記録ID: 7690813
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ハイキング
京都・北摂
ちょこっと 三十三間堂(楊枝のお加持)〜法住寺〜豊国神社(方広寺大仏殿跡)〜千定寺(烏寺)・・・京都ホテルの銅像(前田又吉、伊藤博文、桂小五郎)
2025年01月12日(日) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 00:31
- 距離
- 1.5km
- 登り
- 1m
- 下り
- 9m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年01月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
三十三間堂(蓮華王院)
(東山区三十三間堂廻り町)
◆本尊千手観音
正式には蓮華王院。
通称の三十三間堂は本堂の母屋正面の柱間の数が三十三あることに由来する。洛陽三十三所観音霊場第十七番札所。
長寛二年(一一六四)に後自河上皇の勅願によって創建。
豊臣秀吉が方広寺を創建した天正十四年(一五八六)には、その千手堂となったが、秀吉没後には方広寺とともに天台宗の妙法院(↓92頁)の管理下に置かれた。
楊枝のお加持、三十三間堂通し矢は一月十五日に近い日曜に行う。
現在の本堂(国宝)は、文永三年(一二六六)の再建で、京都における鎌倉時代和様の代表的遺構。
湛慶の手になる千手観音坐像(国宝)を中央に、南北約百二十メートルに及ぶ伽藍内に、等身大の木造千手観音立像(重要文化財)が立ち並ぶ光景は圧巻。
(*千手観音立像は国宝になりました)
二十八部衆立像、風神・雷神像(すべて国宝)が千手観音に従っている。
他に桃山時代の建築で、南大門、築地塀(太閤塀)(ともに重要文化財)がある。
↓洛陽三十三所観音霊場103頁、国宝建築183頁、本堂(寺院の建築)184頁、千手観音坐像・二十八部衆像・風神雷神像(京都の彫刻)222頁、楊枝のお加持285頁
(京都検定テキスト)
(東山区三十三間堂廻り町)
◆本尊千手観音
正式には蓮華王院。
通称の三十三間堂は本堂の母屋正面の柱間の数が三十三あることに由来する。洛陽三十三所観音霊場第十七番札所。
長寛二年(一一六四)に後自河上皇の勅願によって創建。
豊臣秀吉が方広寺を創建した天正十四年(一五八六)には、その千手堂となったが、秀吉没後には方広寺とともに天台宗の妙法院(↓92頁)の管理下に置かれた。
楊枝のお加持、三十三間堂通し矢は一月十五日に近い日曜に行う。
現在の本堂(国宝)は、文永三年(一二六六)の再建で、京都における鎌倉時代和様の代表的遺構。
湛慶の手になる千手観音坐像(国宝)を中央に、南北約百二十メートルに及ぶ伽藍内に、等身大の木造千手観音立像(重要文化財)が立ち並ぶ光景は圧巻。
(*千手観音立像は国宝になりました)
二十八部衆立像、風神・雷神像(すべて国宝)が千手観音に従っている。
他に桃山時代の建築で、南大門、築地塀(太閤塀)(ともに重要文化財)がある。
↓洛陽三十三所観音霊場103頁、国宝建築183頁、本堂(寺院の建築)184頁、千手観音坐像・二十八部衆像・風神雷神像(京都の彫刻)222頁、楊枝のお加持285頁
(京都検定テキスト)
一月十五日に近い日曜
楊枝のお加持
三十三間堂
正式には楊枝浄水供と呼ばれ、浄水に柳の枝を浸してその水を信者の頭上に振りかける秘儀で頭痛に効くという。
古くは平安時代に行われ、それによって柳にまつわる伝説が数多く生まれた。
同日には有名な通し矢の弓の引き初めも行われる。
(京都検定テキスト)
楊枝のお加持
三十三間堂
正式には楊枝浄水供と呼ばれ、浄水に柳の枝を浸してその水を信者の頭上に振りかける秘儀で頭痛に効くという。
古くは平安時代に行われ、それによって柳にまつわる伝説が数多く生まれた。
同日には有名な通し矢の弓の引き初めも行われる。
(京都検定テキスト)
豊国神社
(東山区大和大路通正面茶屋町)
祭神 豊臣秀吉
通称は「ホウコクさん」。
慶長三年(一五九八)に亡くなった秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峯に葬り、翌年には広壮な社殿がその山腹に創建された。
朝廷より豊国大明神の神号を賜わり、同九年の秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。
その様子は「豊国臨時祭礼図屏風」(狩野内膳筆・重要文化財)に詳細に描かれている。
豊臣氏減亡後は荒廃していたが、明治元年(一八六八)に新日吉神宮(↓73頁)の神楽殿を仮拝殿として再輿され、同十三年に旧方広寺大仏殿境内に社殿を造営した。
唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝える。
↓国宝建築183頁
(東山区大和大路通正面茶屋町)
祭神 豊臣秀吉
通称は「ホウコクさん」。
慶長三年(一五九八)に亡くなった秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峯に葬り、翌年には広壮な社殿がその山腹に創建された。
朝廷より豊国大明神の神号を賜わり、同九年の秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。
その様子は「豊国臨時祭礼図屏風」(狩野内膳筆・重要文化財)に詳細に描かれている。
豊臣氏減亡後は荒廃していたが、明治元年(一八六八)に新日吉神宮(↓73頁)の神楽殿を仮拝殿として再輿され、同十三年に旧方広寺大仏殿境内に社殿を造営した。
唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝える。
↓国宝建築183頁
方広寺大仏殿跡
(東山区茶屋町)
豊国神社(↓75頁)本殿裏に大仏殿跡緑地公園が整備されており、この辺りに豊臣秀吉が造営した方広寺大仏殿があった。
発掘調査によって柱跡や階段跡などが検出されている。
秀吉は東大寺(奈良県奈良市)を凌ぐ規模の金銅製の大仏とそれを覆う壮大な大仏殿を文禄四年(一五九五)に完成させたが、翌年の慶長伏見地震で大仏は倒壊してしまった。
その後、子の秀頼が再建した大仏も寛文二年(一六六二)の地震で倒壊した。次に木造で再建されたが、これは寛政十年(一七九八)に焼失した。
天保年間(一八三〇〜四四)に規模の縮小された大仏が作られたが、これも昭和四十八年(一九七三)に焼失した。
長らく、京都の大仏として親しまれていたため、現在も地名などに「大仏」の名を見ることができる。
また、往時を偲ばせる石垣が残り、一帯は「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定されている。
現在の方広寺には、大仏こそ存在しないが、大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件ゆかりの「国家安康」の鐘(重要文化財)がある。
(京都検定テキスト)
(東山区茶屋町)
豊国神社(↓75頁)本殿裏に大仏殿跡緑地公園が整備されており、この辺りに豊臣秀吉が造営した方広寺大仏殿があった。
発掘調査によって柱跡や階段跡などが検出されている。
秀吉は東大寺(奈良県奈良市)を凌ぐ規模の金銅製の大仏とそれを覆う壮大な大仏殿を文禄四年(一五九五)に完成させたが、翌年の慶長伏見地震で大仏は倒壊してしまった。
その後、子の秀頼が再建した大仏も寛文二年(一六六二)の地震で倒壊した。次に木造で再建されたが、これは寛政十年(一七九八)に焼失した。
天保年間(一八三〇〜四四)に規模の縮小された大仏が作られたが、これも昭和四十八年(一九七三)に焼失した。
長らく、京都の大仏として親しまれていたため、現在も地名などに「大仏」の名を見ることができる。
また、往時を偲ばせる石垣が残り、一帯は「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定されている。
現在の方広寺には、大仏こそ存在しないが、大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件ゆかりの「国家安康」の鐘(重要文化財)がある。
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
一月十五日に近い日曜・・・。
それが今日なのか(-_-;)
成人の日
1月の第2月曜日。おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます日。1948年に制定され、1999年までは1月15日に固定されていましたが、祝日の一部を月曜日に移す「ハッピーマンデー制度」により、2000年以降は1月の第2月曜日となりました。
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