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今コロナ禍の中にあっては当方も自粛やむなしということで、運動は自宅近辺を、夜中の人がいない時間を見計らってジョギングすることだけに控えています。実際問題、そのジョギングすらも許されるのか、ここ最近は自問するばかりです。
多くの方の日記を読ませていただき、現状の登山に対する意見については次の2パターンに分けられているのかと思います。
・山は3密ではないため、自家用車で行けば問題ない。
・そもそも家から出るな。
登山の是非についていえば、私は現状は自粛すべき派であるため、自粛不要派にとっては本文書はかなり気分を害されることになるかもしれません。しかしながら、登山の全ては自己責任という範疇にはおさまらない行為であることを、思い出してみるといかがでしょうか。
山は3密ではない。確かに山というスケールで見れば、人口密度はほぼ0に等しいものでしょう。しかしながら、実際に山を歩くとなると、駐車場、登山道、休憩所、山頂と、歩ける場所は限定されるわけです。
駐車場から考えてみれば、トイレがあればそこは最も汚染されやすい場所であることは間違いありません。他には水飲み場や、駐車場の受付等もあるようなところでは接触確率は必然と高まることでしょう。
登山道については追い越しやすれ違い等があり、極めて限定的な時間ではありますが、これも当然接触することになります。2m以上離れれば安全というのは絶対ではなく、また、登山道も場所によっては道から外れることはできないことになります。万が一接触しようものなら、下山するまでは手指を洗うことはできません。
休憩所はどうか。広いスペースがあるようなところばかりではないかつ、椅子やトイレ等、これらもまた多くの人が触れるものだったりします。
山頂については言わずもがなです。広い山頂をもつ山もありますが、両神山のようにかなり狭い山頂の場所もあるわけです。
また、様々な議論を見て行く中で、割と意識されていないのか「遭難する」というリスクそのものが包含されていない議論を多く見受けられました。例え低山であっても、そこが高尾山であっても遭難するときは遭難するのです。万に一つも自分だけは遭難しないという状況にあっても、他者が転んだ、何かを上から落とした、襲い掛かってきた(これはないか)状況に遭遇した場合は、百戦錬磨の登山家であっても遭難となるでしょう。その時、不幸にも遭難してしまった貴方は医療の恩恵を受けられないばかりか、本来必要のない登山という行為をした挙句、医療リソースを圧迫してしまうことにもなりかねないのです。もしかしたら感染していて、しかも無自覚症状の場合だった暁には...。
私も山は大好きですし、毎日通勤の時、空気の晴れた中に見える浅間山、八ヶ岳、西上州を見るだけでやるせない気持ちになります。しかし、今は我慢しなければならない時であり、医療リソースの崩壊を防ぐためにも、全員が協力しなければならない時代なのです。きっとコロナ禍はしばらくおさまりません。夏になれば、という意見もありますが、高温多湿の地域でも猛威をふるっている状況を鑑みると、かなり厳しいだろうという状況です。そんな最中、我々が出来ることは、いかに感染拡大を抑えつつ、銀の弾丸、つまり特効薬が出来ることを、3密を避け、家から出ないで待ち続けることが最大の社会貢献になるわけです。
きっとこんなことを書かれるまでもなく、絶対的多数は「登山は不要不急」というのは理解しているはずです。それでも足が向いてしまうのは、決して理解できないわけではありません。残念ながら、「山は逃げる」のです。その時、その状況というのは2度とこない、つまり時間は絶対に取り戻せないのです。それでも我慢することが社会に生きるものの義務であり、我々を人間たらしめるものであることをもう一度思い出す必要があるのではないかと、というところでしめたいと思います。
N_tsukachan様 はじめまして。
私も家から北アルプス、四阿山、北信五岳など見えるところに住んでおります。ここ2-3週間、山行はどこまで許される?家から自分の足で行ける里山は日常生活の範囲内?その他、山行を自分で正当化するいろいろな理由(口実)を考えてしまう自分と、いやいやこの時期の山行はどうなの?ともやもやしながらの日々を送っておりました。
そんなもやもやな感情に対して
>それでも我慢することが社会に生きるものの義務であり、我々を人間たらしめるものであることをもう一度思い出す必要があるのではないか
N_tsukachan様のこの一文、心に落ちました。私の感じていたもやもやを解消する手がかりになるような気がいたします。
上手く表現できませんが、お礼を言いたくてコメントさせていただきました。
midori1001様 コメントありがとうございます。
私の拙い文書が誰かの助けになれば、幸いでございます。思考を文書化することは思考を整理することになると、そう考えておりますゆえ、自分を落ち着けるためにも今回のような日記を投稿するに至りました。
私もそうですが、成長するにつれ我慢を覚えるものの、不思議と大人になって時間が経つと、我慢することを忘れてしまうことがあるような気がします。
それは大人になり、色々と力を付けたにも関わらず、使う機会を得られず、そして周囲から押し付けられる不条理や理不尽から来るストレスが原因なのかもしれません。
しかし子供と違い、大人になってから我慢できずに起こす事は往々にして大事になるような気がします。例えば煽り運転もその一つなのではないかと、個人的には思います。
今恐れることがあるとすれば、この状況が長くなればなるほど、我慢の限界を迎えてしまう人が出てくることかなとも考えています。そして我慢できなくなった人たちの集合というのは、いかなるものごとを引き起こすのか...。
我々は動物ではあるものの、獣であってはならない、ということは絶対忘れないようにしたいと考えています。
N_tsukachanさん こんにちは。
再度のコメントをありがとうございます。
我慢に耐えきれずに(辛抱できずに)行動を起こしてしまうこと、よく言われる表現ですが、自由と自分勝手を混同しているケースも多いのかもしれません。多分に、私も日々の行動を省みるに自由と自分勝手をはき違えて行動していることもあろうと赤面するばかりです。
先の見えない我慢や辛抱は心が折れそうになりますが、社会を構成する一人の人間として、N_tsukachanさんのおっしゃる通り思考を整理して生活していくことがこの局面を乗り切る手立ての一つになりそうです。
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