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私個人の欠点を補うというか、自分への戒めとして、
『経験者・解っている人』≠『知らない人・間違っている人』
『経験者・解っている人』→改善→『知らない人・間違っている人』
という無意識の前提を自分の心から剥ぎ取ることに、いつも苦労しています。
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【経験者として意見することについて】
上記のように図式にすると間違っていないようにも思えますが、私自身を『経験者』の側に置いて、相対する人を『間違っている人』に位置付ける時、そこには様々は思込みや偏見(利用可能性ヒューリスティックとか代表性ヒューリスティックとか)が生じて、結果的には相対する人の自由意思を損ねるリスクが常にあるように感じます。批判のための批判が生まれるのも、そうした背景があるように思えます。
その時、相手の登山者は明らかに間違っているし、その間違いを正した方がその人の利益になると確信できたとしても、その確信自体が私の個人的意見であって、たまたま山で出会った人の行動を見てそれを評価し、その評価が正しいと確信するというのは、客観的に見えて実は最も主観的な意識の現れです。
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【教えるということについて】
人に何かを教えることは、時としてその人の自由を制限することにもなり、とても難しいことに違いありません。しかし、自分の主観とは言え、その人が危険に直面している時とか、間違いをしていると思える時に、その人に対して何もしない訳にはいかない...ではどうすればいいのか...
私個人としては、お互いに、登山における最も貴重な要素である『自由』を守るために、その次に大事な『安全』を共有するために、学び合おうという意識を持つように心がけていますが、これは訓練しなければなかなか出来ない心理状態でもあると感じています。私自身すぐにこの訓練を忘れてしまうので、人に教えるという快感に負けるのでしょう。情けないことです...
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【コミュニケーションは技術なのか...】
人に話をしたり、文章を書いたりするときの技術として、相手を不快にさせず、角を立てないようにする配慮も大切ですが、それはテクニックに過ぎないのかもしれません。そういうテクニックを使われる側になってみれば、むしろその方が心を傷付けられることもあるでしょう。
そんなことを考えると、ますます自信が無くなってきます。しかし、無関心でも無行動でもいられない。いっそのこと偏見も思い込みも構わずに、自分が間違いだと思うことにはズケズケ意見するか?...いやいや、それはもうバカとしか思えない...
本当に、いったいどうすれば良いのか...
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【汝自身を知れ...ということかも】
私自身は、『経験者』『解っている人』『知らない人』『間違っている人』の全てに自分自身を当て嵌るよう訓練するしかないと思っています。
大自然を前にしては『知らない人』『間違っている人』となるのも当然のことですが、自分以外の登山者と向き合う時にも、大自然を相手にする時と同じ謙虚さに自分を仕向けることは、経験者になるほど難しいことですね。それは偽善的な行動でもありますから、下手をすると鼻持ちならない人間になってしまうでしょう。
でも、難しいからこそ継続して自分に訓練を課す、そしてその内に、本心から『自分は何も知らない』そう思えるようになることを自分に期待しています。そうすると、私のする話を心で受け止めてくれる人にも出会えるだろうと思います。今はまだそうではありませんが...
デルフォイで”汝自身を知れ”と啓示を受けたソクラテスは、結局”自分は何も知っていない”ことを知るのでしたネ(^^)/
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