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2020年09月30日 01:23未分類全体に公開

茨川について覚書

2020.9.27(日)に茨川から伊勢谷を歩いた。
ある方の茨川についてのブログをたまたま見たら興味深いものだった。茨川という地名はもともと集落の名前であったようである。

茨川の歴史は意外に古く1100年ほど前まで遡る。弘仁元年の頃に近くで銀山が見つかり、その銀山の働き手のために4,5軒の茶屋ができたのが始まりのとされている。鉱山閉鎖後は木材中心の生活が廃村になるまで主な産業だったようである。
 伊勢谷を通り員弁岬という地に炭を担いで金銭に替え生活物資を購入し帰ってきたという。炭焼き道=生活道路だったのだろう。鈴鹿にはこんなところが多い。

 先々週、ふと図書館に寄り「石山本願寺合戦全史」という本に手が止まってしまいました。所謂、信長VS本願寺11年史である。秋の夜長、面白く読みふけるというとかっこいいが、仕事で疲れ、家事で疲れ、一節一節たどたどしく読んでいる。
 その中で、信長に味方した戦国武将の筒井順慶がいました。順慶は一応石山合戦では勝利を収めています。その後、関ヶ原の戦いでは家康方に着いたようである。(この経緯はわからぬが、翻るということは戦国時代よくあることだ)
 日和見主義者だということで地族を引き連れて、世を忍ぶように君ヶ畑の奥深い山を越えこの茨川に身を隠したのだそうだ。なので茨川には筒井の姓を名乗る人が多かったのだそうだ。多いといっても茨川集落は10戸ほどで50人が暮らしていたそうです。
 また、鈴鹿の紹介本によると筒井峠で暮らしていた人が茨川に移り住んだと紹介してあった。
 私の謎がまた一つ解明された瞬間でありました。おそらく筒井峠というのは、筒井順慶さんの地族が暮らしていたところなのだろう。すれば君ヶ畑の奥深い山々を超えて茨川にたどり着いたことと話が合致するのである。
 私は、昨年山友のPさんと筒井峠から茨川までを数回に分けて歩きました。
 筒井峠から茨川までは昔の山慣れした人は、一日で歩けるかもしれないがいくつも山と谷、峠を越えなければならないので想像を絶します。順慶の14代目にあたる筒井みつ江さんと仰る方が廃村内の案内をされていたことがあるそうです。みつ江さんの話によると尺を超えるイワナが沢山釣れたそうですが今はイワナはいなくなったそうです。

 廃村になったのは昭和38年8月7日。昭和28年に茨川林道ができ、この林道ができた目論見は集落10件のためではなく、その先にあるし資源調達である。林道とともにやってきたのがダンプカーであり、チェーンソウを携えて来た。仕事は楽になり早くなった。炭焼きが毎日来るダンプカーに間に合わず木をそのまま伐採して持って行ってしまう。戦後高度経済成長期、需要があったためであろう。そして山は丸裸になりダンプは来なくなってしまった。残された茨川の人たちは、現金収入の道が途絶え1件また1件と茨川を離れていったそうである。これが廃村の経緯というか1000年以上続いた茨川の歴史の終焉である。それと同時に伊勢谷のの炭焼き道も登山者以外使われなくなったのだろう。治山事業はされるものの旧道の整備はされていない。

 ふと先日、茨川を周回し終え茨川でコーヒーを飲みながら一服。すると自分が小学2年生頃、父から聞いた話を思い出す。当時父は、鈴鹿の河原で面白い形や色の石ころをたくさん拾ってきた。それを紙やすりで磨きニスを塗って床の間の飾りにしていた。また流木を拾ってきては、石ころ同様に磨いてニスを塗り花台などを作って楽しんでいた。父が茶の間で鈴鹿に行ってきた場所を話し出した。鈴鹿の山奥に人が住んでる所がありそこには、学校もあり云々・・・記憶も定かではないが、学校もありが特に印象に残り今でも記憶しているのはその部分。集落の事であろう。鈴鹿の北の方でずっと奥に歩いて入り多聞鉱山跡の話もしたかも、集落にたどり着き、集落の風景の話をし河原で色々と重い石を拾ってきた云々と。子供心にその話を聞いて想像を膨らませた風景が不思議と茨川と合致するのである。私は伊勢谷を歩き、その場所が茨川で間違いないと思った。またそうあってほしいなぁと・・・長年探っていた父の足跡をやっとたどれ肩の荷が下りたような気がしました。

 だから、私にとっては茨川は特別な場所になりました。また、コーヒーだけでも飲みに行きたい。今は石ころを拾えない時代になりました。
 
 


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