記録ID: 8330980
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
タシロランを求めて御所散歩・・・史跡巡り
2025年06月23日(月) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:40
- 距離
- 4.6km
- 登り
- 0m
- 下り
- 16m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 1:40
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 1:40
距離 4.6km
登り 0m
下り 16m
15:00
100分
スタート地点
16:41
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2025年06月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
京都御所(および京都御苑)
(上京区京都御苑)
現在、慣用的に「御所」といえば、 烏丸通、今出川通、寺町通、丸太町通の各通りに囲まれた全域を指しているようだが、それは京都御苑を示す区域であり、その京都御苑の中に京都御所・ 京都大宮御所・京都仙洞御所(42頁)・ 京都迎賓館(→395頁)などが存在する。
平安京が営まれた当初の大内裏は、現在の千本丸太町付近に位置しており、内野公園内に、大極殿跡を示す碑(→29・ 30頁)が立っている。
しかし、天徳四年(九六○)の炎上以来、大内裏は度重なる類焼のため、天皇は公家の邸宅を借りるという現状であった(これを「里内裏」と称した)。
鎌倉時代初期の嘉禄三年( 安貞元年・一二二七)四月に類焼して以降、 ついに再建されることはなかった。
大内裏周辺の官衙建物も同様に廃絶し、大内裏跡は荒廃して内野と呼ばれるようになった。
この内野の地は、豊臣秀吉の聚楽第(→38頁) 築造によって脚光を浴びるまで、『今昔物語集』にも妖怪奇談の舞台として取り上げられるほどの寂しい土地柄となっていったのである。
一方、先述した里内裏だが、元弘元 (元徳三年・一三三一)九月、持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が、里内裏である土御門東洞院で即位し、さらに明徳三年(一三九二)、後亀山天皇が三種の神器を後小松天皇に渡して以降、南北両朝が統一され、ここに土御門東洞院内裏が、長く皇居として定着することになった。
これが現在の京都御所の前身となる。
当初の御所の規模は、現在より遥かに小規模で、方一町の敷地の一部に紫宸殿・清涼殿兼用の建物があったという。
その後、応永八年(一四〇一)にこ の内裏も焼け、翌年の再建時に敷地は南に拡張された。その後も応仁・文明の 乱で荒廃するなど、順調ではなかった。
再び、内裏が復興に向かうのは、戦国時代から近世に入ってからである。
その先駆けとなったのは、織田家であった。
天文十二年(一五四三)、織田信長の父信秀が後奈良天皇の要請に応じて内裏修理料四千貫を献上したことに始まり、以後、織田信長、豊臣秀吉の時代に各々改築が行われた。
その動きは徳川幕府の時代にも引き継がれ、元和六年(一六二〇)の東福門院和子(徳川和子)の後水尾天皇への入内の前年にも、大規模な拡張工事が実施されている。
その後は、火災炎上と再建とを繰り返したが、天明八年(一七八八)の京都大火後、いちはやく幕府は老中松平定信に内裏造営を命じた。
この時の工事は寛政元年(一七八九)から翌二年にかけて行われたが、定信は、当時の著名な有職故実家裏松固禅(光世)が作成した『大内裏図考証」に基づき、古制にならって復元した。
この時の 殿舎は安政元年(一八五四)に焼けるが、 翌二年、幕府は先の寛政度にならって再 興した。
現在の御所は、この時にほぼ整っている。
その境域は東西約二百五十メ ートル、南北約四百五十メートルである。
参観は春と秋に特別公開が行われるが、これらに加えて通年公開も実施されており、御所西方の清所門から入って砂利敷の場内を進みながら、御車寄、諸大夫の間、紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿などの建物を外から見学し、途中には回廊を潜って南庭にも入るコースがとられている。
その京都御所を含む京都御苑は、明治二年(一八六九)に事実上の東京遷都が行われ、御所周辺の宮家や公家屋敷も取り壊されて苑地となったもの。
御苑と御所は宮内庁の所管であったが、御苑だけは昭和二十四年(一九四九)、東京の 皇居外苑、新宿御苑とともに、国民公園として厚生省の所管に移され、のちに環境庁(現環境省)の所管となった。
自然美にも優れ、「黒木の梅」や近衛邸 の枝垂れ桜は名高い。
九條池の中島には 厳島神社(→67頁)が鎮座する。
→紫宸殿(宮殿・邸宅の建築)207頁、葵祭278頁、 時代祭294頁、京都御所春季・秋季特別公開313.319頁、鬼門の猿358頁、蛤御門53頁
(京都検定テキスト)
(上京区京都御苑)
現在、慣用的に「御所」といえば、 烏丸通、今出川通、寺町通、丸太町通の各通りに囲まれた全域を指しているようだが、それは京都御苑を示す区域であり、その京都御苑の中に京都御所・ 京都大宮御所・京都仙洞御所(42頁)・ 京都迎賓館(→395頁)などが存在する。
平安京が営まれた当初の大内裏は、現在の千本丸太町付近に位置しており、内野公園内に、大極殿跡を示す碑(→29・ 30頁)が立っている。
しかし、天徳四年(九六○)の炎上以来、大内裏は度重なる類焼のため、天皇は公家の邸宅を借りるという現状であった(これを「里内裏」と称した)。
鎌倉時代初期の嘉禄三年( 安貞元年・一二二七)四月に類焼して以降、 ついに再建されることはなかった。
大内裏周辺の官衙建物も同様に廃絶し、大内裏跡は荒廃して内野と呼ばれるようになった。
この内野の地は、豊臣秀吉の聚楽第(→38頁) 築造によって脚光を浴びるまで、『今昔物語集』にも妖怪奇談の舞台として取り上げられるほどの寂しい土地柄となっていったのである。
一方、先述した里内裏だが、元弘元 (元徳三年・一三三一)九月、持明院統(のちの北朝)の光厳天皇が、里内裏である土御門東洞院で即位し、さらに明徳三年(一三九二)、後亀山天皇が三種の神器を後小松天皇に渡して以降、南北両朝が統一され、ここに土御門東洞院内裏が、長く皇居として定着することになった。
これが現在の京都御所の前身となる。
当初の御所の規模は、現在より遥かに小規模で、方一町の敷地の一部に紫宸殿・清涼殿兼用の建物があったという。
その後、応永八年(一四〇一)にこ の内裏も焼け、翌年の再建時に敷地は南に拡張された。その後も応仁・文明の 乱で荒廃するなど、順調ではなかった。
再び、内裏が復興に向かうのは、戦国時代から近世に入ってからである。
その先駆けとなったのは、織田家であった。
天文十二年(一五四三)、織田信長の父信秀が後奈良天皇の要請に応じて内裏修理料四千貫を献上したことに始まり、以後、織田信長、豊臣秀吉の時代に各々改築が行われた。
その動きは徳川幕府の時代にも引き継がれ、元和六年(一六二〇)の東福門院和子(徳川和子)の後水尾天皇への入内の前年にも、大規模な拡張工事が実施されている。
その後は、火災炎上と再建とを繰り返したが、天明八年(一七八八)の京都大火後、いちはやく幕府は老中松平定信に内裏造営を命じた。
この時の工事は寛政元年(一七八九)から翌二年にかけて行われたが、定信は、当時の著名な有職故実家裏松固禅(光世)が作成した『大内裏図考証」に基づき、古制にならって復元した。
この時の 殿舎は安政元年(一八五四)に焼けるが、 翌二年、幕府は先の寛政度にならって再 興した。
現在の御所は、この時にほぼ整っている。
その境域は東西約二百五十メ ートル、南北約四百五十メートルである。
参観は春と秋に特別公開が行われるが、これらに加えて通年公開も実施されており、御所西方の清所門から入って砂利敷の場内を進みながら、御車寄、諸大夫の間、紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿などの建物を外から見学し、途中には回廊を潜って南庭にも入るコースがとられている。
その京都御所を含む京都御苑は、明治二年(一八六九)に事実上の東京遷都が行われ、御所周辺の宮家や公家屋敷も取り壊されて苑地となったもの。
御苑と御所は宮内庁の所管であったが、御苑だけは昭和二十四年(一九四九)、東京の 皇居外苑、新宿御苑とともに、国民公園として厚生省の所管に移され、のちに環境庁(現環境省)の所管となった。
自然美にも優れ、「黒木の梅」や近衛邸 の枝垂れ桜は名高い。
九條池の中島には 厳島神社(→67頁)が鎮座する。
→紫宸殿(宮殿・邸宅の建築)207頁、葵祭278頁、 時代祭294頁、京都御所春季・秋季特別公開313.319頁、鬼門の猿358頁、蛤御門53頁
(京都検定テキスト)
タシロランを探しているのですが見つかりません(-_-;)
ちょっと早かったかなぁ
昨年は6/27に来ている
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6968138.html
諦めて史跡巡り
ちょっと早かったかなぁ
昨年は6/27に来ている
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6968138.html
諦めて史跡巡り
梨木神社
(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
※祭神 三條實萬、三條實美
明治18年(1885)に三條(三条)家の邸宅跡の東に創建された。
祭神の三條實萬(三条実万)・實美(実美)父子は明治維新の功労者。
萩の名所としても知られ、萩の宮とも呼ばれる。
境内には名水として知られる「染井」の井戸がある。
→上田秋成歌碑261頁、萩まつり318頁
(京都検定テキスト)
(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
※祭神 三條實萬、三條實美
明治18年(1885)に三條(三条)家の邸宅跡の東に創建された。
祭神の三條實萬(三条実万)・實美(実美)父子は明治維新の功労者。
萩の名所としても知られ、萩の宮とも呼ばれる。
境内には名水として知られる「染井」の井戸がある。
→上田秋成歌碑261頁、萩まつり318頁
(京都検定テキスト)
蘆山寺
(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
※本尊 阿弥陀如来
天台圓浄宗の大本山。
正式には廬山天台講寺。
前身は天慶年間(938〜47)に良源(慈恵大師・元三大師)が北山に創建した与願金剛院。
応仁・文明の乱後も再々の火災で焼失したが、その後に再建され、天正年間(1573〜92)に現在地へ移った。
当地は紫式部の邸宅跡と伝え、源氏の庭には「紫式部邸宅跡」の石碑が立つ。
2月3日の節分会は「鬼法楽」の名で知られ、鬼に豆を撒いて悪疫退散を祈願する。
かつて金山天王寺の本尊であった如意輪観音半跏像(重要文化財)が伝来し、その観音は洛陽33所観音霊場(→117頁)第32番札所の本尊となっている。
→節分会298頁
(京都検定テキスト)
(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
※本尊 阿弥陀如来
天台圓浄宗の大本山。
正式には廬山天台講寺。
前身は天慶年間(938〜47)に良源(慈恵大師・元三大師)が北山に創建した与願金剛院。
応仁・文明の乱後も再々の火災で焼失したが、その後に再建され、天正年間(1573〜92)に現在地へ移った。
当地は紫式部の邸宅跡と伝え、源氏の庭には「紫式部邸宅跡」の石碑が立つ。
2月3日の節分会は「鬼法楽」の名で知られ、鬼に豆を撒いて悪疫退散を祈願する。
かつて金山天王寺の本尊であった如意輪観音半跏像(重要文化財)が伝来し、その観音は洛陽33所観音霊場(→117頁)第32番札所の本尊となっている。
→節分会298頁
(京都検定テキスト)
御土居
(北区・上京区・中京区)
豊臣秀吉が京都の都市改造の一環として天正19年(1591)に築いた土塁で、外側には堀も設けられた。
全長5里26町(約23キロ)に及び、文献には「京廻ノ堤」「新堤」「洛中惣構」などと記されている。
土塁の高さは約3.6メートルから5.4メートル、厚さは約18メートルから20数メートル。
これは京都を守る軍事的な城塞であるとともに、東側では鴨川の氾濫から市街地を守る防災施設としての機能を持たせたものであった。
時代とともに不要となった御土居は次々に破壊され、現在はわずかに痕跡を留めているのにすぎないが、
紫竹(北区紫竹上長目町・上堀川町)、
蘆山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)、
西ノ京(中京区西ノ京原町)、
北野(上京区馬喰町)、
平野(北区平野鳥居前町)、
紫野(北区紫野西土居町)、
鷹峯(北区鷹峯旧土居町2・鷹峯旧土居町3の2ヵ所)、
大宮(北区大宮土居町)(→37頁)の9ヵ所が国の史跡に指定されている。
(京都検定テキスト)
(北区・上京区・中京区)
豊臣秀吉が京都の都市改造の一環として天正19年(1591)に築いた土塁で、外側には堀も設けられた。
全長5里26町(約23キロ)に及び、文献には「京廻ノ堤」「新堤」「洛中惣構」などと記されている。
土塁の高さは約3.6メートルから5.4メートル、厚さは約18メートルから20数メートル。
これは京都を守る軍事的な城塞であるとともに、東側では鴨川の氾濫から市街地を守る防災施設としての機能を持たせたものであった。
時代とともに不要となった御土居は次々に破壊され、現在はわずかに痕跡を留めているのにすぎないが、
紫竹(北区紫竹上長目町・上堀川町)、
蘆山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)、
西ノ京(中京区西ノ京原町)、
北野(上京区馬喰町)、
平野(北区平野鳥居前町)、
紫野(北区紫野西土居町)、
鷹峯(北区鷹峯旧土居町2・鷹峯旧土居町3の2ヵ所)、
大宮(北区大宮土居町)(→37頁)の9ヵ所が国の史跡に指定されている。
(京都検定テキスト)
清浄華院
(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗京都四ヵ本山(→177頁)の一つ。
山号・寺号はなく、浄華院と略称する。
貞観2年(860)、清和天皇の勅願で、円仁(慈覚大師)が四宗兼学道場として禁裏内に開山し、12世紀後半、法然が浄土宗に改めたという。
寺地は、三条坊門高倉(高倉御池付近)、土御門室町(室町上立売付近)を経て、天正13年(1585)に現在地に移転した。
皇室や公家の崇敬が篤く、墓地には皇子や皇女の墓が数多くある。
寺宝に南宋仏画の優品である阿弥陀三尊像(国宝)や、大殿(御影堂)に安置される秘仏泣不動尊の物語を描いた「泣不動縁起絵巻」(重要文化財)などがある。
(京都検定テキスト)
(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
※本尊 阿弥陀如来
浄土宗京都四ヵ本山(→177頁)の一つ。
山号・寺号はなく、浄華院と略称する。
貞観2年(860)、清和天皇の勅願で、円仁(慈覚大師)が四宗兼学道場として禁裏内に開山し、12世紀後半、法然が浄土宗に改めたという。
寺地は、三条坊門高倉(高倉御池付近)、土御門室町(室町上立売付近)を経て、天正13年(1585)に現在地に移転した。
皇室や公家の崇敬が篤く、墓地には皇子や皇女の墓が数多くある。
寺宝に南宋仏画の優品である阿弥陀三尊像(国宝)や、大殿(御影堂)に安置される秘仏泣不動尊の物語を描いた「泣不動縁起絵巻」(重要文化財)などがある。
(京都検定テキスト)
法成寺跡
(上京区荒神口通寺町東入)
藤原道長が創建した大寺院の跡。
出家した道長は、寛仁4年(1020)に邸宅土御門殿に隣接した場所に九体阿弥陀堂(無量寿院)を創建した。
治安2年(1022)に金堂、万寿元年(1024)に薬師堂、同2年に三昧堂、同4年に釈迦堂の供養と、続々と堂舎が建立され、寺名も法成寺となった。
道長が臨終を迎えたのも、この法成寺であった。
天喜6年(1058)に全焼。
後年、吉田兼好が『徒然草』に九体阿弥陀堂などが残っていることを記しており、14世紀前半には荒廃していたもののわずかに堂宇が存在したことが知られるが、現在は石碑がその場所を示すのみである。
なお、道長の邸宅土御門殿の場所は、現在の京都御苑の中であり、比定されている場所に駒札が立っている。
(京都検定テキスト)
(上京区荒神口通寺町東入)
藤原道長が創建した大寺院の跡。
出家した道長は、寛仁4年(1020)に邸宅土御門殿に隣接した場所に九体阿弥陀堂(無量寿院)を創建した。
治安2年(1022)に金堂、万寿元年(1024)に薬師堂、同2年に三昧堂、同4年に釈迦堂の供養と、続々と堂舎が建立され、寺名も法成寺となった。
道長が臨終を迎えたのも、この法成寺であった。
天喜6年(1058)に全焼。
後年、吉田兼好が『徒然草』に九体阿弥陀堂などが残っていることを記しており、14世紀前半には荒廃していたもののわずかに堂宇が存在したことが知られるが、現在は石碑がその場所を示すのみである。
なお、道長の邸宅土御門殿の場所は、現在の京都御苑の中であり、比定されている場所に駒札が立っている。
(京都検定テキスト)
京都市歴史資料館
(上京区寺町通荒神口下ル松蔭町)
京都の歴史に関する資料の保存と活用を図り、市民の文化の向上及び発展に役立てることを目的として昭和57年(1982)に開館。
京都市史編さん所を前身とし、その編纂作業を通じて市民から寄贈・寄託された多くの古文書などの貴重な史料を引き継ぎ、さらに収集を進め、調査研究を行っている。
それら資料の閲覧・展示、歴史講座の開催、図書の刊行などの事業も行っている。
1階の資料展示室で、京都の歴史を、古文書、絵画、絵図などの展示を通じて理解できるよう、特別展やテーマ展を開催している。
(京都検定テキスト)
(上京区寺町通荒神口下ル松蔭町)
京都の歴史に関する資料の保存と活用を図り、市民の文化の向上及び発展に役立てることを目的として昭和57年(1982)に開館。
京都市史編さん所を前身とし、その編纂作業を通じて市民から寄贈・寄託された多くの古文書などの貴重な史料を引き継ぎ、さらに収集を進め、調査研究を行っている。
それら資料の閲覧・展示、歴史講座の開催、図書の刊行などの事業も行っている。
1階の資料展示室で、京都の歴史を、古文書、絵画、絵図などの展示を通じて理解できるよう、特別展やテーマ展を開催している。
(京都検定テキスト)
下御霊神社
(中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
※祭神 早良親王以下の八所御霊 (相殿に霊元天皇)
貞観5年(863)に神泉苑で修せられた御霊会の祭神を、平安時代初期に下出雲路の地に祀ったのが最初とされる。
現在地に鎮座したのは、天正18年(1590)のことで、豊臣秀吉の京都改造による。
現在の本殿は、天明の大火による焼失後、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所(賢所)を下賜されたという由来を持つ建造物である。
(京都検定テキスト)
(中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
※祭神 早良親王以下の八所御霊 (相殿に霊元天皇)
貞観5年(863)に神泉苑で修せられた御霊会の祭神を、平安時代初期に下出雲路の地に祀ったのが最初とされる。
現在地に鎮座したのは、天正18年(1590)のことで、豊臣秀吉の京都改造による。
現在の本殿は、天明の大火による焼失後、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所(賢所)を下賜されたという由来を持つ建造物である。
(京都検定テキスト)
夏越祓 6月30日
6月下旬には京都の多くの神社で「夏越祭」が執り行われる。
この行事は「大祓」の行事のひとつであり、正月から半年の間に私たち人間の身体や心、さらには衣服や家屋などに溜まった罪やケガレを祓うことを目的として行われる。
そもそも「大祓」とは、師走と6月の末に行われる除災を意図した年中行事で、師走の大祓を年越しの祓、6月の大祓を夏越祓と呼ぶ。
大祓は、8世紀初頭に編纂された大宝律令によって宮中の正式な行事と定められた。
6月晦日には宮中で貴族たちが「大祓祝詞」を読み、人々が犯した罪やケガレを祓ったといわれている。
毎日、洗濯や入浴をするような習慣がなかった古代において、雑菌が繁殖しやすい夏を前に、衣服を新調して心身を清らかにすることで、疫病を予防するという現実的な意味もあったものと考えられる。
このような大祓の行事がやがて庶民にも広まってゆき、近代以降には多くの神社で夏越祭として行われるようになった。
夏越祓では、多くの神社で「茅の輪くぐり」が行われる。
これは茅で作られた大きな輪の中を、左まわり、右まわり、左まわりと8の字に3回くぐってケガレを祓うものである。
その際、夏越祓の和歌「水無月の夏越の祓する人は千年の命延ぶといふなり」などと唱えながらくぐるところもある。
また茅の輪を腰に付けていることで災厄から免れられるとする信仰もあり、夏越祓には茅の輪が付きものである。
その背景には、茅には神秘的な呪力が宿るとする伝承があり、祇園祭の山鉾でも販売されている粽にも結び付いていったものと思われる。
また、神社では紙で作った「人形」に名や年齢を書き、これで身体を撫でて自らのケガレを移し、祓う行事が行われる。
これは禊ぎの行事が形式化したものと考えられる。
この日、京都を中心に関西で、厄祓い、疫病除けに和菓子「水無月」(→339頁)を食べる習慣がある。
(京都検定テキスト)
6月下旬には京都の多くの神社で「夏越祭」が執り行われる。
この行事は「大祓」の行事のひとつであり、正月から半年の間に私たち人間の身体や心、さらには衣服や家屋などに溜まった罪やケガレを祓うことを目的として行われる。
そもそも「大祓」とは、師走と6月の末に行われる除災を意図した年中行事で、師走の大祓を年越しの祓、6月の大祓を夏越祓と呼ぶ。
大祓は、8世紀初頭に編纂された大宝律令によって宮中の正式な行事と定められた。
6月晦日には宮中で貴族たちが「大祓祝詞」を読み、人々が犯した罪やケガレを祓ったといわれている。
毎日、洗濯や入浴をするような習慣がなかった古代において、雑菌が繁殖しやすい夏を前に、衣服を新調して心身を清らかにすることで、疫病を予防するという現実的な意味もあったものと考えられる。
このような大祓の行事がやがて庶民にも広まってゆき、近代以降には多くの神社で夏越祭として行われるようになった。
夏越祓では、多くの神社で「茅の輪くぐり」が行われる。
これは茅で作られた大きな輪の中を、左まわり、右まわり、左まわりと8の字に3回くぐってケガレを祓うものである。
その際、夏越祓の和歌「水無月の夏越の祓する人は千年の命延ぶといふなり」などと唱えながらくぐるところもある。
また茅の輪を腰に付けていることで災厄から免れられるとする信仰もあり、夏越祓には茅の輪が付きものである。
その背景には、茅には神秘的な呪力が宿るとする伝承があり、祇園祭の山鉾でも販売されている粽にも結び付いていったものと思われる。
また、神社では紙で作った「人形」に名や年齢を書き、これで身体を撫でて自らのケガレを移し、祓う行事が行われる。
これは禊ぎの行事が形式化したものと考えられる。
この日、京都を中心に関西で、厄祓い、疫病除けに和菓子「水無月」(→339頁)を食べる習慣がある。
(京都検定テキスト)
革堂 (行願寺)
(中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)
※本尊 千手観音
山号は霊麀山。
寺号は行願寺。
西国33所観音霊場(→104頁)第19番札所(唯一の尼寺札所)。
洛陽33所観音霊場(→117頁)第4番札所。
開山の行円が山中で鹿を射止め、その腹の中に生きた小鹿を見て後悔した。
その皮を衣にして鹿を憐れみ、念仏を唱えたとされる。
寛弘元年(1004)に京に上り、賀茂の神木で千手観音像を造り、当寺に祀った。
行円は皮の衣を常に着たため「皮聖」と呼ばれ、革堂の名もこれに由来する。
当初は一条小川にあり、町堂は民衆の集会の場となった。
境内に寿老神を祀る堂があり、都七福神まいりの札所となっている。
→都七福神79頁、幽霊絵馬359頁
(京都検定テキスト)
(中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)
※本尊 千手観音
山号は霊麀山。
寺号は行願寺。
西国33所観音霊場(→104頁)第19番札所(唯一の尼寺札所)。
洛陽33所観音霊場(→117頁)第4番札所。
開山の行円が山中で鹿を射止め、その腹の中に生きた小鹿を見て後悔した。
その皮を衣にして鹿を憐れみ、念仏を唱えたとされる。
寛弘元年(1004)に京に上り、賀茂の神木で千手観音像を造り、当寺に祀った。
行円は皮の衣を常に着たため「皮聖」と呼ばれ、革堂の名もこれに由来する。
当初は一条小川にあり、町堂は民衆の集会の場となった。
境内に寿老神を祀る堂があり、都七福神まいりの札所となっている。
→都七福神79頁、幽霊絵馬359頁
(京都検定テキスト)
島津製作所創業地/舎密局跡
(中京区木屋町通二条南/中京区鉾田町)
島津製作所の初代島津源蔵は、京都府の殖産興業政策などに呼応し、国民への科学知識の普及と教育振興を図る目的から、明治8年(1875)、教育用理化学器械の製造を開始。
これが島津製作所の始まりとなる。
昭和50年(1975)、創業百年を記念して島津創業の地である木屋町通二条に資料館が開設され、その建物は創業当時の姿を今に伝えている。
同館では理化学器械・医療用X線装置・標本・産業機器といった、約1万1千5百点に及ぶ創業以来の自社製品や貴重な資料と、関係文書、文献などを収蔵、展示している。
当地から程近い場所に、京都府は産業振興施策として明治3年に舎密局を、翌年に勧業場を設立した。
舎密局は理化学・工業技術の研究・教育を行う施設として、槇村正直京都府参事(後に知事)の支援のもと明石博高が創設に尽力。
木屋町二条で仏具製造を生業としていた初代源蔵も舎密局に出入りし、同局のドイツ人教師ワグネルから西洋の技術を学び、新事業の開拓につなげた。
現在、舎密局跡には旧京都市立銅駝美術工芸高等学校(現在は京都市立美術工芸高等学校として下京区川端町に移転)の建物があり、御池通に面したホテルオークラ京都の前には「明治天皇行幸所勧業場阯」の石碑が建つ。
(京都検定テキスト)
(中京区木屋町通二条南/中京区鉾田町)
島津製作所の初代島津源蔵は、京都府の殖産興業政策などに呼応し、国民への科学知識の普及と教育振興を図る目的から、明治8年(1875)、教育用理化学器械の製造を開始。
これが島津製作所の始まりとなる。
昭和50年(1975)、創業百年を記念して島津創業の地である木屋町通二条に資料館が開設され、その建物は創業当時の姿を今に伝えている。
同館では理化学器械・医療用X線装置・標本・産業機器といった、約1万1千5百点に及ぶ創業以来の自社製品や貴重な資料と、関係文書、文献などを収蔵、展示している。
当地から程近い場所に、京都府は産業振興施策として明治3年に舎密局を、翌年に勧業場を設立した。
舎密局は理化学・工業技術の研究・教育を行う施設として、槇村正直京都府参事(後に知事)の支援のもと明石博高が創設に尽力。
木屋町二条で仏具製造を生業としていた初代源蔵も舎密局に出入りし、同局のドイツ人教師ワグネルから西洋の技術を学び、新事業の開拓につなげた。
現在、舎密局跡には旧京都市立銅駝美術工芸高等学校(現在は京都市立美術工芸高等学校として下京区川端町に移転)の建物があり、御池通に面したホテルオークラ京都の前には「明治天皇行幸所勧業場阯」の石碑が建つ。
(京都検定テキスト)
高瀬川一之舟入(船入)
(中京区木屋町通二条下ル)
高瀬川は、角倉了以・素庵の父子が開いた運河で、二条から鴨川の水を引き、伏見まで通じている。
慶長16年(1611)から同19年頃にかけて完成したとされる。
この運河が開通したことによって、大阪・伏見から京都への物資運搬が活発になり、近世京都の都市形成に大きな役割を果たした。
川の水深は浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられたことから、高瀬川と呼ばれるようになった。
高瀬舟の荷物の上げ下ろしをする船溜所のことを「舟入(船入)」といい、数ヵ所の舟入が設けられたが、唯一当時の姿を留めているのが一之船入で、国の史跡に指定されている。
ニ之舟入から九之舟入にはその場所を示す石碑が建立されている。
かつては一之船入に隣接して、角倉邸が存在した。
角倉氏は江戸時代を通じて高瀬川水運の権益を持っていた。
角倉邸にあった庭石は、昭和40年(1965)に造営された二条城清流園に移されている。
高瀬川の水運は、大正9年(1920)に廃止された。
(京都検定テキスト)
(中京区木屋町通二条下ル)
高瀬川は、角倉了以・素庵の父子が開いた運河で、二条から鴨川の水を引き、伏見まで通じている。
慶長16年(1611)から同19年頃にかけて完成したとされる。
この運河が開通したことによって、大阪・伏見から京都への物資運搬が活発になり、近世京都の都市形成に大きな役割を果たした。
川の水深は浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられたことから、高瀬川と呼ばれるようになった。
高瀬舟の荷物の上げ下ろしをする船溜所のことを「舟入(船入)」といい、数ヵ所の舟入が設けられたが、唯一当時の姿を留めているのが一之船入で、国の史跡に指定されている。
ニ之舟入から九之舟入にはその場所を示す石碑が建立されている。
かつては一之船入に隣接して、角倉邸が存在した。
角倉氏は江戸時代を通じて高瀬川水運の権益を持っていた。
角倉邸にあった庭石は、昭和40年(1965)に造営された二条城清流園に移されている。
高瀬川の水運は、大正9年(1920)に廃止された。
(京都検定テキスト)
大村益次郎卿遭難之地(左)と象山先生遭難之碑 (木屋町通御池上ル)
元治元年(1864)、松代藩士佐久間象山がこの付近で暗殺された。
明治2年(1869)、長州藩士大村益次郎(村田蔵六)がこの付近の旅館で襲われ、約2か月後に死亡した。
二基の石碑が並び立っている。
(京都検定テキスト)
元治元年(1864)、松代藩士佐久間象山がこの付近で暗殺された。
明治2年(1869)、長州藩士大村益次郎(村田蔵六)がこの付近の旅館で襲われ、約2か月後に死亡した。
二基の石碑が並び立っている。
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
梅雨のひととき
タシロランを求めて御所を散策、
その気配もありませんでした(-_-;)
ちょっと早すぎたかも
そのうちニョキニョキと出てくる?
昨年とわずか4日しか違わないのに!
史跡巡りは勉強になった♫
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:148人
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
朝から雨ですね。。。
レポ拝見しましたがまるで京都歴史紀行文!
私も好きなので読み込んでしまいました
ところでタシロランですか?
私は昨年、大原野森林公園で初見でしたが、今年は
どうなんでしょう?!
雨の合間で確認してきま〜す🌸
おはようございます。
昨年は6/22にたった一株でしたが大文字山で見つけました。
もうそろそろかなぁ
わたしの勘違い(-_-;)
はじめての1株は御所でした
思い出しました、去年大文字山でばったりしましたね!!お花のこと教えていただきました。
すみません物忘れが多いです、歳ですわ
去年7月にタシロラン見つけました、ヒョロっとして倒れそうな姿に感動しました。
今年も咲くでしょうか?
暑さに参ってますが行けるでしょうか?
ありがとうございました。
やっぱり7月ですね
今日大文字山に登りましたが・・・。
今年は是非御所のタシロランも見てね
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する