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その当時の神奈川県立川崎工業高等学校の学友3人での初めての山行は丹沢の大倉尾根。下山時に大雨に逢い、登山道は濁流状態。滑りまくって泥まみれで小田急線の座席を汚した記憶はいまだに忘れない。登山用具などと称するものは無く、靴もバスシュー。そんなデビューだったが、山にのめり込むきっかけにになった。その後、1958年7月1日に表尾根を経験し、翌年に主脈縦走を試みた。その山行を記してみたい。
夜中の小田急線渋沢駅に夜中の0時50分に着く。こんな真夜中に登山者は誰もいない。真っ暗な中、懐中電灯を点けて歩き始める。ヘッドランプなどの武器は無かった時代った。天気は快晴だったので歩き通せたと思う。
0:50渋沢駅1:00ー3:00大倉登山口ー6:00塔ヶ岳(朝食仮眠)7:00ー8:00丹沢山8:30−9:30蛭ヶ岳(昼寝)10:30−11:30原小屋(水場)12:00ー12:30姫次ー13:45焼山分岐ー15:10鳥屋➡➡➡➡BUSにて横浜線橋本駅➡➡➡➡新宿
実質歩行時間は 11時間40分 歩行距離 32Km
(所感等)
梅雨明け前の穏やかな天気に恵まれて主脈の長丁場を決行する。
大倉からの通称馬鹿尾根の登りは、その名の通りだらだらの一本調子で辛い。夜中でもかなりの汗が出る。一本松あたりで朝もやの中視界が開ける。
塔ヶ岳山頂では、10人ほどの登山者が朝食の最中であった。
富士山は、うっすらと見えたが写真には写っていなかった。縦走路は風もなく快適に歩き蛭ヶ岳に着いた。あまりの眠気に勝てず岩の上でトカゲを決め込む。原小屋の水場で美味しい水をたらふく飲み昼食。後はだらだらと下って飽き飽きした頃に鳥屋(とや)に着いた。下りの山中では誰にも会わなかった。
バスはがらがらで眠気が出た頃に橋本駅に着いた。
※職場が川崎市平間(今は中原区というそうだ)だったこともあり、丹沢詣でが日課となった時代である。
私も丹沢が姉の影響で単独の場合は毎週のように尾根や沢に出かけていましたよ、当時の職場は日曜・祝日以外は休みがないので近くて良い山でした、
同じく大倉からは夜行日帰りで特別な予定もなく眠くなればザックを枕に尾根の端で仮眠しては一つの山をコースを変えては先へ先へと少しずつ距離を伸ばしていました、
本当にこの時代の丹沢の夜行は誰とも合わずでした、しかも塔ヶ岳から先は私一人の山行でしたよ写真の標識懐かしいですね、ここではどちらに行こうかと何度か迷いましたよ、
丹沢は結構幅があり、尾根も長くその時の体調でコースを自由に変更でき沢も西丹沢は特に誰も居ない時が多かったですね、良き時代の山行でしたね、
naiden46さん、コメント有難うございます。ページを開かないとコメントを頂いたのが気づきませんでした(>_<)。本当にあの時代は山に登る方があまり居なかったですね(^_-)-☆それだけ浸れたのですね。ヤマレコ投稿初心者なので、直近の記事だけは山行記録にと思いこんでいました。その内日記の項目に気づき、カビの生えたものをエンディングノート代わりに書いています。西丹沢のユーシンロッジのご主人には可愛がってもらいました(#^.^#)勿論その方は天国の人ですが、あのロッジは使っていないようですが残念です。また情報交換をお願いします(*'▽')
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