御神体か社殿が流れ着いたのだろうという解釈もできるでしょうが、森全体が流されたとしたら、ものすごい大洪水です。
稲葉根王子
稲葉根王子は熊野街道中辺路の重要な水垢離場とされた岩田川(富田川)の渡渉地点に近く、 熊野九十九王子の中でも社格の高い准五体王子でした。 この王子から川で水垢離を取り対岸の一ノ瀬王子へ渡ったと伝えられています。
稲葉根王子は熊野街道中辺路の重要な水垢離場とされた岩田川(富田川)の渡渉地点に近く、 熊野九十九王子の中でも社格の高い准五体王子でした。 この王子から川で水垢離を取り対岸の一ノ瀬王子へ渡ったと伝えられています。
水垢離場(令和5年4月9日から)
ここ岩田川(富田川)沿いに熊野参詣道
が通り、中世には熊野詣での水垢離場とし 重要な地であった。
この川で禊をすれば今までの罪がことご とく消え去ると信じられ、上皇や女院達も 徒歩で渡った。
ここ岩田川(富田川)沿いに熊野参詣道
が通り、中世には熊野詣での水垢離場とし 重要な地であった。
この川で禊をすれば今までの罪がことご とく消え去ると信じられ、上皇や女院達も 徒歩で渡った。
この歌碑は、二〇一八年に西行法師生誕九〇〇年を記念して建立されました。 この歌の意味は、
「岩田川の川岸に夕涼みしながら、今、君がいればよいがとしみじみ思われるよ」ということですが、詞書に
夏、熊野へまねりけるに岩田と申所に涼みて、下向しける人に つけて、京へ西佐上人のもとへつかはしける
と書かれています。
「岩田川の川岸に夕涼みしながら、今、君がいればよいがとしみじみ思われるよ」ということですが、詞書に
夏、熊野へまねりけるに岩田と申所に涼みて、下向しける人に つけて、京へ西佐上人のもとへつかはしける
と書かれています。
口熊野樟の大古木
この樟の大古木は、樹齢約五百年ともい われ、上流より流されて来て平成九年(一九 百余年ぶりに川底より姿を現わし、 平成十一年の南紀熊野体験博・中辺路いや しの広場モニュメントとして好評を博しま した。
この樟の大古木は、樹齢約五百年ともい われ、上流より流されて来て平成九年(一九 百余年ぶりに川底より姿を現わし、 平成十一年の南紀熊野体験博・中辺路いや しの広場モニュメントとして好評を博しま した。
一ノ瀬王子跡
一瀬王子は別名清水王子、伊野王子と呼ばれていました。建仁元年(1201年)の「熊野御幸記」に「一ノ瀬王子」と記されています。
一瀬王子の名は、熊野詣の垢離場であった一ノ瀬に由来します。「一ノ瀬」とは最初の徒渉地点の川瀬のことで、熊野に入るためのみそぎの地です。
一瀬王子は別名清水王子、伊野王子と呼ばれていました。建仁元年(1201年)の「熊野御幸記」に「一ノ瀬王子」と記されています。
一瀬王子の名は、熊野詣の垢離場であった一ノ瀬に由来します。「一ノ瀬」とは最初の徒渉地点の川瀬のことで、熊野に入るためのみそぎの地です。
鮎川王子跡
岩田川(現在の富田川)と愛賀川が合流するところにあったので、「アイカ」とは「愛賀」のこととも、川が合流する「合川」のことであったともいわれています。
明治7年に対岸の住吉神社に合祀され、本殿も移築されました。移築された本殿は、18世紀前期に建立され、古式をよく残しています。
岩田川(現在の富田川)と愛賀川が合流するところにあったので、「アイカ」とは「愛賀」のこととも、川が合流する「合川」のことであったともいわれています。
明治7年に対岸の住吉神社に合祀され、本殿も移築されました。移築された本殿は、18世紀前期に建立され、古式をよく残しています。
住吉神社
住吉神社は、 鮎川の産土神として崇められ、 1876(明治9)年に権現神社 (鮎川王 子社) 社殿を住吉神社に移築し、 合祀しました。 鮎川王子の社殿は、18世紀前期の造り 熊野本宮大社第三殿・ 第四殿と同形式で、 本宮とのつながりを示すと言われています。 1907(明治40)年に合祀された剣神社のご神体は劔で、 後醍醐天皇皇子尊雲法親 おおとうのみやもりながしんのう 王 (大塔宮護良親王)をお祀りしています。
住吉神社は、 鮎川の産土神として崇められ、 1876(明治9)年に権現神社 (鮎川王 子社) 社殿を住吉神社に移築し、 合祀しました。 鮎川王子の社殿は、18世紀前期の造り 熊野本宮大社第三殿・ 第四殿と同形式で、 本宮とのつながりを示すと言われています。 1907(明治40)年に合祀された剣神社のご神体は劔で、 後醍醐天皇皇子尊雲法親 おおとうのみやもりながしんのう 王 (大塔宮護良親王)をお祀りしています。
藤原定家の歌碑
1201 (建仁元)年、 後鳥羽上皇にお供した定家は、10月13日、田辺御所 からその日の宿所 滝尻に向かいました。 「鮎川王子から滝尻王子の間は、川に 写る紅葉がきれいだ。 次にごつごつして険しい山を登り滝尻に着く」 と書いてい ます。 その夜、滝尻の歌会で「そめし秋をくれぬとたれかいはた河またなみこゆ る山姫のそで」という歌を詠んでいます。
1201 (建仁元)年、 後鳥羽上皇にお供した定家は、10月13日、田辺御所 からその日の宿所 滝尻に向かいました。 「鮎川王子から滝尻王子の間は、川に 写る紅葉がきれいだ。 次にごつごつして険しい山を登り滝尻に着く」 と書いてい ます。 その夜、滝尻の歌会で「そめし秋をくれぬとたれかいはた河またなみこゆ る山姫のそで」という歌を詠んでいます。
庚申塔
庚申塔は、 道祖神と同じく疫病や災害から村を守る神として村の出入り口に建てられています。 庚申の日は夜明かしをする風習や、物を失くしたとき、 庚中を荒縄で縛ると失く した物が見つかると言われています。
庚申塔は、 道祖神と同じく疫病や災害から村を守る神として村の出入り口に建てられています。 庚申の日は夜明かしをする風習や、物を失くしたとき、 庚中を荒縄で縛ると失く した物が見つかると言われています。
念仏渕
後白河上皇はいつも頭痛に悩まされていました。 熊野に参ることで頭痛が治ると信じ、毎年熊野詣をしていましたが、ある時、 熊野権現が夢枕に表れ、「お前の前世の髑髏が 川の中に沈み、 柳の根が護に入り、水が流れるたびに柳の根を動かし、 髑髏が揺れる あじゃり から頭が痛むのだ」 とお告げがありました。 早速、 阿闍梨を呼び、念仏を唱え、髑髏を取 り出すと頭痛がすっかり良くなりました。
それ以来ここで念仏を唱えると、渕の底から念仏が聞こえるようになったと言われています。
後白河上皇はいつも頭痛に悩まされていました。 熊野に参ることで頭痛が治ると信じ、毎年熊野詣をしていましたが、ある時、 熊野権現が夢枕に表れ、「お前の前世の髑髏が 川の中に沈み、 柳の根が護に入り、水が流れるたびに柳の根を動かし、 髑髏が揺れる あじゃり から頭が痛むのだ」 とお告げがありました。 早速、 阿闍梨を呼び、念仏を唱え、髑髏を取 り出すと頭痛がすっかり良くなりました。
それ以来ここで念仏を唱えると、渕の底から念仏が聞こえるようになったと言われています。
新旧二体の庚申塔
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。
病魔・病鬼を払い除くといわれる青面金剛像や謹慎の態度を表すという三猿を彫ったものをよく見かけますが、文字だけを刻んだものや観音様やお地蔵様の姿のもの、さらには道しるべの標石を兼ねているものもあります。建造した年号・建立者の名前などが刻まれていて村の歴史やその土地の信仰、人々の生活、集落形成の様子などを知る貴重な資料となっています。
南無阿弥陀仏の碑
徳本上人は1758 (宝暦8)年、 和歌山県日高町に生まれ、27才で出家後、全国を あんぎゃ 行脚し、念仏を唱えて布教し人々を助けてまわりました。 このように全国に残された石碑 は千基を越え、疫病から免れると人々の信仰の対象になりました。
徳本上人は1758 (宝暦8)年、 和歌山県日高町に生まれ、27才で出家後、全国を あんぎゃ 行脚し、念仏を唱えて布教し人々を助けてまわりました。 このように全国に残された石碑 は千基を越え、疫病から免れると人々の信仰の対象になりました。
清姫の墓
歌舞伎や狂言で日本中にその名を知られるようになった、安珍清姫物語の女主人公 清 姫の墓所がここにあります。 大正時代までは、ここから300m上流の富田川右岸の森に 墓所がありましたが、 国道の拡幅等に伴い現在地に移されました。
清姫は夏になると、この森の下の渕で、丈なす黒髪をなびかせながら泳いでいたと伝えられ、 いつ頃からか 「清姫淵」 と呼ばれるようになりました。
歌舞伎や狂言で日本中にその名を知られるようになった、安珍清姫物語の女主人公 清 姫の墓所がここにあります。 大正時代までは、ここから300m上流の富田川右岸の森に 墓所がありましたが、 国道の拡幅等に伴い現在地に移されました。
清姫は夏になると、この森の下の渕で、丈なす黒髪をなびかせながら泳いでいたと伝えられ、 いつ頃からか 「清姫淵」 と呼ばれるようになりました。
中辺路町真砂(まなご)地区で、延暦19年(800)頃から住民の統率などを行っていた真砂一族。清姫は3代目・真砂庄司清重の娘だといわれ、近くの山中には清姫の生家があったと伝わる屋敷跡があり、現在は桜の木が植えられています。
滝尻王子は、熊野九十九王子社のうち五体王子社にも数えられ、中世に熊野御幸が盛んであった頃には、皇族貴族により奉幣や読経の他、法楽のための里神楽や歌会が盛大に催されました。
平安時代後期には藤原秀衡の寄進により四町歩(1万2千平方メートル)の境内に七堂伽藍が建立されていたといわれています。
平安時代後期には藤原秀衡の寄進により四町歩(1万2千平方メートル)の境内に七堂伽藍が建立されていたといわれています。
胎内くぐり
熊野への道が潮見峠超えに改まって、室町時代から、この剣ノ山 を登る熊野参詣者はなくなった。 しかし、土地の者は、春秋の彼岸 に滝尻王子社に参り、そこで竹杖を持って山路を登り、ここの岩穴 をくぐって、山の上にあった亀石という石塔に参ってきたといわれ る。この岩穴を抜けるのを胎内くぐりといい、女性がここをくぐれ ば、安産するという俗信がある。
熊野への道が潮見峠超えに改まって、室町時代から、この剣ノ山 を登る熊野参詣者はなくなった。 しかし、土地の者は、春秋の彼岸 に滝尻王子社に参り、そこで竹杖を持って山路を登り、ここの岩穴 をくぐって、山の上にあった亀石という石塔に参ってきたといわれ る。この岩穴を抜けるのを胎内くぐりといい、女性がここをくぐれ ば、安産するという俗信がある。
乳岩
むかし奥州の豪族藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来た時、ここ で夫人が急に産気づき、この岩屋で出産したという伝説がある。 夫 妻は赤子をここに残して熊野に向かったが、その子は、岩からした おおかみ たり落ちる乳を飲み、狼に守られて無事だったので、奥州へ連れ帰 ったと伝えられている。 その子が成長して、秀衡の三男の和泉三郎 ただひら 忠衡になったという話まである。
むかし奥州の豪族藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来た時、ここ で夫人が急に産気づき、この岩屋で出産したという伝説がある。 夫 妻は赤子をここに残して熊野に向かったが、その子は、岩からした おおかみ たり落ちる乳を飲み、狼に守られて無事だったので、奥州へ連れ帰 ったと伝えられている。 その子が成長して、秀衡の三男の和泉三郎 ただひら 忠衡になったという話まである。
不寝王子(ねずおおじ)
中世の記録には、この王子の名は登場しません。 王子の名が載せられているのは、江戸時代、元禄年間頃に著わされた『紀南郷導記』です。これには、ネジあるいはネズ王子と呼ばれる小社の跡があると記され、「不寝」の文字があてられています。この頃すでに跡地となっていたようで、またネズの語源も明らかではありません。
江戸時代後期の『紀伊続風土記』では、「不寝王子廃趾」となっており、今は滝尻王子社に合祀されていると記されています。
中世の記録には、この王子の名は登場しません。 王子の名が載せられているのは、江戸時代、元禄年間頃に著わされた『紀南郷導記』です。これには、ネジあるいはネズ王子と呼ばれる小社の跡があると記され、「不寝」の文字があてられています。この頃すでに跡地となっていたようで、またネズの語源も明らかではありません。
江戸時代後期の『紀伊続風土記』では、「不寝王子廃趾」となっており、今は滝尻王子社に合祀されていると記されています。
高原熊野神社
応永9(1402)年、熊野本宮から勧請したという。
社蔵の御正体銘は「応永十年卯月廿七」の勧請としている。
江戸時代、熊野権現という社名であったが、明治元年熊野神社と改め、明治6年4月村社になり、同40年4月、幣帛料供進社にも指定される。
昭和36年4月、本殿が県指定の有形文化財に指定される。
応永9(1402)年、熊野本宮から勧請したという。
社蔵の御正体銘は「応永十年卯月廿七」の勧請としている。
江戸時代、熊野権現という社名であったが、明治元年熊野神社と改め、明治6年4月村社になり、同40年4月、幣帛料供進社にも指定される。
昭和36年4月、本殿が県指定の有形文化財に指定される。
大門王子
この王子は、中世の記録には登場しません。王子の名の由来は、この付 近に熊野本宮の大鳥居があったことによるものと考えられます。鳥居の付 ねただ せいか 近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。
この王子は、中世の記録には登場しません。王子の名の由来は、この付 近に熊野本宮の大鳥居があったことによるものと考えられます。鳥居の付 ねただ せいか 近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。
十丈王子
十丈王子は、平安・鎌倉時代の日記では重點 王子(じゅうてんおうじ)と呼ばれていた。 重点 王子とも呼ばれていたらしい。
十丈王子の周囲は、 十丈峠であり、 以前は茶屋などを営む数件の民家があった。
明治時代には王子神社として祀られていた が、現在は下川春日神社に祀られている。
十丈王子は、平安・鎌倉時代の日記では重點 王子(じゅうてんおうじ)と呼ばれていた。 重点 王子とも呼ばれていたらしい。
十丈王子の周囲は、 十丈峠であり、 以前は茶屋などを営む数件の民家があった。
明治時代には王子神社として祀られていた が、現在は下川春日神社に祀られている。
小判地蔵
この小判地蔵は、飢えと疲労のために、小判をくわえたまま、こ こで倒れたという巡礼を弔って、まつられたものである。地蔵には 「道休禅定門」という戎名が彫りつけてあり、豊後国 (大分県) 有 馬郡の人であったことがわかる。 多分伊勢と熊野に参って紀三井寺 へ向かう途中、嘉永七年 (1854) 七月十八日に亡くなり、その 死を哀れんで、この地の愛洲氏が主になって、 地蔵を建てたのであ る。
この小判地蔵は、飢えと疲労のために、小判をくわえたまま、こ こで倒れたという巡礼を弔って、まつられたものである。地蔵には 「道休禅定門」という戎名が彫りつけてあり、豊後国 (大分県) 有 馬郡の人であったことがわかる。 多分伊勢と熊野に参って紀三井寺 へ向かう途中、嘉永七年 (1854) 七月十八日に亡くなり、その 死を哀れんで、この地の愛洲氏が主になって、 地蔵を建てたのであ る。
悪四郎屋敷跡
十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓智にたけて いたといわれる。 悪四郎の「悪」は、悪者のことではなく、勇猛で 強いというような意味である。 江戸時代の『熊野道中記』の一書に 十丈の項に 「昔十丈四郎と云者住し処なり」とあり、 それがここだ と見られている。 背後の山が悪四郎山 (782メートル)で、ここ から約三十分で山頂へ登ることができる。
十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓智にたけて いたといわれる。 悪四郎の「悪」は、悪者のことではなく、勇猛で 強いというような意味である。 江戸時代の『熊野道中記』の一書に 十丈の項に 「昔十丈四郎と云者住し処なり」とあり、 それがここだ と見られている。 背後の山が悪四郎山 (782メートル)で、ここ から約三十分で山頂へ登ることができる。
上多和茶屋跡
平成12年11月2日指定
この山上は、 上多和と呼び、 標高約600m。 熊野詣の盛んな頃は、 ここに茶店もあったといわれ、大正期にも人家があって林中には、 さんかいばんれいとう 三界万霊塔やお墓もある。
平成12年11月2日指定
この山上は、 上多和と呼び、 標高約600m。 熊野詣の盛んな頃は、 ここに茶店もあったといわれ、大正期にも人家があって林中には、 さんかいばんれいとう 三界万霊塔やお墓もある。
三体月伝説
この山上には陰暦の11月23日の夜になれば、東の空に三 体の月が現れるとの伝承があり、ここにあったしめ掛け松のもとに あわ きび 大勢集まり栗や黍の餅を供え、心経をくり、月の出を待ったという。 くまのごんげんすいじゃくん 「三体月は、「熊野権現垂迹縁起」の伝承の中にもみられる。
この山上には陰暦の11月23日の夜になれば、東の空に三 体の月が現れるとの伝承があり、ここにあったしめ掛け松のもとに あわ きび 大勢集まり栗や黍の餅を供え、心経をくり、月の出を待ったという。 くまのごんげんすいじゃくん 「三体月は、「熊野権現垂迹縁起」の伝承の中にもみられる。
大坂本王子跡
大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名が付いたよう です。天仁二年(一一〇九) 十月に熊野参詣をした藤原宗忠は、この 坂を「大坂」とし、 「坂中に蛇形の懸かった大樹がある。昔、女人が 化成したと伝えられる」と、日記に書いています。
大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名が付いたよう です。天仁二年(一一〇九) 十月に熊野参詣をした藤原宗忠は、この 坂を「大坂」とし、 「坂中に蛇形の懸かった大樹がある。昔、女人が 化成したと伝えられる」と、日記に書いています。
建仁元年(一二〇 一)に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、十月十四日にこの王 子に参拝しています。また、承元四年(一二一〇)に、後鳥羽上皇の 後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資も、四月三十日にこの王子 に参拝しています。江戸時代には「大坂王子」 「相坂王子」とも記さ れ、寛政十年(一七九八)ごろには小社がありました。現在、跡地に ある石造の笠塔婆は鎌倉時代後期のもので、滝尻王子(もとは剣ノ山 の上)や大門王子などにも同様のものがあります。
箸折峠の牛馬童子
箸折峠のこの丘は、花山法皇が御経を埋めた所と伝えられ、また お食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの 軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねら れたので、この土地が近露という地名になったという。 石仏の 牛馬童子は、花山法皇の旅姿だというようなことも言われ、その珍 しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名になった。 そばの石仏は役行者像である。
箸折峠のこの丘は、花山法皇が御経を埋めた所と伝えられ、また お食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの 軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねら れたので、この土地が近露という地名になったという。 石仏の 牛馬童子は、花山法皇の旅姿だというようなことも言われ、その珍 しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名になった。 そばの石仏は役行者像である。
現在の牛馬童子は田辺市教育委員会がレプリカを取付けました。Pic50枚で見つかりましたがすでに取り付けられたレプリカをきれいに外すことは技術的に困難だとして、レプリカが設置されたままになっています。
牛馬童子像の頭部が、 自然現象によりひびが入り破損していることが、 平成26年5月1日に分かり ました。
和歌山県田辺市の文化財担当者らで応急的に修 復していますが、 石材そのものが柔らかい砂岩でで きておりますので、手で触れるなど強い衝撃を与え ないでください。
どうか皆さん、往時の花山法皇の旅姿である牛馬 童子像を、 そっと見守ってあげてくださいますよう お願いします。
平成26年5月2日
田辺市 田辺市教育委員会
と書かれていますが何故本物が鮎川のバス停ベンチで見つかった事については書かれていない!
和歌山県田辺市の文化財担当者らで応急的に修 復していますが、 石材そのものが柔らかい砂岩でで きておりますので、手で触れるなど強い衝撃を与え ないでください。
どうか皆さん、往時の花山法皇の旅姿である牛馬 童子像を、 そっと見守ってあげてくださいますよう お願いします。
平成26年5月2日
田辺市 田辺市教育委員会
と書かれていますが何故本物が鮎川のバス停ベンチで見つかった事については書かれていない!
近露王子
永保元年(一〇八一)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯」の 湯屋に宿泊しています。 王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁二年(一一〇九) 十月二 十四日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。 このように、古 くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安四年(一一七四) に参詣した藤原経房の目記 以降は、「近湯」と書くようになります。 建仁元年(一二〇一) 十月、後鳥羽上皇の参詣 に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。
永保元年(一〇八一)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近湯」の 湯屋に宿泊しています。 王子社の初見は、藤原宗忠の日記、天仁二年(一一〇九) 十月二 十四日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉幣しています。 このように、古 くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安四年(一一七四) に参詣した藤原経房の目記 以降は、「近湯」と書くようになります。 建仁元年(一二〇一) 十月、後鳥羽上皇の参詣 に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。
比曽原王子跡
藤原宗忠が熊野に参詣した天仁二年(一一〇九)には、近露王子から中川王 子までの間に王子社は見られず、この王子はそれ以降に出現したとみられます。 建仁元年(一二〇一)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、近露王 子についで「ヒソ原」 王子に参拝しています。また、承元四年(一二〇四 月、修明門院に随行した藤原頼資も、近露王子についで「檜曾原」 王子に参拝 しています。
藤原宗忠が熊野に参詣した天仁二年(一一〇九)には、近露王子から中川王 子までの間に王子社は見られず、この王子はそれ以降に出現したとみられます。 建仁元年(一二〇一)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、近露王 子についで「ヒソ原」 王子に参拝しています。また、承元四年(一二〇四 月、修明門院に随行した藤原頼資も、近露王子についで「檜曾原」 王子に参拝 しています。
熊野古道 野中伝馬所跡
ここはテンマという屋号で呼ばれていた所で、江戸時代の野中伝馬所の跡である。 この伝馬所は、紀州藩が熊野街道に設けた 役所で、官吏の通行の便をはかり、公用の 文書や荷物を逓送するのが任務であった。
ここはテンマという屋号で呼ばれていた所で、江戸時代の野中伝馬所の跡である。 この伝馬所は、紀州藩が熊野街道に設けた 役所で、官吏の通行の便をはかり、公用の 文書や荷物を逓送するのが任務であった。
継桜王子
藤原宗忠は、天仁二年(一一〇九)十月に熊野に参詣した際、「道の左辺に続桜の樹あり、木は棺で、誠に希有なこと」と、日記に記しています。台木とした桜が成長していたも のとみられます。 建仁元年(一二〇一)十月に後鳥羽上皇に随行した藤原定家の日記、ある いは承元四年(一二一〇) 四月、修明門院に随行した藤原頼資の日記には、「続桜」王子と ありますので、鎌倉時代にはこのめずらしい木の傍らに王子が出現したようです。境内にある九本ほどの杉の大木は、 枝がすべて南向きに伸びているため、「一方杉」と呼ばれています。
藤原宗忠は、天仁二年(一一〇九)十月に熊野に参詣した際、「道の左辺に続桜の樹あり、木は棺で、誠に希有なこと」と、日記に記しています。台木とした桜が成長していたも のとみられます。 建仁元年(一二〇一)十月に後鳥羽上皇に随行した藤原定家の日記、ある いは承元四年(一二一〇) 四月、修明門院に随行した藤原頼資の日記には、「続桜」王子と ありますので、鎌倉時代にはこのめずらしい木の傍らに王子が出現したようです。境内にある九本ほどの杉の大木は、 枝がすべて南向きに伸びているため、「一方杉」と呼ばれています。
秀衡桜
つぎざくら 奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした際、滝尻の岩屋で出産し、 その子を残してここ野中まで来て、 杖にしていた桜の木を地につき さし、子の無事を願ったとされ、その木が成長したのが秀衡桜だと いわれている。
つぎざくら 奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした際、滝尻の岩屋で出産し、 その子を残してここ野中まで来て、 杖にしていた桜の木を地につき さし、子の無事を願ったとされ、その木が成長したのが秀衡桜だと いわれている。
安倍晴明の腰かけ石
ここにある上部の平たい石は、 安倍晴明の腰かけ石といわれるものである。 平安時代の陰陽道の大家安倍晴明が熊野をめぐる途中で この石に腰をおろして休んでいた。 その時、上方の山が急に崩れそうになったが、 晴明は得意の呪術 (まじない)によって、崩壊を未 然に防いだと伝えられている。
ここにある上部の平たい石は、 安倍晴明の腰かけ石といわれるものである。 平安時代の陰陽道の大家安倍晴明が熊野をめぐる途中で この石に腰をおろして休んでいた。 その時、上方の山が急に崩れそうになったが、 晴明は得意の呪術 (まじない)によって、崩壊を未 然に防いだと伝えられている。
中川王子跡
旧国道から少し上がった林の中に、緑泥片岩の石碑がひっそりと立っています。
比較的早く設けられた王子で、中右記に「仲野川王子に参る」とあります。後鳥羽院御幸記では「中の河」となっており、修明門院御幸記には「中川」と出ています。緑泥片岩の石碑には「中川王子」とあります。
旧国道から少し上がった林の中に、緑泥片岩の石碑がひっそりと立っています。
比較的早く設けられた王子で、中右記に「仲野川王子に参る」とあります。後鳥羽院御幸記では「中の河」となっており、修明門院御幸記には「中川」と出ています。緑泥片岩の石碑には「中川王子」とあります。
熊瀬川王子跡
熊瀬川の地名は、承元四年(11110 ) 修明門院の熊野参詣に 随行した藤原頼資の日記の五月一日条が初見のようです。この日一 行は、近露王子を出発し、熊瀬川で昼食をとり、本宮まで行ってい ます。寛喜元年(一二二九)の頼資自身の参詣では、十一月五日、 同じく近露を出発して、熊瀬川で昼食をし、湯川で宿泊しています。
熊瀬川の地名は、承元四年(11110 ) 修明門院の熊野参詣に 随行した藤原頼資の日記の五月一日条が初見のようです。この日一 行は、近露王子を出発し、熊瀬川で昼食をとり、本宮まで行ってい ます。寛喜元年(一二二九)の頼資自身の参詣では、十一月五日、 同じく近露を出発して、熊瀬川で昼食をし、湯川で宿泊しています。
草鞋峠
ここ草鞋峠 (標高592m) は、 西に小広峠、東に岩神峠をひかえ、 谷川を渡っては上り下りする相次ぐ峠の一つである。 平安・鎌倉時 代に、小平尾 (小広峠)に接して、 大平尾と称されたのが、この峠かとみられる。
江戸時代には、草鞋峠という名称のほか、この峠の西側の坂は、「ひるふり 熊瀬坂、東側の坂は女坂とも呼ばれた。 この付近の山道は、蛭降峠 百八丁といわれ、山ビルに悩まされた所だという。
ここ草鞋峠 (標高592m) は、 西に小広峠、東に岩神峠をひかえ、 谷川を渡っては上り下りする相次ぐ峠の一つである。 平安・鎌倉時 代に、小平尾 (小広峠)に接して、 大平尾と称されたのが、この峠かとみられる。
江戸時代には、草鞋峠という名称のほか、この峠の西側の坂は、「ひるふり 熊瀬坂、東側の坂は女坂とも呼ばれた。 この付近の山道は、蛭降峠 百八丁といわれ、山ビルに悩まされた所だという。
蛇形地蔵
この付近で出土した海藻の化石が蛇の鱗のように見えることから 「蛇形石」と名づけられ、それを背において祀られているこの地蔵尊は「蛇形の地蔵さん」とも呼ばれ、明治22年の大水害以前は旧岩 神峠にあったという。
言い伝えによれば、熊野を往来する人々がよ くこの峠で「ダル」 という妖怪にとりつかれて倒れる遭難が相次いだため、寛政年代に岩神峠にこの地蔵尊を建てて旅人の遭難を防い だという。
この付近で出土した海藻の化石が蛇の鱗のように見えることから 「蛇形石」と名づけられ、それを背において祀られているこの地蔵尊は「蛇形の地蔵さん」とも呼ばれ、明治22年の大水害以前は旧岩 神峠にあったという。
言い伝えによれば、熊野を往来する人々がよ くこの峠で「ダル」 という妖怪にとりつかれて倒れる遭難が相次いだため、寛政年代に岩神峠にこの地蔵尊を建てて旅人の遭難を防い だという。
道湯川集落跡
道湯川集落は、室町時(1336~1573) に日高郡に勢力を誇った湯川氏一族発祥の集落として知られる。 この集落は、 建仁元年(1201) 10月に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に「湯河宿所」とみえ、 承元(4年1210)5月に修明門院 の参詣に随行した藤原頼資の日記には、この周辺で休憩をとるなどしたことが記されている。 また、応永34年(1427)9月に足 利義満の側室 北野殿が参詣した折には、 「奥の湯川」 を称する豪族が歓待したと記されるなど、少なくとも鎌倉時代(1185~ 1333)には人々が住み、 室町時代を通じて貴族らの宿場や休憩所として繁栄していたことがうかがえる。
道湯川集落は、室町時(1336~1573) に日高郡に勢力を誇った湯川氏一族発祥の集落として知られる。 この集落は、 建仁元年(1201) 10月に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に「湯河宿所」とみえ、 承元(4年1210)5月に修明門院 の参詣に随行した藤原頼資の日記には、この周辺で休憩をとるなどしたことが記されている。 また、応永34年(1427)9月に足 利義満の側室 北野殿が参詣した折には、 「奥の湯川」 を称する豪族が歓待したと記されるなど、少なくとも鎌倉時代(1185~ 1333)には人々が住み、 室町時代を通じて貴族らの宿場や休憩所として繁栄していたことがうかがえる。
湯川王子
この地は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に勢力をふるった湯 川氏の発祥の地と伝えられ、応永三十四年(一四二七) 九月に足利義満の側室・北野殿が参 詣した際には、奥の湯川を称する豪族が兵士を従えて接待しています。 江戸時代には、本宮 湯川(下湯川村)と区別するために、道湯川村と呼ばれ、王子は若一王子社と称しまし た。明治時代には王子神社となりましたが、末期には社を残して、約十二キロ離れた近の 金比羅神社(現 近野神社に合祀されました。 もともと山中の小村でしたが、昭和三十二 年(一九五六) 無人の地になりました。
この地は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に勢力をふるった湯 川氏の発祥の地と伝えられ、応永三十四年(一四二七) 九月に足利義満の側室・北野殿が参 詣した際には、奥の湯川を称する豪族が兵士を従えて接待しています。 江戸時代には、本宮 湯川(下湯川村)と区別するために、道湯川村と呼ばれ、王子は若一王子社と称しまし た。明治時代には王子神社となりましたが、末期には社を残して、約十二キロ離れた近の 金比羅神社(現 近野神社に合祀されました。 もともと山中の小村でしたが、昭和三十二 年(一九五六) 無人の地になりました。
道の川集落跡
道の川集落は、 本宮町(現田辺市本宮町) 三越に所在した集落であったが、 昭和45年(1970) 4月24日に公布された 「過疎地域対策緊急措置法」 を契機に、昭和48年(1973)に集団移転 し、廃村となった。この集落は、南向きの斜面地に位置しており、南に音無川、東西両側に 沢が流れ、 集落内を熊野古道が通る。 集落について書かれた最も古い史料は、天保11年 (1840) に書かれた長澤伴雄の 『湯峯温泉の日記』 であり、 集落内で江戸時代後期 (1750頃~ 1867) の瀬戸焼や肥前系陶磁器が採集されたことから、この時期には人々が既に生活してい たと考えられる。
道の川集落は、 本宮町(現田辺市本宮町) 三越に所在した集落であったが、 昭和45年(1970) 4月24日に公布された 「過疎地域対策緊急措置法」 を契機に、昭和48年(1973)に集団移転 し、廃村となった。この集落は、南向きの斜面地に位置しており、南に音無川、東西両側に 沢が流れ、 集落内を熊野古道が通る。 集落について書かれた最も古い史料は、天保11年 (1840) に書かれた長澤伴雄の 『湯峯温泉の日記』 であり、 集落内で江戸時代後期 (1750頃~ 1867) の瀬戸焼や肥前系陶磁器が採集されたことから、この時期には人々が既に生活してい たと考えられる。
猪鼻王子跡
滝尻王子から本格的な山岳路となった熊野参詣道 (中辺路)は、 十丈峠、 岩神峠を過ぎ、 標高約500mの三越峠を越えると、 熊野 川の流域に入る。
「猪鼻王子」 と刻んだ石碑は、享保八年(1723) 紀州藩が熊野 御幸の史蹟顕彰のために建てたもので、紀北産の緑泥片岩製である。
滝尻王子から本格的な山岳路となった熊野参詣道 (中辺路)は、 十丈峠、 岩神峠を過ぎ、 標高約500mの三越峠を越えると、 熊野 川の流域に入る。
「猪鼻王子」 と刻んだ石碑は、享保八年(1723) 紀州藩が熊野 御幸の史蹟顕彰のために建てたもので、紀北産の緑泥片岩製である。
発心門王子跡
熊野川の中州に鎮座する熊野本宮まで約7kmの所にあるこの王子の名は、 発心門すなわち「悟りの心を開く入り口」 とされる大鳥居があったことに由 さと ほっしんちん 来する。
天仁二年 (1109) に参詣した貴族・藤原宗忠(1062~1141) は、まず門前で祓いをし、 発心門は大鳥居であり、参詣の人々は必ずこの大 鳥居をくぐること、 また、はるかに見遣ると恐れを感じることを日記に書き 残している。
熊野川の中州に鎮座する熊野本宮まで約7kmの所にあるこの王子の名は、 発心門すなわち「悟りの心を開く入り口」 とされる大鳥居があったことに由 さと ほっしんちん 来する。
天仁二年 (1109) に参詣した貴族・藤原宗忠(1062~1141) は、まず門前で祓いをし、 発心門は大鳥居であり、参詣の人々は必ずこの大 鳥居をくぐること、 また、はるかに見遣ると恐れを感じることを日記に書き 残している。
水?王子跡
貴族 藤原宗忠 (1062~1141) の天仁二年(1109) の参詣日記には 「内水飲王子」、「新王子」 とある。
この 「内水飲」とは、二日前に宿泊した「水飲仮屋」に対して 発心門の内すなわち本宮寄りにあることを意味している。 また、 「新 「王子」 とは文字通り新たに設けられた王子の意味であるが、これはほとんどの王子社が以前から祀られていたことを証している。
貴族 藤原宗忠 (1062~1141) の天仁二年(1109) の参詣日記には 「内水飲王子」、「新王子」 とある。
この 「内水飲」とは、二日前に宿泊した「水飲仮屋」に対して 発心門の内すなわち本宮寄りにあることを意味している。 また、 「新 「王子」 とは文字通り新たに設けられた王子の意味であるが、これはほとんどの王子社が以前から祀られていたことを証している。
伏拝王子跡
京都を出発した熊野参詣の人々は、およそ260km、 歩行12日前後でこのあた りにたどり着いた。 そして、熊野三山巡拝の最初の目的地である本宮が、 遙か彼 芳の熊野川の中州に鎮座する光景を目の辺りにして、感動のあまり 「伏して拝ん だ」という。
また、この王子には、 熊野本宮を目前にしてにわかに月の障りとなり、参拝を 断念しようとした女流歌人・和泉式部を、熊野権現が快く受け容れたという伝説もある。
京都を出発した熊野参詣の人々は、およそ260km、 歩行12日前後でこのあた りにたどり着いた。 そして、熊野三山巡拝の最初の目的地である本宮が、 遙か彼 芳の熊野川の中州に鎮座する光景を目の辺りにして、感動のあまり 「伏して拝ん だ」という。
また、この王子には、 熊野本宮を目前にしてにわかに月の障りとなり、参拝を 断念しようとした女流歌人・和泉式部を、熊野権現が快く受け容れたという伝説もある。
祓殿王子跡
前世と現世に心身に積もった汚れを祓い清め、日本第一の霊験をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、 祈願し、生命力を蘇らせることを目 みそ 的とする熊野参詣では、禊ぎや祓いが重視された。
前世と現世に心身に積もった汚れを祓い清め、日本第一の霊験をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、 祈願し、生命力を蘇らせることを目 みそ 的とする熊野参詣では、禊ぎや祓いが重視された。
世界遺産 熊野古道館の駐車場入口には
日本スペイン交流400周年記念 熊野古道 - サンティアゴ巡礼の道 姉妹道提携
和歌山県とスペイン国ガリシア州は、それぞれの聖地 「熊野三 山」と「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」に通じる「熊野古道」 と「サンティアゴ巡礼の道」 に共通する崇高な価値を認め合い、 1998年10月9日に「姉妹道提携」を締結しました。
日本スペイン交流400周年記念 熊野古道 - サンティアゴ巡礼の道 姉妹道提携
和歌山県とスペイン国ガリシア州は、それぞれの聖地 「熊野三 山」と「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」に通じる「熊野古道」 と「サンティアゴ巡礼の道」 に共通する崇高な価値を認め合い、 1998年10月9日に「姉妹道提携」を締結しました。
感想
歴史街道の熊野古道中辺路ルート
史跡多数過ぎて写真が多すぎ🤣
実家近くなので地元ネタも少し入れていますがご愛嬌でお願いします😜
自宅から田辺駅スタートで本宮大社ゴールでバスで田辺駅までも考えていましたが帰りのバスが16時44分が最終なので時間に追われるのが嫌なので本宮大社へ車で行ってバスで田辺駅のスタート地へ戻る事にしました。
ぶちゃけ歩けない距離と工程ではありましたが1泊2日の滝尻王子〜本宮大社が楽しめるコースですね!
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コメント
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地元感出てる😄
母校も通ったのね^_^
朝ドラ、今回の「らんまん(牧野富太郎)」見たら、熊楠もやってほしいと思ったな。
途中で購入の赤いアレって?と思ったら、色の薄いやつ♪一人で空けたの🤭
田辺からの中辺路を2日。
足が早いからできるんですね、凄いなあ!
お疲れさまでした。
こんにちは
コメントありがとうございます😊
地元も地元!
実家近くも歩いてましたからね笑笑
赤いアレなんですが普通のが売切れていたので薄いのを買いました。アルコール度数も低いので朝になったら消えていましたよ🤗
荷物を限り無く軽くして水は高原の自販機で購入するまで行動用の飲み物しか持ってなかったんですよ😁?️
靴はトレランシューズでソールが厚めなので舗装路に合わせた歩き方で歩いていました😊
低いと消えるのね?
摩訶不思議🤔
トレランシューズはソールが厚めなんですか?舗装路ありの古道歩き向き?
気になるけどなかなか買えず、なんです。
そうなんですよ!
摩訶不思議な出来事なのでまた検証実験しないといけませんね🤣
私が履いているのはソール厚めで舗装路や古道歩くのに向いていますが半年〜1年程でダメになっちゃうのでコスパは悪いですね😅
そっかー、いつもありがとうm(_ _)m
今回も気合いの入ったレコですねー。
全部読むのしんどかったわ😅
これで熊野古道の覇者の仲間入りですか?
祝杯をあげないといけませんね😜
こんにちは
コメントありがとうございます😊
情報量多過ぎでしょう😅
とにかく史跡が多過ぎたおかげで編集も大変でした😰
熊野古道の覇者を名乗るには小辺路と紀伊路と奥辺路を歩かないといけませんね💦
こんばんは♪
以前歩いたので、懐かしく見させてもらいました🤗
私もまた歩きたくなってきた😅
所で、旧高尾トンネル 30年ぐらい前、バイク地図のツーリングマップルに、西日本一不気味なトンネルと案内されていたので、気になり🏍走ったことありますよ!
で、感想ですが…
トンネル内でずぶ濡れになるし、落石?でハンドルとられ、真ん中の側溝にハマりそうになるし😱で、二度と通りたくないトンネルと思いましたね😅
おはようございます☀️
コメントありがとうございます😊
ホント旧高尾トンネルはいつでも土砂降り☔ですもんね😅
ツーリングマップルもすごい所を紹介していたんですね!
あのトンネルは車限定ですよね🤣
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