浅草寺雷門から出発
0
2/17 12:44
浅草寺雷門から出発
駒形橋西詰に建つ浅草寺駒形堂。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩がこの地に上陸され、草堂に祀られたという浅草寺発祥の霊地に建つお堂です
0
2/17 13:04
駒形橋西詰に建つ浅草寺駒形堂。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩がこの地に上陸され、草堂に祀られたという浅草寺発祥の霊地に建つお堂です
境内に付近の魚類の殺生を禁じた「浅草観音戒殺碑」がある。元禄6年(1693)3月建立、隅田川の南は諏訪町より北は聖天町までの漁を禁じたとか
0
2/17 13:05
境内に付近の魚類の殺生を禁じた「浅草観音戒殺碑」がある。元禄6年(1693)3月建立、隅田川の南は諏訪町より北は聖天町までの漁を禁じたとか
厩橋の交差点を過ぎ、1本西側の道に入ると蔵前神社がある。5代将軍綱吉公が元禄6年(1693)に京都男山にある石清水八幡宮を勧請したのが始まりとか
0
2/17 13:21
厩橋の交差点を過ぎ、1本西側の道に入ると蔵前神社がある。5代将軍綱吉公が元禄6年(1693)に京都男山にある石清水八幡宮を勧請したのが始まりとか
蔵前神社は近年はミモザの名所としても有名なようだ。当日はほぼ満開といった感じで、きれいな黄色の花を風に揺らしていた
0
2/17 13:22
蔵前神社は近年はミモザの名所としても有名なようだ。当日はほぼ満開といった感じで、きれいな黄色の花を風に揺らしていた
蔵前橋の西詰は「浅草御蔵跡」。浅草御蔵は江戸幕府が全国に散在する天領からの年貢米や買い上げ米などを収納・保管した江戸最大の米蔵。蔵前の地名の由来
0
2/17 13:35
蔵前橋の西詰は「浅草御蔵跡」。浅草御蔵は江戸幕府が全国に散在する天領からの年貢米や買い上げ米などを収納・保管した江戸最大の米蔵。蔵前の地名の由来
街道に戻りさらに西へ進むと鳥越神社。白雉2年(651)日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされる。鳥居前の橋は白鳥橋
0
2/17 13:48
街道に戻りさらに西へ進むと鳥越神社。白雉2年(651)日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされる。鳥居前の橋は白鳥橋
前九年の役のおり、この地を通った源義家は白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り、隅田川を渡ることができた。それを白鳥明神の加護と称え、鳥越大明神と改めたとか
0
2/17 13:49
前九年の役のおり、この地を通った源義家は白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り、隅田川を渡ることができた。それを白鳥明神の加護と称え、鳥越大明神と改めたとか
街道に戻り、須賀橋交番前の交差点を東に入ると第六天榊神社。景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したという
0
2/17 14:02
街道に戻り、須賀橋交番前の交差点を東に入ると第六天榊神社。景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したという
境内に建つ浅草文庫跡碑。明治7年(1874)に創設された官立の図書館で、蔵書数は和・漢・洋の11万〜13万冊といわれ、明治14年に封鎖されたそうです
0
2/17 14:05
境内に建つ浅草文庫跡碑。明治7年(1874)に創設された官立の図書館で、蔵書数は和・漢・洋の11万〜13万冊といわれ、明治14年に封鎖されたそうです
街道に戻り南に下るとすぐに須賀神社。推古天皇9年(600)に創建され、江戸時代は牛頭天王社や祇園社、蔵前天王社、団子天王社など、様々な名称があったとか
0
2/17 14:11
街道に戻り南に下るとすぐに須賀神社。推古天皇9年(600)に創建され、江戸時代は牛頭天王社や祇園社、蔵前天王社、団子天王社など、様々な名称があったとか
さらに数分下った西側の路地奥に銀杏岡八幡神社。康平5年(1062)創建。源義家が八幡神を勧請したのが起源とされる
0
2/17 14:16
さらに数分下った西側の路地奥に銀杏岡八幡神社。康平5年(1062)創建。源義家が八幡神を勧請したのが起源とされる
源義家が前九年の役で出征の途上、ここで休憩していると川上から銀杏の枝が流れ着き、その枝を丘にさして戦勝祈願したところ、勝利を得られたという
0
2/17 14:17
源義家が前九年の役で出征の途上、ここで休憩していると川上から銀杏の枝が流れ着き、その枝を丘にさして戦勝祈願したところ、勝利を得られたという
神田川にかかる浅草橋の北詰は浅草見附跡。寛永13年(1636)に奥州路、浅草観音、新吉原への重要な道筋に作られた浅草橋の浅草御門跡だ
0
2/17 14:22
神田川にかかる浅草橋の北詰は浅草見附跡。寛永13年(1636)に奥州路、浅草観音、新吉原への重要な道筋に作られた浅草橋の浅草御門跡だ
明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになったとか。今も神田川にはカラフルな屋形船が並んでいる
0
2/17 14:23
明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになったとか。今も神田川にはカラフルな屋形船が並んでいる
浅草橋南詰は郡代屋敷跡。江戸時代、主に関東の幕府直轄領の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です
0
2/17 14:24
浅草橋南詰は郡代屋敷跡。江戸時代、主に関東の幕府直轄領の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です
変則の浅草橋交差点を地下道で抜けて、旧日光街道の横山町問屋街に入ります
0
2/17 14:29
変則の浅草橋交差点を地下道で抜けて、旧日光街道の横山町問屋街に入ります
人形町通りの交差点を北へ。小伝馬町交差点の先を西に入ると大安楽寺境内の「江戸伝馬町処刑場跡」の碑が目をひく。かつては一帯が伝馬町牢屋敷だったという
0
2/17 14:48
人形町通りの交差点を北へ。小伝馬町交差点の先を西に入ると大安楽寺境内の「江戸伝馬町処刑場跡」の碑が目をひく。かつては一帯が伝馬町牢屋敷だったという
牢屋敷は明治8年(1875)5月に市ヶ谷に移転。その後、処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと大安楽寺が創建されたそうだ
0
2/17 14:49
牢屋敷は明治8年(1875)5月に市ヶ谷に移転。その後、処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと大安楽寺が創建されたそうだ
隣接する十思公園の一角には「松陰先生終焉の地」の碑が。吉田松陰は、安政6年(1859)の安政の大獄で伝馬町牢屋敷に投獄され、ここで斬首刑に処されました
0
2/17 14:49
隣接する十思公園の一角には「松陰先生終焉の地」の碑が。吉田松陰は、安政6年(1859)の安政の大獄で伝馬町牢屋敷に投獄され、ここで斬首刑に処されました
公園西側の十思スクエア横には、平成24年の発掘調査で発見された牢屋敷の石垣を見ることができます
0
2/17 14:51
公園西側の十思スクエア横には、平成24年の発掘調査で発見された牢屋敷の石垣を見ることができます
大安楽寺の西側には身延別院。その名のとおり、身延山久遠寺の別院で、明治16年(1883)大安楽寺同様に牢屋敷の獄死者や処刑者の菩提を弔うべく創建された
0
2/17 14:53
大安楽寺の西側には身延別院。その名のとおり、身延山久遠寺の別院で、明治16年(1883)大安楽寺同様に牢屋敷の獄死者や処刑者の菩提を弔うべく創建された
街道に戻り、一本北側の道にある宝田恵比寿神社に立寄り。江戸城拡充の際に皇居外苑にあったものを住民共々ここに移転したもの。現在はべったら市で知られる
0
2/17 15:02
街道に戻り、一本北側の道にある宝田恵比寿神社に立寄り。江戸城拡充の際に皇居外苑にあったものを住民共々ここに移転したもの。現在はべったら市で知られる
街道に戻ると南側に「本町薬問屋発祥の町」碑。この周辺には江戸時代初期から薬種問屋が集まり、昭和4年(1929)には組合事務所屋上に薬祖神社も造営された
0
2/17 15:11
街道に戻ると南側に「本町薬問屋発祥の町」碑。この周辺には江戸時代初期から薬種問屋が集まり、昭和4年(1929)には組合事務所屋上に薬祖神社も造営された
昭和通りを地下道で渡り、コレド室町北側の福徳神社へ。貞観年間(859〜876)には既に鎮座していたいわれ、平成28年(2016)には薬祖神社が遷座されている
0
2/17 15:13
昭和通りを地下道で渡り、コレド室町北側の福徳神社へ。貞観年間(859〜876)には既に鎮座していたいわれ、平成28年(2016)には薬祖神社が遷座されている
街道は中央通りを越えて、日本銀行本店に突き当たる。この地は金貨を鋳造する金座の長を代々務めた後藤家の屋敷で、この本館は明治29年(1896)2月竣工
0
2/17 15:18
街道は中央通りを越えて、日本銀行本店に突き当たる。この地は金貨を鋳造する金座の長を代々務めた後藤家の屋敷で、この本館は明治29年(1896)2月竣工
日本銀行を時計回りに半周して常盤橋の交差点へ。
0
2/17 15:23
日本銀行を時計回りに半周して常盤橋の交差点へ。
横断歩道を渡り、川沿いを北方向に進むと19世紀の石橋を復元したという常磐橋。先ほどの常盤橋とは字が違う。「皿」は割れるが「石」は丈夫ということらしい
0
2/17 15:26
横断歩道を渡り、川沿いを北方向に進むと19世紀の石橋を復元したという常磐橋。先ほどの常盤橋とは字が違う。「皿」は割れるが「石」は丈夫ということらしい
橋を渡ると常盤橋門跡の石垣が残っています。江戸城枡形門の一つで寛永6年(1629)に築かれたもの。大手口とも呼ばれ、奥州道に通じる警備上重要な場所でした
0
2/17 15:27
橋を渡ると常盤橋門跡の石垣が残っています。江戸城枡形門の一つで寛永6年(1629)に築かれたもの。大手口とも呼ばれ、奥州道に通じる警備上重要な場所でした
常盤橋西詰には渋沢栄一の像がある。なぜここに建つのかは諸説あるようだが、関東大震災で大きな被害を受けた常磐橋の復興事業に尽力したのも渋沢栄一とか
0
2/17 15:29
常盤橋西詰には渋沢栄一の像がある。なぜここに建つのかは諸説あるようだが、関東大震災で大きな被害を受けた常磐橋の復興事業に尽力したのも渋沢栄一とか
常盤橋の下流に架かる一石橋南詰には「一石橋迷子しらせ石標」。安政4年(1857)の迷子探しの告知石で碑の側面に迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼っていた
0
2/17 15:33
常盤橋の下流に架かる一石橋南詰には「一石橋迷子しらせ石標」。安政4年(1857)の迷子探しの告知石で碑の側面に迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼っていた
渋沢栄一像から道を挟んで「銭瓶橋跡」の説明板がありました。この辺りは輸送用の水路や堀がが交差する場所だったようですね
0
2/17 15:36
渋沢栄一像から道を挟んで「銭瓶橋跡」の説明板がありました。この辺りは輸送用の水路や堀がが交差する場所だったようですね
常盤橋から西に進み、読売新聞本社に差し掛かると箱根駅伝のゴール地点に「絆」の像があります。その横には 歴代優勝校が刻まれた銘板も設置されていました
0
2/17 15:46
常盤橋から西に進み、読売新聞本社に差し掛かると箱根駅伝のゴール地点に「絆」の像があります。その横には 歴代優勝校が刻まれた銘板も設置されていました
ゴールの瞬間に目にする光景ですが、思ったより道が狭いという人、広いという人。印象は様々でした
0
2/17 15:46
ゴールの瞬間に目にする光景ですが、思ったより道が狭いという人、広いという人。印象は様々でした
Otemachi Oneを過ぎると平将門の首を祀る立派な「将門塚」が。大手町再開発事業により時代にふさわしい新しい将門塚として令和3年に整備されたものです
0
2/17 15:52
Otemachi Oneを過ぎると平将門の首を祀る立派な「将門塚」が。大手町再開発事業により時代にふさわしい新しい将門塚として令和3年に整備されたものです
街道は内堀通りに突当り、南に向きを変える。すぐ先には大手門が
0
2/17 15:58
街道は内堀通りに突当り、南に向きを変える。すぐ先には大手門が
皇居を巡るランナー達とすれ違いながら皇居外苑を南へ。祝田橋北詰の石垣横には「江戸城跡」の説明板もあります
0
2/17 16:15
皇居を巡るランナー達とすれ違いながら皇居外苑を南へ。祝田橋北詰の石垣横には「江戸城跡」の説明板もあります
祝田橋交差点からは、ビルの合間に東京タワーが見えます
0
2/17 16:17
祝田橋交差点からは、ビルの合間に東京タワーが見えます
日比谷公園に入り、有楽門に向かうと「伊達政宗終焉の地」説明板。ここは仙台藩外桜田上屋敷があった所で、寛永13年(1636)5月、伊達政宗はここで亡くなったとか
0
2/17 16:24
日比谷公園に入り、有楽門に向かうと「伊達政宗終焉の地」説明板。ここは仙台藩外桜田上屋敷があった所で、寛永13年(1636)5月、伊達政宗はここで亡くなったとか
その先には心字池。以前は濠となっていたものを公園造成時の面影を偲び、池としたそうです
0
2/17 16:24
その先には心字池。以前は濠となっていたものを公園造成時の面影を偲び、池としたそうです
心字池横の石垣は日比谷御門の一部で、ここには日比谷見附が置かれていたという
0
2/17 16:25
心字池横の石垣は日比谷御門の一部で、ここには日比谷見附が置かれていたという
日比谷公園の梅はちょうど見頃でした
0
2/17 16:30
日比谷公園の梅はちょうど見頃でした
街道に戻り、愛宕下通りを南下。大きな赤鳥居をくぐり、出世の石段を上って愛宕神社に参拝。石段は86段、傾斜角度は40度という
0
2/17 16:54
街道に戻り、愛宕下通りを南下。大きな赤鳥居をくぐり、出世の石段を上って愛宕神社に参拝。石段は86段、傾斜角度は40度という
愛宕神社は、徳川家康の命により防火の神様として慶長8年(1603)に創建。愛宕神社の建つ愛宕山は標高25.7mで、自然の山としては東京23区の最高峰
0
2/17 16:56
愛宕神社は、徳川家康の命により防火の神様として慶長8年(1603)に創建。愛宕神社の建つ愛宕山は標高25.7mで、自然の山としては東京23区の最高峰
愛宕神社のすぐ先、立派な山門は青松寺。太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建。当初は麹町付近にあったが、江戸城拡張の際にここに移転した
0
2/17 17:06
愛宕神社のすぐ先、立派な山門は青松寺。太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明8年(1476年)に創建。当初は麹町付近にあったが、江戸城拡張の際にここに移転した
街道は芝公園に入り、東京プリンスホテル裏手の東京タワーも間近い
0
2/17 17:12
街道は芝公園に入り、東京プリンスホテル裏手の東京タワーも間近い
芝公園18号地児童公園の「長柏園跡」碑脇の桜が見頃。長柏園は近代造園界の先駆者の長岡安平翁の邸であった
0
2/17 17:20
芝公園18号地児童公園の「長柏園跡」碑脇の桜が見頃。長柏園は近代造園界の先駆者の長岡安平翁の邸であった
東京タワー前の坂を下り、赤羽橋で今日の旅を終わります
0
2/17 17:22
東京タワー前の坂を下り、赤羽橋で今日の旅を終わります
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する