と、最近よく質問を受けます。山の遭難事故件数が過去最高を毎年更新し続ける中、安全登山を見直す人も多いのでしょうか...
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しかし、安全の為に特別なことはしていないし、出来もしないと思います。ただきちんとやるだけ。そして、こう言ってしまうと元も子もない話になってしまうけれど、最終的に自然に襲い掛かられたら、もう為す術が無いことも事実です。その時にはベストを尽くしつつ、祈るしか無い。
しかしせっかくの真面目な質問なので、準備中や登山中に配慮していることについて思い出してみると...
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基本的に山に登るということは、普段の生活よりは危険の多い領域に踏み込んでいることです。それだけに、生き残るための工夫や努力も普段以上に強いられるし、多くの登山者はその工夫と努力を実行しているはずです。
努力が実ることもあれば、失敗することもあり、そもそも具体的に何に対して考えればいいのか?...『それが分からないから質問している』ということだと思います。
安全と危険のリストを箇条書きに羅列しても根本的な解決にはなりませんが、出回っている安全啓発パンフレットはほとんどこの手のリスト的な内容で、『これをすれば安心』『これをすれば遭難』という内容が多いようです。もっとも、その効果を全く否定することはありません。それも少しずつ積み重ねの効果を産んでゆくはずだと思います。
それでもやはりこの手の安全危険リストが心配な点は、リスト以外の事態への想像力や感受性を狭めるリスクも持っていると思えるからです。山の危険要素はリストでカバーできるものではありません。むしろ安全啓発パンフレットに書いていないような意外な出来事の方が多いかも知れず、そんなことに予め準備できるはずもない。ではどうすればいいのでしょうか...?
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昨冬の雪崩遭難対策会議で、こんなことがありました。その年4月の白馬大雪渓での雪崩遭難者へ黙祷後、いろいろな意見が出て...
「雪崩のメカニズムを知るべき」
「氷雪学の知識不足だ」
「登山の鉄則を見直すべき」
「ビーコンを使いこなそう」等など...
私は『雑誌や講習会の知識からではなく、恐怖感から出発しよう。』と発言しましたが、あまり共感を得ている雰囲気は無し。ただ、その白馬遭難捜索現場に最後まで残って仲間の遺体を掘り出した若者が『今は山崎さんの意見がよく分かる。山が怖い。雪崩が憎いです。』と言ったのが印象的でした。
知識や技術は、それが安全啓発パンフレットの箇条書きであっても何かの助けにはなります。しかし最も心に留めておきたいのは、遭難することへの恐怖感、常に失わない山への畏怖。模範的で優秀な登山者でも遠慮無く殺してしまう自然の圧倒的な理不尽さには、人間は無力です。その怖さを知って、怖さを乗り越える工夫と努力を求められるのだろうと思います。
しかし恐怖感を維持するのは難しい。しかも楽しくない。人間は楽しむことが本能だから、楽しさに恐怖感を忘れることもあります。そこを突かれると遭難事故に繋がってしまう。出来ればいつもピリピリ緊張しているのではなく、もっと自然に、しかも安全に登りたい。ではその安全はどこにあるのでしょうか...?
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登山の安全というのは、身の回りに落ちている『安全』をこまめに一つずつ拾い集めている落ち穂拾いのようなものだろうと思います。新聞を読むついでに少し天気図解説を見ておくとか、登山届をもう一枚余分に印刷して留守宅において置くとか。
これをすれば決定的に安全という方法がないので、『安全』の断片が自分の廻りに落ちているのを一つずつ拾い集めて、その落ち穂拾いを下山完了まで続けているように感じます。
例えば先頭を歩いていて、後続の人が躓きそうな石をルート外にそっと蹴り出しておくようなことも、そういった落穂拾いだろうと思います。休憩時にちょっと水を飲んでおくとか、仲間の顔色を確認しておくとか、小さな安全対策は限りなくあるものです。
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それとコインの裏表のようなものですが、これをやったら必ず遭難するとか、遭難原因はこれだ!というような決定的な原因というのもあまり無いものです。
遭難事故は些細な判断ミスや小さな間違いが積み重なって、それら1つずつの間違いは大したことがないのに、最終的に遭難者を事故まで追い詰めてしまう。解かりやすい決定的な原因があれば対策も簡単なのでしょうが、気づかないような些細なミスを根絶することはほぼ不可能です。
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山に登る人たちは、そんな風に『安全』の落ち穂拾いをしながら、一方で『些細な間違い』を積み重ねながら、その両方のバランスの上で綱渡りをしているのだろうと思います。しかしその両方共、自覚的に登っている人は残念ながら少ない状況なのかもしれません。
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8000m峰14座全山登頂を最初に成し遂げたラインホルト・メスナーの自伝のタイトルは、『登った』ではなく、『生きた、還った』でした。
途中で下山することを恐れず、少しでも不安があれば無理しない登山を続ければ、そのうち登ることもできます。ダメならさっさと帰る。山頂や計画行動に囚われない考え方も、登山の大事な要素である自由の一部だと思います。
ボナッティさん
「最も心に留めておきたいのは、遭難することへの恐怖感、常に失わない山への畏怖。模範的で優秀な登山者でも遠慮無く殺してしまう自然の圧倒的な理不尽さには、人間は無力です。その怖さを知って、怖さを乗り越える工夫と努力を求められるのだろうと思います。」
ここのところ、強く同意します。むしろ、日常で得られない根源的な畏れ、危機感、不安、そしてそれから帰ってくる充足感こそが、山登りの魅力の核になるのではないかなと思います。
だから、畏れをごまかすGPSや、ビーコンやクマスプレーのようなものは、余計なものに思えます。山伏の時代から、山の魅力はそこにあると思っています。
少しずつ危ない目に逢って、生身の能力を磨くしかないと思います。
ガイドさんなんですね。いろんな取組やいろんな人と触れていろいろそれぞれ事情もあると思いますが、確かに、安全の落ち穂拾いの作法から身につけるのが、できることのすべてだと思います。
yoneyamaさん
はじめまして、ボナッティと名乗るのは畏れ多いので”ボナッテ”にしております。県の山岳連盟講習会などでガイド講師をさせて頂く程度なのですが、一昨年辺りから山の雰囲気が変わったなぁ〜と感じています。
良くなったか悪くなったかではなくて、前とは違う世界になってゆくように感じます。冬山ではまだそれほど感じませんが、夏山では特に変化を感じるし、yoneyamaさんの書いておられる自分の”生身の能力”を意識せず、信頼もしていない山登りの仕方をたまたま見かけると「これはちょっとまずいぞ...」と感じながら何もできない現状です。前の日記にも書いたのですが、経験者顔で人に教えるのも難しいものですね。
自分の”生身の能力”を感じ取ることは、それを進めてゆけば山や自然と自分との境目が無くなってしまうことだろうと思いますが、そんな観念的なことを言うと変人扱いされそうで...
yoneyamaさんのご指摘の部分は、剱御前の親爺さんの言葉が元なのですが、昨年真砂の雪崩事故の時に「もっとよく雪を見るべきでしたね」と私が言うと「そんなこと勉強しても山にとっては関係ないわ」という意味のことを言われました。またその時「山を閉める時期を間違っているのではないか...」とも呟いておられました。
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