北海道積丹岳遭難死の公判で、「悪天候が予想されたにもかかわらず不十分な装備で入山した男性の過失を認めたものの、道警山岳遭難救助隊が男性を乗せた搬送用そり一時的に固定した方法や、そばを離れた判断に過失があった」との二審判決後の道側の上告を最高裁が退ける決定をしました。
ネット上では「極限下での救助活動の過失を問うのはどうか」「病院での手術同意書のように遭難救助でも一筆必要だ」など、本件の判決には否定的な意見が大半のように思えます。
その一方で、「救助隊はプロである以上ミスは許されない」「税金を払っているのだから救助して当たり前だ」との意見もあります。一部の警察嫌いの人の意見は無視するとして、本件に道警の過失があったのは事実ですから、司法では過失認定しかしない以上、今回の判決は予想できる結果でした。
でも私が着目したのは、山と下界との救助に司法が線を引かなかったという点です。ご存じの通り山は自己責任の世界です。であるならば、山での救助では遭難者が100%責任を負うべきです。でも司法はそうはしなかった、当然です。山は自己責任というのは山屋が自ら発するものであって、世間にとやかく言われるものではないからです。だから、司法も遭難者に全ての責任があるとは判断しなかったと思います。
山を愛する者としては釈然としませんが、これが現実です。危惧されるのは、救助側の不作為や登山道などの管理責任が今後、問われるようになるということです。そうなれば、過失認定を避けるため行政が行うのは規制しかありません。入山規制はもとより、登山届提出義務化もいっそう法制化されるかと思います。勿論、過失を問われるのであればボランテイアでは救助に行かないという例も増えるかと思います。
それ以上に厳しいのは世間の目かもしれません。少なくともメディアの報道だけで判断している方は「身勝手な者が山で遭難してしかも損害賠償すら行っている」という思いしかありません。遺族の主張や道警の主張を詳細に確認すれば、そんな短絡的な判断にはならないかもしれませんが、登山しない方がそこまで確認することはないのでしょう。そして「身勝手な者=登山者」と十把一絡げに語られる。悲しいですね。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6222771
masutyannさん、こんばんは!
これ、難しい問題ですね〜。
今回の最高裁の判断ですが、私も複雑な思いで受け止めました。(えっ、まさか って思いました)
登山は100%遊びです。自分の遊びで遭難して救助者に多大の苦労を与え、時には危険にも曝し、しかも多額の血税を消費する・・・、そして救助に過失があったら損害賠償が請求される・・、その賠償金まで税金から支払うのかよ・・、何とも割り切れない気持ちです。
でも、おっしゃるように、我々登山者の言う自己責任って、今の日本では最初から意味をなしてなかったですよね。
自己責任ですから、救助しなくて結構です、ああ、そうですね、なんてあり得ないわけだし。
このことが法的にも明確になったのには、少なからず意義があったのかも。
結局、我々登山者がやれることは、事故を起こさぬように慎重の上にも慎重を期す、こんな平凡なことしかなさそうですね。
f15eagle さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
登山者の大半は今回の判決を不満に感じるかと思います。でも自己責任ってたとえ登山者自身が意識していても家族に求めるのは無理だと思います。
家族をも納得できる安全管理、完璧は無理としても我々登山者ができることは、それしかないですね。
masutyannさん、こんばんわ。
この問題、裁判官はもちろんですが、メディアにも問題ありだと思います。
ネットのニュースには「スノーボードをするため入山して遭難。道警の救助隊が発見して下山する途中、男性を乗せたストレッチャーがくくり付けた木から離れ、滑落した。男性は発見されたが、凍死が確認された。」としか書かれていません。誰が読んでも救助側に落ち度があったんだろう?としか読めません。が、事実関係を追っていくとどうも極限状態の中での出来事であって、ミスとは言えないとも思えます。実際のところ事実関係はどうなのか。詳細をきめ細かく知りたいところです。
k-yamaneさん、こんちには。いつもありがとうございます。
本件の救助は、雪庇踏み抜きと確保の問題を抜きにしては問題を語れないかと思いますがメディアはそれをしない。事実を伝えるという意味では過失認定したということだけを伝えるのも間違いではないかもしれませんが、不親切だと思います。
極限状態という部分については、意見が分かれるところかと思います。理想論なら極限状態でも助けるのが警察の仕事、道警のの方には失礼ですがその状況下で救助できるだけの技量がなかったということになります。一方、そもそも論なら救助できるだけの技量がなければ警察が助けにいく必要はない(できない)ってことになります。
残念ながらこうした訴訟は今後増えると思いますので、ますます登山者というだけで批判対象にになり得るかと思うと残念でなりません。
司法は、具体的な事件に法を(可及的に機械的に)当てはめて究極的な事件の解決を目指す機関であるから、これへの(不法在留者への退去処分に対する一部マスコミなどによる)「温情がない」などという感情的な批判は(お上権威崇拝主義、自己判断放棄、他力主義、国親思想であり)的外れである。(感情的な司法が出現し、司法がこの感情により不安定化し、ひいては社会の安定が損なわれる。裁判所(官)・時により判決が異なるなら、判決を取ることは運任せになり、人々は自力救済に走るだろう)
本件は、最高裁ホームページでの判決の発表もなく、判例雑誌の論評もなく、マスコミ関係の記事だけで何とも言えないが、民事訴訟であるから弁論主義により救助隊の過失(予見可能性・回避可能性)のみが論点となり、裁判所はその職務を(できるだけ感情を入れず)果たしたのではなかろうか。
要救助者の過失も相殺されたのかも知れないが、動けない状態に近いのであれば、この過失を考慮する必要は乏しいだろう。(その要救助状況の判断から救助計画の組み立て、遂行までが訴訟における弁論の対象だったのだろう)
このような司法の役目も理解せず定義の曖昧な自己責任論などで感情的に推論・願望を積み重ねても全く無意味である。
他方、(自己責任なるものに対する)立法論としては、「すべての山にグレードを付して、それぞれの山に登ることができる資格(級)とこのための試験を設定し、自己の資格を越えた山に許可なく立ち入る者は処罰して禁圧し、もって山岳遭難の撲滅を目指す」、とか、「自己責任とは、完全に自力で下山できる結果を意味すると定義し、この結果を招来できず、遭難し救助要請をした者は自賠責法のように過失を推定する規定を置き、その後の費用回収や訴訟など処理に活かす」などということもあり得る。
これでは、誰も山に登らず、国民の足が衰え、高齢化社会を迎えて医療費が増大するので、どんな山にも携帯アンテナを設置し、どんな軽装、愚計画で山に入ろうとも国費で救助し、仮に救助隊に過失があっても補てんし、国民の足と健康増進に資する、というのもあり得る。(医療費の増大推計と総救助費用推計の比較衡量になろう)
これらの中庸は無論あり得る。
この判決を契機に、レッテル貼りなどに誘導されない感情的ではない議論が行われ、世論が形成され、必要であれば立法すべき状態が現れるなら、討論と妥協を手段とする立憲民主主義と言えるかもしれない。
240さん、初めまして。コメントありがとうございます。
司法の役割等に関してはおっしゃる通りです。その上で自己責任については、山屋の世界では立法化していないからこそ意義があったもので、人様に左右されず自律すべきものです。定義があればその責任は明確になりますが、それはもはや従前のものとは全く別物です。
ただし、本件判決で山屋の世界でしか通用しない責任論は否定されました。240さんのおっしゃるような立法化なども必要となるかもしれません。(人権派の有識者は反対するでしょうが)それも時代の流れ、この状況を引き起こしたのは登山者に他ならないからです。
山岳遭難を激減させるためには、登山を資格制にしても構わないと思います。足が衰える方は下界で運動していただければいい、救助されることが前提の登山なんてあり得ません。
ただ、ここはヤマレコという山好きの者が集まるサイトです。登山に関する情報をみんなで集めて、みんなで共有する場所です。私は問題提起はしましたが議論は望んでおりません。
最初に、誠実な返答に感謝する。
さて
「自己責任については、山屋の世界では立法化していないからこそ意義があった」
否定する。
立法化されていない慣習法も、それが存在し定着していることが主張立証されれば、裁判所はこれを法源として考慮する。
「定義があればその責任は明確になりますが、それはもはや従前のものとは全く別物です。」
否定する。
定義付により「従前のものとは全く別物」になるはずもない。全く意味不明である。
「本件判決で山屋の世界でしか通用しない責任論は否定されました。」
判決を読んでいないので確たることは述べられないが、定義付もされず、主張もされなかったのではないだろうか。
ゆえに、弁論主義の原則から、審理の対象ともならなかったのではないか。
ならば裁判所は否定のしようがない。
そうであるなら、今後のために登山者がどこまで「自己責任を負うか」をこの登山者が集まる登山者のためのサイトの中で議論し、議論が成熟し、閲覧者がそれに従ったのであれば過失相殺などの場面で、登山者に有利に訴訟が動くことがあってもよいように思う。
このサイトの議論やその結果に対する認識の定着具合などをプリントアウトして証拠提出する場合、立証もしやすいだろう。これが当方の眼目である。
「私は問題提起はしましたが議論は望んでおりません。」
問題提起だけして議論を望まぬ?では何をしたかったのだ?
何を問題提起したのさえ明確でない。
そこで、「自己責任とは安全に自己完結して下山する結果」を言うと、提案もしている。
あなたのぼんやり考えている自己責任のイメージに近いのではないか。
「(ヤマレコは)登山に関する情報をみんなで集めて、みんなで共有する場所です」
否定する。
討論と妥協により少数にも配慮し、そのうえで多数決で決し、その結果漏れた者を司法が救済し、あるいは多数の行き過ぎを司法が謙抑的に抑制することもある立憲民主主義において、問題提起とそれに続く討議は始まりである。
その議論の前提として「自己責任」という曖昧な言葉の定義付をすべきであるとも申し上げている。そうでなければ議論が空中戦になるからだ。
そして、インターネットは伊藤正己などの言う「自由な討論のための」パブリックフォーラムであることは公知である。当然このサイトも同じだ。
トコヤ政談的なものをお望みなのか、風呂敷を広げるだけで逃げているような印象を受ける。
知識が不足しているのであれば、加藤新太郎、佐藤幸治などを読めばよい。
そのうえで、文登研の事故の記録などを読めば理解が深まるだろう。
民事訴訟は、広く国民のための紛争解決ツールとして国が用意しているものであり、本人訴訟で行われることが原則になっている。
問題を感じて勉強したことは無駄になるまい。
ご自身の持論を展開するのに他者を誹謗するやり方は利用規約に違反しています。ヤマレコ管理者が定義した「登山に関する情報をみんなで集めて、みんなで共有する場所」であることを否定するならどうぞ、他サイトでお話ししてください。
masutyannさん、こんにちわ。
私も日記でも、この最高裁判決を取り上げました。私自身もイロイロ考えるところがありますが、参考までに一度目を通して下されば幸いです。
まぢか・・・!? 「山岳救助に過失」賠償確定
http://www.yamareco.com/modules/diary/107136-detail-132837
chony さん、こんばんは。コメントありがとうございます、
日記確認させていただきました。みなさん考え方に多少の差異はあるものの山を愛するものとして遭難と救助ってものに向き合っているなと感じました。
残念ながら登山者の中には、それに背を向けている人が多いのも現実です。入山規制、グレーディング、登山届の義務化〜どうしてこうなったのか目を覚ましていただきたい方が山ほどいるのですが、そういう人ほど無関心、無責任なのでしょうね。
こんばんは。
私はニュースに疎く、masutyannさんの日記により本件を知りました。感謝いたします。
考えさせられました。
私は、山の問題か否かにかかわらず、過失の認定があってもよいが、過失=責任に直結させずともよいと思うのです。例えばですが、死の淵にいる人を見事救い出した場合に、過失によって軽い怪我をさせてしまった場合に、その軽い怪我の責任が問われ、救助者が過失を認めた場合でも、救助者は責められるべきではないと思うのです。
「救助者がいなければどうなっていたか」の状況よりも、救助活動によりひどい状況に陥ったと推認される場合にのみ、過失の責任が問われてもよいかと思いました。今回のように山の遭難であれば、例えば救助しなければ亡くなっていたかもしれないが死体は遺族のもとに(白骨かもしれないが)戻ってきたかもしれないと推認して、その状況と比較して、救助活動によって噴火口へ要救助者を落下してしまい、戻ってくることができなくなった場合には過失の責任が問われてもしかたがないかな、と。
こんな考えは少数派かな。失礼しました。
kodamachanさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
より重き結果が生じた場合、過失を認める〜いいかもしれませんね。もっとも「助けてくれなかった方が良かった」なんて言われることが多数となれば、誰も助けに行きません。
今回、道警の過失を問われましたが、民間ボランティアの方も過失を問われる日が来るのかと思うと残念でなりません。
とんでもないことをしてくれたものです。
原告も司法も。
この国の過剰な事なかれ主義を助長するだけ。
とんでもないことをしてくれたものだ。
己が為したことの他者への悪影響を考えられないのはき違えた、元来の相互互助の精神を忘却した自由主義のなれの果て。
許しがたいことだ。
ひとまず、棄却した最高裁判事の名は明記していただきたい。今度の選挙の×をつけるためである。
これでは、山岳救助隊の方々の尽力に対し、余りに申し訳が立たない。
HHHさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
山を愛する者としては、最高裁って山を知らないの?という上告棄却かと思います。一方で救助側の過失があるのも事実です。
御嶽山噴火災害では遺族が国や県の過失を問う訴訟をおこしました。危惧していた流れかと思います。
北海道積丹岳遭難死の公判と御嶽山噴火災害の訴訟、司法が自己責任を否定することを非難する以前に、自己責任を放棄した登山者自身(および家族)にその責めがあるのかもしれません。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する