記録ID: 8013276
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ハイキング
京都・北摂
京都検定的 朝のウォーキング
2025年04月14日(月) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 02:09
- 距離
- 5.3km
- 登り
- 7m
- 下り
- 4m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
今日訪れたかったところ、蓮光寺
[課題]
蓮光寺
仏像を背負う、負別山蓮光寺
源融の「六条院」、塩竈町にある浄土宗寺院
本尊は快慶作の(負別)阿弥陀如来
地蔵堂には、平清盛ゆかりの駒止地蔵菩薩
境内には、長曾我部盛親の墓
南には、後白河法皇の持仏堂で、臨終仏が安置される長講堂
[課題]
蓮光寺
仏像を背負う、負別山蓮光寺
源融の「六条院」、塩竈町にある浄土宗寺院
本尊は快慶作の(負別)阿弥陀如来
地蔵堂には、平清盛ゆかりの駒止地蔵菩薩
境内には、長曾我部盛親の墓
南には、後白河法皇の持仏堂で、臨終仏が安置される長講堂
市比賣神社
(下京区河原町五条下ル一筋目西入)
祭神
多紀理比賣命,下光比賣命, 市寸嶋比賣命、多岐都比賣命、神大市比賣命、
延暦十四年(七九五)、桓武天皇の命により、左大臣藤原冬嗣が平安京に設けられた官営の市(東市・西市)の守護神として 七条堀川付近に建立したのが当社の始まりという。
天正十九年(一五九一)に現 在地に移転。
さらに昭和二年(一九二七)、 京都市中央市場(→326頁)が開設された際、その敷地内に分社の市姫神社が祀られたように、平安時代から現在に至るまで市場の守り神として崇敬を集める。
また、祭神はいずれも女性神であることから女人守護、女人厄除けの神として全国から女性参拝者が絶えない。
境内にある天之真名井は名水として知られ、歴代天皇の産湯に用いられたと伝わる。
(新京都検定テキスト)
(下京区河原町五条下ル一筋目西入)
祭神
多紀理比賣命,下光比賣命, 市寸嶋比賣命、多岐都比賣命、神大市比賣命、
延暦十四年(七九五)、桓武天皇の命により、左大臣藤原冬嗣が平安京に設けられた官営の市(東市・西市)の守護神として 七条堀川付近に建立したのが当社の始まりという。
天正十九年(一五九一)に現 在地に移転。
さらに昭和二年(一九二七)、 京都市中央市場(→326頁)が開設された際、その敷地内に分社の市姫神社が祀られたように、平安時代から現在に至るまで市場の守り神として崇敬を集める。
また、祭神はいずれも女性神であることから女人守護、女人厄除けの神として全国から女性参拝者が絶えない。
境内にある天之真名井は名水として知られ、歴代天皇の産湯に用いられたと伝わる。
(新京都検定テキスト)
法住寺
(東山区三十三間堂廻り)
本尊 不動明王
後白河法皇ゆかりの寺院。
保元三年 (一一五八)に譲位して上皇となった後白河天皇は、法住寺の地を院御所とした (法住寺殿)。
のち上皇は、尊崇していた日吉・熊野の神を法住寺殿に勧請、新日吉社と新熊野社(現・新日吉神宮、新熊野神社) (→ 78頁)が創建された。
また蓮華王院(三十三間堂) (→104頁)が殿内の御堂として建立された。
寿永二年(一一八三) の木曽義仲(源義仲)の襲撃で(法住寺合戦)、院御所としての機能は終わる。
法皇が崩御するとここに葬られ、以後、法住寺は法皇の墓所を守る寺として存続したが、明治維新の時に宮内省の所管に移り、現在は後白河天皇法住寺陵として宮内庁の管理になっている。
本尊の不動明王は、法住寺合戦で法 皇の身代りになったとの伝えから「身代り不動」として信仰される。
大石内蔵助も大願成就を祈願したといい、十二月十四日に義士会法要(→321頁)が行われる。
親鸞自作といわれる「親鸞聖人そば喰いの御像」も有名。
(新京都検定テキスト)
(東山区三十三間堂廻り)
本尊 不動明王
後白河法皇ゆかりの寺院。
保元三年 (一一五八)に譲位して上皇となった後白河天皇は、法住寺の地を院御所とした (法住寺殿)。
のち上皇は、尊崇していた日吉・熊野の神を法住寺殿に勧請、新日吉社と新熊野社(現・新日吉神宮、新熊野神社) (→ 78頁)が創建された。
また蓮華王院(三十三間堂) (→104頁)が殿内の御堂として建立された。
寿永二年(一一八三) の木曽義仲(源義仲)の襲撃で(法住寺合戦)、院御所としての機能は終わる。
法皇が崩御するとここに葬られ、以後、法住寺は法皇の墓所を守る寺として存続したが、明治維新の時に宮内省の所管に移り、現在は後白河天皇法住寺陵として宮内庁の管理になっている。
本尊の不動明王は、法住寺合戦で法 皇の身代りになったとの伝えから「身代り不動」として信仰される。
大石内蔵助も大願成就を祈願したといい、十二月十四日に義士会法要(→321頁)が行われる。
親鸞自作といわれる「親鸞聖人そば喰いの御像」も有名。
(新京都検定テキスト)
養源院
*旧テキストに載っていたが宗派の区分は[浄土真宗]、
新テキストでは[その他]になっている
浄土真宗遣迎院派?
浄土真宗のところには
///////////////////////////////////////
鎌倉時代初期、法然の弟子親鸞を開祖とする浄土教の一宗派。
教えは、『教行信証』によると、念仏を称えるのは阿弥陀仏の本願力のはたらきによって生じるものとされ、本願を信じる心が阿弥陀仏より回向されるという絶対他力の信を説いた。
親鸞没後、末娘覚信尼が大谷廟を建て曾孫 の覚如が寺院化して本願寺を成立させた。
親鸞の血脈を継ぐ東、西本願寺 の二派と門弟の流れを継ぐ八派(真宗教 団十派)がある。
京都には、浄土真宗本願寺派(西本願寺)、真宗大谷派(東本願寺)、真宗佛光寺派(佛光寺)、真宗興正派(興正寺)の四派の本山がある。
(京都検定テキスト)
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浄土真宗遣迎院派???
*旧テキストに載っていたが宗派の区分は[浄土真宗]、
新テキストでは[その他]になっている
浄土真宗遣迎院派?
浄土真宗のところには
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鎌倉時代初期、法然の弟子親鸞を開祖とする浄土教の一宗派。
教えは、『教行信証』によると、念仏を称えるのは阿弥陀仏の本願力のはたらきによって生じるものとされ、本願を信じる心が阿弥陀仏より回向されるという絶対他力の信を説いた。
親鸞没後、末娘覚信尼が大谷廟を建て曾孫 の覚如が寺院化して本願寺を成立させた。
親鸞の血脈を継ぐ東、西本願寺 の二派と門弟の流れを継ぐ八派(真宗教 団十派)がある。
京都には、浄土真宗本願寺派(西本願寺)、真宗大谷派(東本願寺)、真宗佛光寺派(佛光寺)、真宗興正派(興正寺)の四派の本山がある。
(京都検定テキスト)
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浄土真宗遣迎院派???
養源院(東山区三十三問堂廻り町)
本尊 阿弥陀如来
元、天台宗の寺院(現在は浄土真宗遣迎院派)。
文禄三年(一五九四)に淀殿(淀君)が父の浅井長政の菩提を弔うために建立し、寺名は長政の法号にちなむ。
開山は浅井一族の成伯法印。
元和五年(一六一九)に焼亡したが、二年後に淀殿の妹の崇源院が、夫である徳川秀忠に願い伏見城の遺構を移して再建した。
以来、将軍家の位牌所、皇室の祈願所となった。
客殿(本堂・重要文化財)の有名な血天井は、伏見城落城の時に鳥居元忠らが自刃した廊下の床板を用い、天井に上げてその霊を弔ったもの。
また鳥居元忠らの霊を慰めるために、俵屋宗達が描いたとされる杉戸絵の「唐獅子図」、「麟麟図」、「白象図」八面(いずれも重要文化財)は表現が奇抜で新鮮である。
同じく宗達の客殿障壁画「松図」十二面(重要文化財)は、松と岩だけを描いた豪壮なもの。
また、護摩堂、鐘楼堂、中門(いずれも重要文化財)などの建造物がある。
庭園は小堀遠州の作とされる。
↓杉戸絵(京都の絵画)230頁
(新京都検定テキスト)
本尊 阿弥陀如来
元、天台宗の寺院(現在は浄土真宗遣迎院派)。
文禄三年(一五九四)に淀殿(淀君)が父の浅井長政の菩提を弔うために建立し、寺名は長政の法号にちなむ。
開山は浅井一族の成伯法印。
元和五年(一六一九)に焼亡したが、二年後に淀殿の妹の崇源院が、夫である徳川秀忠に願い伏見城の遺構を移して再建した。
以来、将軍家の位牌所、皇室の祈願所となった。
客殿(本堂・重要文化財)の有名な血天井は、伏見城落城の時に鳥居元忠らが自刃した廊下の床板を用い、天井に上げてその霊を弔ったもの。
また鳥居元忠らの霊を慰めるために、俵屋宗達が描いたとされる杉戸絵の「唐獅子図」、「麟麟図」、「白象図」八面(いずれも重要文化財)は表現が奇抜で新鮮である。
同じく宗達の客殿障壁画「松図」十二面(重要文化財)は、松と岩だけを描いた豪壮なもの。
また、護摩堂、鐘楼堂、中門(いずれも重要文化財)などの建造物がある。
庭園は小堀遠州の作とされる。
↓杉戸絵(京都の絵画)230頁
(新京都検定テキスト)
三十三間堂(蓮華王院)
(東山区三十三間堂廻り町)
本尊 千手観音
正式には蓮華王院。
通称の三十三間堂は本堂の母屋正面の柱間の数が三十三あることに由来する。
洛陽三十三所観音霊場第十七番札所(→117頁)。
長寛二年(一一六四)に後自河上皇の勅願によって創建。
豊臣秀吉が方広寺を創建した天正十四年(一五八六)には、その千手堂となったが、秀吉没後には方広寺とともに天台宗の妙法院(↓106頁)の管理下に置かれた。
楊枝のお加持、三十三間堂通し矢は一月十五日に近い日曜に行う。
現在の本堂(国宝)は、文永三年(一二六六)の再建で、京都における鎌倉時代和様の代表的遺構。
湛慶の手になる千手観音坐像(国宝)を中央に、南北約百二十メートルに及ぶ伽藍内に、等身大の木造千手観音立像(国宝)が立ち並ぶ光景は圧巻。
二十八部衆立像、風神・雷神像(すべて国宝)が千手観音に従っている。
他に桃山時代の建築で、南大門、築地塀(太閤塀)(ともに重要文化財)がある。
↓国宝建築203頁、本堂(寺院の建築)204頁、千手観音坐像・二十八部衆像・風神雷神像(京都の彫刻)244頁、楊枝のお加持309頁
(京都検定テキスト)
(東山区三十三間堂廻り町)
本尊 千手観音
正式には蓮華王院。
通称の三十三間堂は本堂の母屋正面の柱間の数が三十三あることに由来する。
洛陽三十三所観音霊場第十七番札所(→117頁)。
長寛二年(一一六四)に後自河上皇の勅願によって創建。
豊臣秀吉が方広寺を創建した天正十四年(一五八六)には、その千手堂となったが、秀吉没後には方広寺とともに天台宗の妙法院(↓106頁)の管理下に置かれた。
楊枝のお加持、三十三間堂通し矢は一月十五日に近い日曜に行う。
現在の本堂(国宝)は、文永三年(一二六六)の再建で、京都における鎌倉時代和様の代表的遺構。
湛慶の手になる千手観音坐像(国宝)を中央に、南北約百二十メートルに及ぶ伽藍内に、等身大の木造千手観音立像(国宝)が立ち並ぶ光景は圧巻。
二十八部衆立像、風神・雷神像(すべて国宝)が千手観音に従っている。
他に桃山時代の建築で、南大門、築地塀(太閤塀)(ともに重要文化財)がある。
↓国宝建築203頁、本堂(寺院の建築)204頁、千手観音坐像・二十八部衆像・風神雷神像(京都の彫刻)244頁、楊枝のお加持309頁
(京都検定テキスト)
瀧尾神社
(東山区本町十一丁目)
祭神
大己貴命(大黒天)、弁財天、毘沙門天
創建は平安時代ともいわれるが詳らかでない。
もと洛東にあった武鵜社(のち多影社)が、応仁・文明の乱の戦火に遭うなどで転々と遷座し、天正十四年 (一五八六)に現在地に鎮座したという。
宝永年間(一七〇四~一一)に瀧尾神社と改称した。
大丸を創業した下村家代々から 篤い信仰を受け、その縁から商売繁盛, 出世開運のご利益で広く知られるところとなっている。
本殿は貴船神社奥院旧殿を移築したもので、拝殿の天井には全長八メートルに及ぶ木彫りの龍が施され、迫力のあるその姿から、夜になると龍が水を飲みに動き出すとして恐れられ、金網まで張り巡らされたという逸話も残る。
(新京都検定テキスト)
(東山区本町十一丁目)
祭神
大己貴命(大黒天)、弁財天、毘沙門天
創建は平安時代ともいわれるが詳らかでない。
もと洛東にあった武鵜社(のち多影社)が、応仁・文明の乱の戦火に遭うなどで転々と遷座し、天正十四年 (一五八六)に現在地に鎮座したという。
宝永年間(一七〇四~一一)に瀧尾神社と改称した。
大丸を創業した下村家代々から 篤い信仰を受け、その縁から商売繁盛, 出世開運のご利益で広く知られるところとなっている。
本殿は貴船神社奥院旧殿を移築したもので、拝殿の天井には全長八メートルに及ぶ木彫りの龍が施され、迫力のあるその姿から、夜になると龍が水を飲みに動き出すとして恐れられ、金網まで張り巡らされたという逸話も残る。
(新京都検定テキスト)
延長2年(924年)に藤原忠平によって創建されたと伝えられる。以後、藤原氏の寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時代には、現在の東福寺と泉涌寺の寺域まで境内地であった。広大な寺域に大伽藍を構えて京洛21カ寺の一刹に数えられている。
しかし、兵火によって衰微すると、延応元年(1239年)に九条道家によって境内地をさかれて新たに東福寺が建立されたり、泉涌寺が規模を大きくしていったため、それに伴って法性寺の境内は縮小を余儀なくされた。
応仁の乱で被害を受けると遂に衰退してしまった。現在の法性寺は明治維新後にかつての名前を継いで再興されたものである。本尊の千手観世音菩薩像(国宝、厄除観世音)は、かつての法性寺灌頂堂の本尊であったとされる。
なお、東福寺の塔頭・同聚院(どうじゅいん)に安置されている木造不動明王坐像(重要文化財)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が建立した法性寺五大堂の中尊と伝えられている。定朝の父である康尚の作といわれている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
しかし、兵火によって衰微すると、延応元年(1239年)に九条道家によって境内地をさかれて新たに東福寺が建立されたり、泉涌寺が規模を大きくしていったため、それに伴って法性寺の境内は縮小を余儀なくされた。
応仁の乱で被害を受けると遂に衰退してしまった。現在の法性寺は明治維新後にかつての名前を継いで再興されたものである。本尊の千手観世音菩薩像(国宝、厄除観世音)は、かつての法性寺灌頂堂の本尊であったとされる。
なお、東福寺の塔頭・同聚院(どうじゅいん)に安置されている木造不動明王坐像(重要文化財)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が建立した法性寺五大堂の中尊と伝えられている。定朝の父である康尚の作といわれている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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感想
朝起きて・・・。
「課題」があったな(-_-;)
河原町五条辺り、それに東福寺辺り
繫がるかなぁ
と出かける
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